CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5 - 6
※この物語はフィクションです。


 
11月下旬、イギリス───ロンドン中心部から北西約80kmに位置するシルバーストーンは、「靴の聖地」として知られるノーサンプトン州ノーサンプトンの南にある小さな村だ。その上空を1機のヘリコプターが真っ直ぐ北西へと向かって飛行していた。ヘリの後部座席には、ノータイで薄いグレーのスーツを着て、レイバンのサングラスをかけた東洋人の中年男が座っている。彼が落ち着かない様子で見た左手首の腕時計は午後1時を回っていた。
「あとどれぐらいで着きそうなんだ?」男はぎこちない英語で2人のパイロットに尋ねた。
「数分後です。」パイロットの1人が答えた。
「……そうか。」男はそう言うと、口を尖らせながら窓の方へと目をやり、眼下に広がる広大な田園風景を見下ろした。ヘリに乗り込んでからの時間はそれほど長いわけではなかったが、彼は東京からロンドンまで直行便で11時間かけてやってきて、そのまま空港内にあるヘリポートからヘリに乗っているのだ。彼は逸る気持ちを抑えきれずに、狭いヘリの中で貧乏揺すりをしていた。それほど彼は、目的地への到着を今か今かと待ちわびていたのだった。
「見えてきましたよ」パイロットが言った。それを聞いた男は思わず「おお!」と感嘆の声を挙げ、後ろから身を乗り出すように操縦席の間から前方の眼下を眺めた。田園風景のど真ん中に、潰れた五角形のような形をした飛行場に似た施設が見えた。それは、かつては実際にイギリス空軍の飛行場として使われていたが、今はF1イギリスグランプリの舞台として知られ、また1950年にF1グランプリが初開催されたモータースポーツの聖地、シルバーストーン・サーキットだった。
 
 
 シルバーストーン・サーキットでは現在、F1のオフシーズン合同テストが行われている。F1グランプリシーズンが終わってまだ間もないこの時期の合同テストは異例のことだ。というのも、今回のテストは新たにF1界に名乗りを挙げた日本の新興チーム、マツダイラがここシルバーストーンでマシンの新車発表とシェイクダウンをするのに合わせ、急遽カレンダーに加えられたものだったからだ。ただし、マツダイラを除く参加チームはザウバー、ジョーダン、リジェといった中堅以下のチームのみ。トップチームの登場は12月上旬から始まるスペイン・バルセロナでの合同テストまで待たなければならない。テストは今日が4日目で、ザウバーとジョーダンは初日からテストをおこなっており、マツダイラが3日目から加わり、今日の4日目からはさらにリジェも加わって、計4チームが顔を揃えたことになる。
 ザウバー、ジョーダン、リジェが、今シーズンを戦い終えたばかりのマシンに新型パーツや新しいエンジンを搭載し、それぞれ2台ずつ走らせて順調にテストをこなす中、唯一2台の新型マシンを持ち込んでいたマツダイラだけが、マシンを2台ともピットガレージの中に収めていた。昨日シェイクダウンしたばかりの新型マシン『MS−P2』に搭載されたハートV8エンジンは沈黙し、工具の金属音だけが時折響くだけだった。
 彼らにとっては2日目のテストとなる今日は、午前中に1台がメカニカルトラブルに見舞われたため、同じ構造のもう1台のマシンもガレージに呼び戻して検証していたのだが、午後になってもマシンは止まったままだった。今回のテストで指揮を任されていたテクニカル・ディレクターの神宮庄之助は、ピットレーンを挟んでホームストレート側のウォール沿いに設営されたオペレーティングブースに座ったまま、甲高いエグゾーストノートを響かせてホームストレートを通過していくライバルチームたちのマシンを、苦虫を噛み潰したような表情で見送っていた。
 そのエグゾーストノートに紛れて、上空からヘリのローター音が聞こえてきた。神宮が眩しそうにブースから身を乗り出して空を見上げると、1機のヘリが低空でマツダイラのピットガレージを横切るように裏手へと消えていった。
「今の、うちのヘリでしたよね。」神宮のそばに立っていたイギリス人メカニックが言った。
「……松平じゃねえか?」神宮は答えた。
 
 神宮の予想通り、程なくしてマツダイラのチーム監督、松平健がピットガレージに到着した。彼は薄いグレーのスーツの上にベージュのコートを羽織り、焦げ茶色のマフラーを巻き、さらに手には黒い革手袋という如何にも寒そうないでたちで現れ、そのまま真っ直ぐにオペレーティングブースに歩み寄ると、ブースに座る神宮を見上げて声をかけた。
「やあショーさん、遅くなってすまないね。」松平の口から白い息がこぼれた。
「よう、お疲れさん。奥さんと話はできたのか?」神宮は軽く片手を挙げて松平を迎えた。
「何だ、気づいてたのか……。」神宮の言葉に、松平は苦笑した。
「そりゃあ、お前とは長い付き合いだからな。」神宮も笑みを浮かべる。
「女房とは何とかなりそうだよ。心配かけたな。」
「そうか、それは何よりだ。」
「そんなことより、テストの方は順調かい?」
「いや、順調とは言えねえなあ……。」神宮は渋い表情でガレージを見た。
「浮かない顔だな。今はどういう状態なんだ?」神宮の言葉に松平もガレージに目を向ける。確かにマシンが2台ともガレージに留まっているという状況は、順調ではないのは明らかだ。
「見ての通り、休憩さ。」神宮はそっけなく答えた。
「何かあったの?」松平は眉をひそめた。
「……まあ座れや。」神宮はそう言ってブースの長椅子をパンパンと叩いた。松平は言われた通りに段差を登って神宮の隣に腰を下ろした。
 
「昨日のシェイクダウンではノートラブルだったんだが、今日の午前中、2号車に駆動系統のトラブルが出た。走行中に突然動力がリアタイヤに伝わらなくなってな、コース脇で動かなくなっちまったから、クレーン車でガレージまで戻したんだ。念のためトラブルが出ていない1号車もガレージに呼び戻して検証しているんだが、まだ解決していない。」
「ボーン博士は何て言ってるんだ?」
「1号車に比べて2号車のギアボックスがかなり摩耗しているらしい。特に1速から3速までの摩耗がひどくて、おそらく減速時の負担が原因だろうと言ってた。」
「今までそんなトラブル出たことなかったんだけどなあ。ギアボックスは旧型のMS−P1で十分テストしたものを装着しているから、問題ないはずなんだが……」松平は首をかしげた。
「個体の欠陥か、あるいはドライビングスタイルによるものか……」神宮はつぶやく。
「……2号車ってことは、アンディが乗っていた方か。」
「そうだ。」
「……なるほどな。今まではカッズ1人が走り込んだデータしかなかったが、今回のテストからアンディが加わったから、今まではなかった新たなトラブルが出てもおかしくはないか。ドライビングスタイルなんて十人十色だからな。それにF1マシンは普通乗用車と違ってデリケートだから、ドライビングスタイルの違いがマシンに及ぼす影響も如実に表れるだろう。」
「……だな。実際テレメトリーを比べてみると、カッズに比べてアンディの方がシフトダウンするときのエンジン回転数が低い。というか、速度に対してシフトダウンのタイミングがかなり早いということだな。」
「……だけど、別に早すぎるってほどでもないんでしょ?」
「ああ、常識的なタイミングだと思う。むしろカッズのシフトダウンが緩やかすぎなのかも。カッズはF1での実戦経験がないから、マシンを労りすぎているのかもしれないな。」
「それに比べてアンディはF1出走200戦以上の強者だからな。しかもアグレッシブなタイプのドライバーだから、マシンにかかる負担はカッズよりも相当大きいだろう。」
「……で、どうするよ?」神宮は腕組みをして松平に聞いた。
「いずれにしても、ちょっと荒っぽい走りをしただけでギアボックスが悲鳴を挙げるんじゃ話にならないよ。実際のレースではコーナー手前のブレーキ勝負でオーバーテイクしたりするんだから、とてもじゃないが今のままじゃ1レースも持たない。うちのギアボックスに問題があるのは明らかだ。とりあえずギアボックスはファクトリーに帰ってからじっくり調べることにして、今回はスペアと取り替えて、アンディには今回のテストではもう少しシフトダウンを緩めるように指示して、このままテストを続けるしかないな。」松平は冷静に答えた。
「そうだな、他にもテストメニューは山ほどあるからな。」神宮は深いため息をついた。
 
 マツダイラはこれまで、ドイツF3チャンピオンの新鋭ミハエル・カッズ・クーンをテストドライバーに起用して、日本国内の自社サーキットで単独でのテストとマシン開発をおこなってきたが、今回の初めての他チームとの合同テストでは、新たに35歳のベテラン、アンドレア・デ・チェザリスを起用した。だが、チェザリスは過去208戦というF1出走のうち実に134回もリタイヤしており、よくマシンを壊していたことから“壊し屋アンディ”という不名誉な異名を持っている。今回のテストでも、2日目にチェザリスのマシンがコース上でストップした光景を見た者の中には、「またチェザリスか」と思った者もいたに違いない。
 しかし、今回のチェザリスに起こったマシントラブルは、新型マシンのシェイクダウンには付き物の初期トラブルであり、まだ信頼性がまったくない状態のマシンに様々なトラブルが発生するのは致し方ないことなのだ。そして、むしろ早い段階にトラブルが出て問題のある箇所が判明してくれた方が、早い段階でその問題に対処し改良することができるのだ。もし仮に、こういったマシンの構造上の問題点がシーズンの真っ只中に発覚してしまったら、グランプリを戦いながら同時に改良をしなければならない上に、すでに改善不可能な状態になってしまっていることもあり、その問題を解決できないままシーズンを過ごすことを余儀なくされることもある。早期発見と早期治療、マシントラブルも、人間の病気と同じなのである。
 
「……ところで、ラップタイムはどんな感じなの?」松平はガレージを向いていた身体を反転させ、長椅子をまたいでホームストレートに向いて座り直すと、様々な計器が並ぶブースの頭上にあるタイミングモニターに目を向けた。
「これまでのMS−P2のファステストタイムは、昨日アンディがマークした1分28秒998だ。燃料は10周分以上は積んでいたはずだ。このタイムは今回のテストではまだ誰にも破られていない。つまり現時点ではトップタイムだ。」
「すごいじゃん。うちの非力なハートV8エンジンで、最強と名高いルノーV10エンジンを積んだリジェを抑えて、堂々のトップタイムか……。」
「初日の走り始めてまだ間もない段階でいきなり飛ばしやがって、冷や冷やもんだったぜ。」
「はははは、アンディらしいな。」
「その後はペースを落とさせてテストメニューに徹するように指示しているから、アベレージタイムは1分31秒台後半ってとこだ。」
「ふうん、それでもコンスタントに31秒台で走れているのか。」
「今はラップタイムなんて気にする必要はないだろう。うちらはまだそんな段階じゃない。」
「ああ、まあな。でも、初走行とはいえ、やっぱりタイムは気になるよ。何せ今回はグランプリが開催されるサーキットでの初の合同テストだからね。今までは自社コース『K−6』での単独テストだけだったから比較対象がなかったけど、オレたちが作り上げたMSがシルバーストーンでどれだけのタイムで走れるのか、ライバルチームのマシンと比べてどれだけ速いのか、あるいは遅いのか……F1マシンを初めて作り上げた者にしかわからない興味だよ。」
「マシンの素性はいいことはわかったな。開発の方向性は間違ってない。何もないところからわずか1年足らずでこれほどのマシンを完成させるとは、大したもんだよ。」
「……あらら、珍しく褒めてくれるねえ。」松平が目を丸くして神宮の顔を見ると、神宮はわざとらしく顔をしかめて顔を逸らした。
「アホウ、初めてにしては上出来だって意味だよ。だがな、F1の技術は日進月歩だってことを忘れるなよ。今回うちの他にテストに参加しているマシンは、すべて今シーズンを戦い終えたマシンだ。つまり来シーズン用のレギュレーションに適合させた新型マシンはうちだけってことだ。しかしこの後の合同テストで徐々にライバルチームが新型マシンを投入してくれば、ラップタイムはさらに短縮されるだろう。そうなれば、昨日うちが出したタイムなんてかすんでしまうだろうよ。今大事なのはタイムじゃない。マシンを知り、マシンの問題点を洗い出すことだ。」神宮は冷めた目つきでそう言うと、頭上のタイミングモニターに目を向けた。その神宮の目の前で、たった今フィニッシュラインを通過したばかりのマシンのラップタイムがタイムテーブルの最上位に記録された。リジェ・ルノーに乗るオリビエ・パニスが、マツダイラのファステストタイムをコンマ2秒以上上回る1分28秒742をマークした。
「……ほら見ろ、言ったそばからこれだよ。」神宮は苦笑した。
 
 松平の指示に従い、マツダイラはトラブルのあったMS−P2・2号車のギアボックスをトラブルの原因が完全に判明しないまま交換し、アンドレア・デ・チェザリスには減速時に細心の注意を払うようアドバイスした上で、テストを再開することとなった。
 通常このようなテストでは、サスペンション、前後のウィング、車高、ギア比、ブレーキバランス、タイヤの空気圧といった様々なセッティングを試行錯誤して、よりコースに合ったマシンセッティングを導き出していくか、あるいは現状のマシンに新しいパーツを装着して、そのパーツの効果を見極めたり、信頼性を高めたりしていくのが常だ。しかしマツダイラの場合、まだ昨日初走行を終えたばかりの新型マシン、しかもコンストラクター(製造者)としての初めてのF1マシンである。それ故、例えばステアリングに付けられたいくつかのボタンを操作することによってマシンを制御する電装系統はうまく作動するか、各パーツは最大5Gにも及ぶ走行時にかかる重力に耐えられるか、もっと極端なことを言えば、ちゃんと平均速度200km/hでコース上をそつなく走り続けることができるのかといった、セッティングや信頼性向上以前の実に初歩的なテストをまだまだこなさなければならない。ギアボックスに不安を抱えたままだが、貴重な合同テストの時間を無駄にするわけにはいかないのである。

   

 
松平がガレージ裏の出口からパドックへ出ると、そこに待ち構えていたジャーナリストたちが容赦なく彼に群がり、マイクやボイスレコーダーを向け、我先にとコメントを求めた。松平は苦笑にも近い愛想笑いを振りまいて人だかりを引き連れ、モーターホームに向かって歩きながら、日本語と英語が入り交じった質問攻めを1つずつ聞き分けようと試みた。
「新型マシンの走りを見た今の率直な気持ちを教えて下さい。」
「ついさっきここに来たばかりだから、まだ何も見てないよ。」
「チェザリスはレギュラードライバーとして起用するんですか?」
「今はまだ何も決まっていない。」
「ミハエル・カッズ・クーンの評価をお願いします。」
「テストドライバーとしてはいい仕事をしてくれている。」
「レギュラードライバー候補はいますか?」
「んー、ノーコメント。」
「来年からの前倒し参戦はあり得ますか?」
「いや、それはない。参戦は予定通り再来年からだ。」
「昨日の走りを見る限り、来年からの参戦も十分可能だと思いますが……」
「来年1年かけてじっくり準備して、万全の体制を整えてデビューするよ。」
「デビューシーズンのエンジンはハートエンジンですか?」
「それもまだ決まっていない。」
「今日の午前中に起こったトラブルは何だったんですか?」
「ギアボックスのトラブルだと聞いている。」
「テスト再開の目途は立っているんですか?」
「もうまもなく再開するよ。そのために私もユニフォームに着替えに来たんだ。」松平はモータホームの入り口に辿り着くと、ステップを2〜3段上がったところでくるりと身体を反転させ、ジャーナリストたちを見下ろして宣言した。
「今日のテストが終わってから、キーメンバーを交えて改めて記者会見をおこないます。詳しいお話はその時に伺いましょう。では皆さん、後ほど。」松平の言葉に、集まったジャーナリストたちは諦めた様子で各々パドックに散っていく。ところが、その中でただ1人だけ、その場に残った者がいた。そして松平はその人物を知っていた。全米でトップクラスの売り上げを誇る総合自動車専門誌『モーターワールド』の編集者マキシ・レッドフォードだった。
 
「お久しぶりです、ミスター・マツダイラ。」マキシは流暢な日本語で口を開いた。
「ああ、あんたか。その節はずいぶんと世話になったね。昨年のクリスマス特集号、読んだよ。」松平は苦笑しながら答えた。
「あなたに無断で貴社のF1参戦をスクープしたことは、お詫びします。」マキシはそう言って日本の習慣に習って丁寧にお辞儀をした。
「……今となっては、どうでも良いことだ。少しでも『モーターワールド』の売り上げに貢献できたなら嬉しいがね。」松平は皮肉たっぷりで答えた。
「それはもう、アメリカ国内のみならず、他の国々でも販売部数が伸びましたよ。」
「それは何よりだ。」
「次の特集では、コッツウォルズにある貴社のファクトリーを取り上げさせていただきます。あいにくファクトリーの内部まではスクープできませんでしたけどね。」マキシは続けた。その言葉に、松平は思わず顔をしかめた。このマキシ・レッドフォードという男に、マツダイラが再来年からF1に新規参入するということや、そのために開発していたF1マシンの試作機や静岡県にある自社サーキットをスクープされて公にされてしまったあげく、まだその所在を極秘にしていたイギリス・コッツウォルズにあるマツダイラF1のファクトリー『マツダイラ・ユーロ』の存在まで突き止められてしまったのだ。
「……ハン、好きにしたらいいさ。ファクトリーが公になるのは時間の問題だ。あんたらの雑誌がその発信源になるというだけだよ。理想的なタイミングよりは、かなり早まりそうだがな。」松平は余裕とも取れる笑みを浮かべた。
「さっきも言ったが、これからテストを再開するんでね、わたしもユニフォームに着替えてピットに行かなければならない。悪いが失礼させてもらうよ。」松平はそう言って背を向け、モーターホームのステップを登ろうとした。
「ミスター・マツダイラ、もう一つだけお聞きしたいことがあるんです。」マキシは声を張り上げて松平を引き留めた。松平は立ち止まって振り返る。
「何だね?手短に頼むよ。」松平は苛立ちを隠そうとしなかった。マキシはそれを聞き、真剣な表情で松平の顔を見上げ、口を開いた。
 
 
「マーカス・ミッドフォールドという名前を、ご存じですよね?」マキシの言葉に、松平の表情が一瞬こわばった。しかし、彼は努めて冷静に、次の言葉を瞬時に頭の中で選び出した。
「……マーカス……なんだって?聞き覚えのない名前だが……。」松平は答えた。
「では、マッコイ・ナックという名前ならどうですか?」その問いに、松平は絶句した。
(……この男、何を掴んでいる……)松平は、自分のこめかみのあたりから、ひんやりとした嫌な汗がじわりと浸み出してくるのを感じた。(目の前にいるこの男は、明らかにマッコイ・ナック、すなわちマーカス・ミッドフィールドに関する何らかの情報を掴んでいる。そしてその秘密が公になれば、間違いなく我々は破滅する。……だが、もしこの男がマッコイ・ナックと我々を結ぶ証拠を握っていたら、ここでシラを切ればその嘘がばれてしまうことになる……この男、どこまで知っているんだ……?)2人の間には、異様な緊張感が漂っていた。
「ああ、マッコイ・ナックなら、我が社の従業員だよ。」松平は答えた。
「……だった、という方が正しいですよね。」マキシは松平に歩み寄った。
「その通りだ。彼はある事件に巻き込まれて不慮の死を遂げた。」
「東名高速道路を走行中に、何者かに狙撃されたんですよね?」
「そうらしいな。わたしも翌日の新聞を見て驚いたよ。優秀な人材だった、残念だ。」
「そのマッコイ・ナックという名前が実は偽名で、本名はマーカス・ミッドフォールド、以前ウィリアムズF1チームのマシン開発に携わり、ウィリアムズを解雇された際に、当時開発中だったマシンの設計データを持ち逃げしていたということは、ご存じでしたか?」
「……いや、初耳だな。」松平は慎重に言葉を絞り出した。
「そうですか。我々編集部は、マーカス・ミッドフィールドがウィリアムズから持ち出した設計データを基に、貴社が試作マシン『MS−P1』を開発した、つまり、これは産業スパイ行為であると疑っています。」マキシは松平を直視したままためらうことなく言い放った。
「……証拠はあるのかね?」松平は不敵な笑みを浮かべながら聞き返した。
「現在公表されているウィリアムズの当時のマシン『FW15』の三面図と、僕が貴社のテストコースで撮影したMS−P1の写真からそれぞれCADによる立体図を制作し、それを比較分析しました。当時まだ公開されてなかったはずの2つのマシンのプラットフォームが、見事に一致しましたよ。先に開発されていたFW15の設計データを基にMS−P1が作られていなければ、有り得ないことです。その立体図の合成写真をご覧に入れましょう。」マキシはそう言って自分の鞄を開け、A4サイズほどの封筒を取り出した。
「……いや、それには及ばんよ。」松平はマキシを制した。
「……認めるんですか?」マキシは手を止め、再び松平を見上げた。松平は深く息を吐いて腕を組み、モーターホームの壁に身体をも垂れかけた。それはまるで、冷静さを保つために身体の力を少しでも抜こうという試みにも思えた。
 
「……確かに、マッコイ・ナックはF1マシンの設計データを我が社に持ち込み、我が社への入社を希望した。だが彼はその設計データを、自分で考案したオリジナルだと言っていた。私は彼の持ち込んだ設計データを見て、その完成度に感心して彼を採用し、後にその設計データをMS−P1に取り入れた。しかし、それがウィリアムズから持ち出されたデータだったことは、私はおろか誰も知る由はなかった。今あんたに聞いて初めて知ったことだ。」
「……ほう、つまりあなたは、突然本社にやってきて入社を希望する謎のイギリス人を信用し、そしてそのイギリス人が持ち込んだアイデアを、貴社の社運を賭けたF1プロジェクトにいともあっさりと取り入れたと言うことですね?」
「その通りだ。おかしいかね?わたしはキャリアに関係なく、良い人材やアイデアは積極的に採用していくのが信念なのだがね?無論、持ち込まれたデータが後のFW15のものだったということを見抜けなかったのは私の落ち度だが、データは明らかに編集可能なマスターデータであることはすぐにわかったし、そんなデータがF1チームから流出していたなどとは夢にも思わなかったから、彼のオリジナルだと言われればそれを疑う理由はないし、データを見れば彼の才能は素晴らしい、ぜひ雇いたいと思うのは当然のことだ。」
「……しかし、貴社がF1参戦を計画していたということは、我々編集部がスクープするまでは公にはされていませんでしたよね?それなのになぜマーカス・ミッドフィールドは、貴社にF1マシンの設計データを持ち込んだのでしょうか?マーカス・ミッドフィールドは、貴社がF1参戦を計画しているという情報を、どこで知ったのでしょうか?」マキシの指摘に松平は口を尖らせ、無意識に顎の無精髭を手でいじり始めた。それはまるで、痛いところを突かれたとでも言いたげな様子だった。松平はしばしうつむき、そして返答を編み出した。
「……信じる信じないはあんたの勝手だが、マッコイ・ナックが我が社にF1マシンの設計データを持ち込んだのは、まさに偶然だったのだよ。」マキシが頑なにマーカス・ミッドフィールドと本名で語っているのに対し、松平はあくまでもその名は知らず、偽名しか認知していないと主張するかのように、意識的にマッコイ・ナックの名を使った。松平はうっかりボロを出さないよう、懸命に頭を働かせていたのだ。
「……偶然、とは?」マキシは容赦のない疑わしげな目つきで疑問をぶつける。
「彼は単に、日本で自動車の設計に携わる仕事を探していたようだ。しかしホンダやトヨタといった大手の自動車会社など、飛び込みで行ってもそう簡単に就職できるもんじゃない。そんなとき、当時オリジナルの市販車『イエヤス』『タケチヨ』をデトロイド・モーターショーに出展しようとしていた、小さなチューンナップ・パーツメーカーだった我が社の記事が彼の目に留まったようだ。彼は我が社のような新規参入の自動車メーカーなら、自分の才能が活かせるに違いないと考えたのだよ。そして彼は、我が社がF1への参戦を計画していることなど全く知らなかった。だから彼がF1マシンの設計図を持ち込んだのは、単に自動車の設計ができるということをアピールするための、面接の材料でしかなかったということだ。つまり我々がちょうどF1マシンの開発に着手し始めていたところに、彼が偶然にもF1マシンのデータを持ち込んできたと言うわけだ。」松平はそう言いながら、自分でもかなり無理のある言い訳だと思った。
「なるほど、ではミッドフィールドがウィリアムズから設計データを持ち逃げしたという事実を、あなたは知らなかった、つまり、スパイには関わっていないと言うことですね?」
「その通りだ。」松平は憮然とした表情で答えた。
「……ミスター・マツダイラ、あなたにもう一つ見ていただきたい物があります。」
「まだ何かあるのかね。私は早く着替えてピットに行きたいのだがね。」実際、松平は一刻も早くマキシの疑惑から逃げ出したい思いだった。
「申し訳ありませんが、もう少しお時間を頂きたい。お見せしたいのはこれです。」マキシはそう言って鞄の中から葉書サイズの封筒を取り出し、松平に手渡した。松平は訝しげに封筒の中身を取り出した。中に入っていたのは、1枚の写真だった。
「……こ、これはッ!」それを見た松平の顔は、一瞬にして驚愕の表情に変わった。松平はその動揺を全く隠すことができなかった。写真に写っていたのは、マーカス・ミッドフィールドがウィリアムズから開発中のマシン設計データを持ち出すという情報を松平にもたらし、さらにその持ち出されたデータを取引する手引きをした旧友、元イタリアンマフィアの幹部ジョルノ・フェレーラと松平自身が、一緒に肩を並べて笑っている光景だったのだ。
「……これをどこで……!」松平は愕然としてつぶやいた。
「……1人はミッドフィールド狙撃事件に関与し警察が行方を追っているイタリアンマフィアの幹部、そしてその人物と仲良く写っているのは、ミスター・マツダイラ、あなたですね。」
「……警察が!?どういうことだ!?」松平は驚いてマキシに聞き返した。そこに突然、モーターホームの陰から数人の男たちが姿を現した。男は4人で、4人とも黒かダークグレーといった暗い色調のコートに身を包み、全員が黒い中折れのソフトハットを被っていた。
 
「ミスター・ケン・マツダイラですな?」一番年輩と思われる男が松平に英語で声をかけた後、ソフトハットを取って深々とお辞儀をした。
「……あなた方は……」マキシは男たちを見て思わず目を丸くした。マキシはその男たちのうち、2人を知っていた。松平に声をかけた年輩の男ともう1人の若い男は、コッツウォルズでマキシに接触し、松平とジョルノ・フェレーラが写った写真を与えた
人物だったのだ。
「レッドフォードさん、感謝しますよ!あなたのおかげでようやくミスター・マツダイラに会うことができました。まさかF1チームの監督だとは思いもよりませんでしたぞ。」
「……あなた方は、僕をずっとマークしていたんですね!いつか僕がミスター・マツダイラと接触することをわかっていて!」マキシは声を荒げて抗議した。
「悪く思わないで欲しいレッドフォードさん、捜査のためです。」男はニヤリと笑った。
「……誰?」松平は困惑した表情で、マキシに日本語で囁いた。
「おっと!申し遅れましたな、私はインターポールのダニー・フェルドマンです。後ろにいるのは私の部下たちです。」フェルドマンと名乗る男はそう言ってコートの内ポケットから身分証明証を取り出し、松平に提示した。
「……シンガポールの方……?」松平は余計困惑した。
「インターポールです!国際警察機構のことですよ!」マキシは日本語で松平に教えた。
「ミスター・マツダイラ、今あなたが手にしている写真をレッドフォードさんに差し上げたのは、この私です。我々はあなたと一緒に写っているその人物を追っているのですよ。マーカス・ミッドフィールド狙撃事件の容疑者としてね。その人物、ジョルノ・フェレーラを知らないとは言わせませんぞ。」フェルドマンは低くいやらしい声で松平に迫った。松平は観念した。警察が出てきてしまっては、もはや言い訳のしようがなかった。下手に嘘をつけば、偽証罪か何かの罪で自分が犯罪者になってしまうのは明らかだ。
「……ジョルノは知っている。10年来の知り合いだ。しかし、彼と最後に会ったのはもう1年以上も前のことだ。この写真はその時にフランスで撮影したものだ。今彼がどこで何をしているのかは、全く知らない。」松平はカタコトの英語でフェルドマンに直接伝えた。そしてそれは本当のことだった。
「そうですか。詳しいことは警察署で聞くことにしましょう。ミスター・マツダイラ、ご同行願えますな?」フェルドマンはソフトハットの日差しの影からギラギラとした目を光らせた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!今からか?それは困る!私はこれから……」松平は慌てた。
「ミスター・マツダイラ、あなたは殺人事件の重要参考人なんですぞ!」フェルドマンは唸るような声でそう言った。
「……し、しかし……」松平は今にも泣きそうな情けない表情を見せた。
「お連れしろ。」フェルドマンが部下にそう言うと、背が高く恰幅の良い1人の男が、松平の背中に腕を回し、半ば強引に彼をその場から連れ出した。
「待って下さい!彼の英語力は十分ではありません!僕も同行させて下さい!」マキシは慌てて松平の後を追おうとしたが、もう1人のこれまた大きな男が前に立ちはだかった。マキシは呆然と立ち尽くしたまま、松平と4人の男たちがパドックを後にするのを見送るしかなかった。そして彼はハッと思い出し、急いでピットガレージへと走った。
 
 
 その頃、MS−P2・2号車のギアボックス交換を済ませ、テスト再開の準備がほぼ整ったマツダイラのピットガレージでは、チーム監督である松平がいつまで経ってもピットに戻って来ないことに戸惑っていた。オペレーティングブースに座っていた神宮が苛立たしげに腕組みをし、マシン設計を担当した小柄の老博士ハイド・ボーンもブースによじ登ってきた。
「松平は何をしているんでしょうか。もうかれこれ30分以上経ってますよ。」神宮は横に腰を下ろしたハイド・ボーンに声をかけた。
「日本からの長旅の疲れで、モーターホームで居眠りでもしてるんじゃないのかね?」ボーンはのんきに笑いながらそう言った。そこに、1人の背の高い男が駆け寄ってきた。
「ミスター・ジングウ!」男は息を切らせながら神宮に声をかけた。
「あんた誰?」神宮は男をブースの上から見下ろしながら尋ねた。
「失礼、僕は『モーターワールド』のマキシ・レッドフォードです。」マキシは答えた。
「おや、あんたか。また会ったな。」つい数日前にファクトリーでマキシと会っているボーンがマキシを思い出した。
「博士、お知り合いですか?」神宮はボーンに尋ねた。
「……ああ、まあな。」ボーンは歯切れ悪く答えた。
「ミスター・ジングウ、実はお伝えしたいことが。ちょっと大きな声では言えないことなのですが……。」マキシがそう言うと、神宮は不思議そうな顔をしながらブースを降りた。マキシは神宮に顔を近づけて神宮に耳打ちした。
「ミスター・マツダイラがたった今、国際警察に連行されました。」
「はあ!?」神宮は思わず大声を挙げてしまった。

   

 
シルバーストーン・サーキットの駐車場には、フロントガラス以外のすべての窓が黒いスモークが貼られている1台の黒いリンカーン・コンチネンタルが停まっていた。松平は大柄の男2人に挟まれるように、リンカーンの後部座席の真ん中に座らされた。若い部下が運転席に乗り込もうとするのを、フェルドマンが止めた。
「私が運転しよう。君は助手席に座りたまえ。」
「……はあ。」若い部下は言われたとおり助手席に回り、クルマに乗り込んだ。
 男5人を乗せたリンカーンはそのまま幹線道路のA43に出て北へ向かった。しばらく走ったところで、フェルドマンはチラリとルームミラーで後ろの部下に目を向けた。
「おい、その男に手錠をかけろ。」フェルドマンは言った。
「はっ!」後部座席の1人が、言われたとおり松平の両腕を手錠で拘束した。松平は不安と恐怖心でまったく抵抗することなく、手錠で繋がれた両腕を膝の上に置き、青ざめた顔に脂汗をにじませていた。
「部長、彼は重要参考人では?容疑者でもないのに、なぜ手錠をかけるのですか?」助手席の若い部下が慌てて上司に問いただした。
「これでいいんだよ。」フェルドマンは前を向いたまま答えた。
「……ターウェストン飛行場でヘリに乗り換えてスコットランドヤード(ロンドン警視庁)に向かうはずでは……道が逆です。それに、後ろに座っている2人は、一体何者ですか?」若い部下はさらに問いつめた。その問いに、フェルドマンは不気味な笑みを浮かべた。
「……私がこの事件の捜査部長に就任してから、君は私と常に一緒に行動し、非常によく働いてくれたよ。君は優秀な部下だった。おかげで仕事がやりやすかった。感謝しているよ。君と別れるのが残念だ。」フェルドマンは低い声でそう告げた。
「……部長、何を言っているんですか?」若い部下は訝しげな表情で聞き返した。フェルドマンはそれには返事をせず、再びチラリとルームミラーに目をやり、後ろに合図を送った。すると突然、若い部下の後ろに座っていた男が懐からロープを取り出し、いきなり前に座る若い部下の首にロープを巻き付け、シート越しに首を絞め始めた。若い部下は体を反らせて声にならない苦悶の音を漏らし、震える手で自分の首を締め付けているロープを必死で掴もうとした。
「お、おい!何してるんだ!」松平は驚いて叫び声を挙げシートから腰を浮かせたが、反対側に座っていた男がすかさず松平の身体を後ろから引っ張り、彼をシートに押し戻した。
「死にたくなかったらおとなしくしていろ。」男はそう言って、松平のこめかみに固いものを押しつけた。松平はその痛みを伴うゴリッとした感触に、それが拳銃であることを理解した。そして若い部下は程なくして脱力し、そのままピクリとも動かなくなった後、ほのかなアンモニア臭が車内に立ちこめた。脱力した若い部下の身体から尿が排泄されたのだ。
「……やれやれ、クルマを汚してくれたな……。」フェルドマンは平然とそう言ってクルマのサイドウィンドウを少しだけ開けて換気した。
 松平は目の前で人が殺される光景を一部始終目撃し、何も抵抗することもできず、目を大きく見開いたまま生唾を飲み込んだ。(この男たちは警察の人間なんかじゃない!オレも同じように殺されてしまうのか……冗談じゃない!何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ……)
 
 リンカーンはA45をしばらく走り続けた後、道を外れ、未舗装の道路に入った。森の中に延びる一本道を進んでいくと、やがて古い工場のような建物が建っている、開けた場所に出た。クルマはそこで停車し、フェルドマンはエンジンを止めてクルマから降りた。ドアを閉める振動で、助手席に座る若い部下の死体が揺れた。
「降りろ。」後部座席の男が1人降り、奥に座っていた男が再び松平の頭に拳銃を向けた。松平は言われた通り、両手を手錠で繋がれたまま動きにくそうにクルマから降りた。
 どうやら自分はこの古い工場の中に連れて行かれるらしい。この中で一体どんなことをされるのか想像もできないが、おそらくここが、自分の死に場所になるのだろう……。松平はクルマに揺られている間に、ある程度気持ちを落ち着かせることができた。しかしそれは、すでに死を覚悟した諦めから生まれたものでしかなかった。どうせ殺されるなら、苦しまずにひと思いに殺して欲しいと、松平は思った。
 
 建物の中は薄暗く、荒れ果てていた。無数の段ボールや材木、それに瓦礫や割れたガラスの破片などがそこら中に散乱していた。空気はとても埃っぽく、ガラスのない窓から差し込む光が、空気中を漂う埃を浮かび上がらせている。
 男の1人がどこからか1脚の椅子を持ってきて、松平に銃を向け座るよう命令した。松平が座ると、男はロープで松平の身体を椅子に縛り付けて固定した。これで手錠をされた松平は、もう自力でここから逃げ出すことはできなくなってしまった。
「お前たちは外で見張っていろ。」フェルドマンの命令で部下たちがそれぞれ建物の外へと出て行き、ただっ広い廃工場はフェルドマンと松平の2人だけとなった。
(絶望的だな……)松平は苦笑した。(これからどんな苦痛が待っているのだろうか……)
 
 
「……さて、ミスター・マツダイラ」フェルドマンは椅子に縛り付けられた松平の正面に立ち、松平を見下ろしながら口を開いた。「先程と同じ質問をさせてもらおう。ジョルノ・フェレーラは、今どこにいる?」とてもゆっくりで、唸るような低く不気味な声だった。
「……さっきも言ったが、ジョルノと最後に会ったのは1年前だ。今彼がどこにいるのか、私は何も知らない。」松平はフェルドマンの凍り付くような視線から顔を背けながら答えた。
「……フン!そんなはずはあるまい。フェレーラは我々が買収した元ウィリアムズF1のメカニック、マーカス・ミッドフィールドをそそのかし、ミッドフィールドが持ち出した極秘情報を貴様に売り渡すよう手引きしたのだろう。」
「あんたが何者か分かったよ。あんたは警察なんかじゃない、ジョルノと同じイタリアンマフィア、モンテール・カルロス一家の人間だな。あんたらはミッドフィールドにウィリアムズの新型マシンの極秘情報を持ち出させ、それをライバルチームであるフェラーリに引き渡すつもりだったんだろ?」松平は自分でも驚くほど冷静だった。
「……フッ、詳しいな。その通りだ。我々にとってフェラーリは特別なクライアントなのだよ。あの極秘情報があれば、フェラーリはF1で長い低迷から抜け出して再び強さを取り戻し、私はその手柄でファミリーでの地位を確立するはずだった。それをフェレーラと貴様がまんまとかっさらっていったのだ。おかげで私の面目は丸つぶれだよ。」フェルドマンの口調が威圧的になり、表情は怒りで歪んでいた。
「……それでジョルノを恨んでいるのか?」
「そうだ。私がどれほど恥をかかされたか、奴に思い知らせてやるのだよ。私は裏切りを許さない。裏切り者には死を、だ。」フェルドマンは悪魔のような笑みを浮かべた。
「……ハン、裏切り者……か。」松平は鼻で笑った。
「何が可笑しいんだね?」
「元々ジョルノを裏切ったのは、あんたの方だろう……。」
「何のことだ?」
「……あんた、ダン・クェイドだろ?」松平は核心に迫った。

   

「……貴様がその名前を知っているとはな……。」フェルドマンの表情から笑みが消えた。
「あんたは10年前、ジョルノを騙して毒入りのワインを持たせ、あんたらのボス、モンテール・カルロスの息子ポリーを殺させ、ジョルノを犯人として追放したんだ。私利私欲のために自分のボスの息子に手をかけ、さらに仲間にその罪をなすりつけるとはね……。」
「フフフフフ……フェレーラがそこまで貴様に話していたとは……どうやら私が思っていた以上に親密な関係らしいな!」フェルドマンは言い終わらないうちに松平の胸ぐらを掴み、椅子ごと松平を絞り上げた。「言えッ!フェレーラはどこだッ!」
「……たとえ知っていても……あんたに教える気はないね!」松平は苦しそうな声で言葉を絞り出した。フェルドマンの表情はみるみる激昂し、松平の頬を渾身の力で殴りつけた。松平は椅子ごと倒され、工場内に大きな音が響き渡った。
「私はフェレーラを殺し損ねたあの日から10年もの間、ポリー殺しの報復の命を受け、世界中を回って奴の行方を追い続けたのだッ!ところがだッ!奴は長い間行方をくらましておきながら、よりによって私の最大の仕事を台無しにして私を失墜させたのだッ!奴にはポリー殺しの犯人として死んでもらわねばならぬッ!」フェルドマンは叫びながら、倒れた松平の腹をめかげて容赦のない蹴りを何度も食らわせ、そのたびに松平の悲痛なうめき声がもれた。松平がぐったりしたのを見ると、フェルドマンは呼吸を整え、冷静さを取り戻した。
「……私はあらゆる情報網を使って、ようやく1年前にマーカス・ミッドフィールドがフランスでフェレーラと接触を持ち、その後日本に渡ったことを突き止めた。そしてフェレーラも情報網の網にかかり、我々を追って日本へとやってきたことがわかったのだ。あいにく日本ではフェレーラを取り逃がしてしまったが、奴はその後このイギリスへ渡ったことはわかっている。そしてもう1人、マーカス・ミッドフィールドを追っていたあのレッドフォードというアメリカ人もまた、イギリスへ渡った。そして辿り着いたのが、フェレーラと写真に写った貴様というわけだ。貴様はこのイギリスで、フェレーラと接触するつもりだったんだろう?」
「……ジョルノがイギリスにいるというのは初耳だ……」松平はかすれた声で答えた。
「まだシラを切る気か貴様ッ!……いいだろう!貴様が口を割るまで、その四肢に1発ずつ銃弾を撃ち込んでくれるッ!」フェルドマンはそう言うと懐から拳銃を取り出し、無抵抗で身動きが取れないまま地面に倒れ込んだ松平に銃口を向けた。それを見た松平は覚悟を決め、目をつぶり歯を食いしばった。
 
 一発の銃声が廃工場に鳴り響いた。
「グワッ!」フェルドマンが苦痛のうめき声を挙げ、拳銃が地面を滑っていくカラカラという乾いた音が響き渡った。松平は何の痛みがなかったことに気付き目を開けると、フェルドマンが血まみれの利き手を押さえ、その場に跪いていた。そして背後の暗がりから、顔に髭を蓄えた大男が姿を現した。
「……ジョルノ・フェレーラァァァァァァッ!」フェルドマンは男を見て怒りを露わにした。そこに立っていたのは、ライフル銃を構えたジョルノ・フェレーラだったのだ。
「ジョルノ!どうしてここに!」松平も叫んだ。
「ケン、まずはこの男と話をしなければならない。すまんがもう少し我慢していてくれ。」ジョルノはそういうとライフル銃を地面に置き、腰から拳銃を取り出して、跪くフェルドマンの額に銃を突きつけた。松平は、せめて起こして欲しいと思ったが、黙っていることにした。
「……インターポールに潜んでいたとはな。能なしで間抜けなお前がよく国際警察に潜入できたものだな、ダン・クェイド。」ジョルノは静かに口を開いた。
「……フン、さすがは狙撃の名手と言われていただけのことはあるなフェレーラ、腕はまだ衰えていないようだ。」フェルドマン=ダン・クェイドは撃たれた右手の痛みをこらえ、ギラギラとした憎々しい目つきでジョルノを見上げた。松平はそれを聞いて思った。(狙撃の名手……まさかマーカス・ミッドフィールドを狙撃したのは……)
 
「答えろダン、なぜ妻を殺した?」ジョルノは冷ややかな目つきでダンを見下ろしていた。それを聞いた松平は、今初めてその真相を知り、驚愕した。10年前のあの日、このダンという男はジョルノの妻、そしてエマの母親でもあるサローネ・フェレーラを殺したのだ。だからジョルノは10年以上経ってエマが成長するのを待ってから、ダンへの復讐の旅に出たのだ。
「……サローネは、私が貴様にあのワインを手渡したのを目撃していたからな……そのことがファミリーに知れたら、貴様にポリー殺しの罪を着せる計画が水の泡だ。だから殺したのだよ。……よく私が殺したとわかったな……。」ダンは額に脂汗を浮かべながら答えた。
「……娘が……エマがすべて見ていたんだよ……!テーブルの下に隠れてな!お前は娘の目の前で母親の首を絞めて殺したんだ!」ジョルノは目に涙を浮かべながら震える声で叫んだ。
「……なんて事だ……」松平は呟いた。彼は数日前にエマが見せた悲しげな表情、そして10年前にジョルノが見せた涙を思い出した。そしてその理由をすべて理解した。
「……フフフフフ、そうかい、それは可愛そうなことをしたな。貴様にも聞かせたかったよ、サローネの最期のうめき声をな……色っぽかったぜ?」ダンは薄ら笑いで答えた。その言葉に、怒りに震えた右手が拳銃の激鉄を上げた。
「フフフフ、殺すなら殺せ……。私が死ねば、ポリー殺しの真相は闇の中だ。今更貴様が何を言ったところで親父は貴様の話など信じまい。貴様と娘はこのまま一生モンテール・カルロス一家に追われる人生を送るのだ。親父はポリーの復讐を果たすために、地の果てまで貴様を追い続けるだろう。ハハハハハハハ!」ダンは挑発的な笑い声を挙げた。
 
 その時、ジョルノの背後の入り口から物音が聞こえた。ジョルノが一瞬音のした方を見たその隙に、ダンは足首に隠し持っていた小型の拳銃を素早く取り出し、ジョルノに向けて撃った。至近距離から撃たれた凶弾はジョルノの左胸に当たり、その大きな身体が後ろに倒れた。
「ジョルノォォォォッ!」松平は叫んだ。
「フフフフ、恨み節をたれる前にさっさと撃っていれば良かったものを。間抜けなのはどちらかなフェレーラ。」ダンはゆっくりと立ち上がると、銃を構えたままジョルノに歩み寄った。ジョルノは微動だにしない。ダンはそれを見下ろしてニヤリと笑うと、松平に顔を向けた。
「……残念だったなマツダイラ、せっかく貴様を助けに来た親友はこのザマだ。フェレーラは死んだ。貴様も用済みだ。死んでもらおう。」
 
「そこまでだ、ダン!」暗がりから数人の男が拳銃を構えて姿を現した。それはダンが連れていた部下たちではなかった。
「……な!……お前たちは……!」入ってきたのが自分の部下たちだと思いこんでいたダンは絶句して目を見開いた。
「話はすべて聞いた!銃を捨てろダン!」男の1人が叫んだ。
「お前たち……なぜここにいるのだ!」ダンは銃を構えたまま動揺していた。すると男たちの背後からさらにもう1人、杖をついた恰幅のいい老人が姿を現した。
「残念だよ、ダン……」老人は言った。
「……お……親父……」ダンは驚愕した。それを聞いた松平も思わず老人に目を向けた。(この老人が、かの名高きイタリアン・マフィアのボス、モンテール・カルロスなのか……)
「……ダン、私は悲しい。実の息子のように可愛がってきたお前が、私の息子ポリーを……。そしてその疑いをもう1人の息子同然だったジョルノに……。私はこの10年、ひたすらジョルノを恨み続けてきたのだぞ……。」モンテール・カルロスは悲しげに語った。
「……なぜだッ?なぜ親父がここにいるんだッ?」ダンの銃を持つ手が震えていた。
「私の元に、ジョルノから一通の手紙が届いたのだ。自分はポリーを殺していない、殺したのはダンだと書かれていた。イギリスでそれを証明してみせるから、見届け人を送って欲しいとな。私はにわかに信じられなかったが、ジョルノは10年もの間身を隠していながら、わざわざ今頃になって接触してきたのだ。私は自分の目で確かめたくて、自らこのイギリスへとやってきたのだ。」モンテール・カルロスの口調はとても静かなものだった。
「……くっ!」ダンは動揺し拳銃を両手で構え引き金を引こうとした。しかし即座に男たちが撃った数発の銃声が鳴り響き、ダンの身体に命中した。ダンはその場に倒れ込んだ。
「……ダン、我々の掟はわかっているな。裏切り者には死を、だ。」
「……い、いやだ!待ってくれ!待ってくれ親父ッ!」そうわめき散らすダンの身体を、男たちが数人で引きずり、工場の外へと連れ出していった。ダンは最後まで断末魔のようにわめき続け、やがて聞こえなくなった

   

「縄をほどいてやれ。」モンテール・カルロスが部下の1人に命じると、ようやく松平に救いの手が差しのべられ、松平は解放された。彼はすぐさま倒れたジョルノの元に駆け寄った。
「ジョルノ!」松平が名を呼ぶと、ジョルノは小さくうめき声を挙げ、目を開けた。
「……どうやら、衝撃で気を失っていたようだ……」ジョルノは小さな声で答えた。
「大丈夫なのか?」松平は困惑した表情で聞き返した。
「……ああ、防弾チョッキを着ていたからな。頭に当たっていたら命はなかったが。」そう言ってジョルノは着ていた服をめくって見せた。
「脅かすなよ……死んだかと思ったぞ……。」松平は安堵の表情を見せた。
「はははは、この防弾チョッキは、娘との未来だ。」ジョルノは笑って見せた。
「ジョルノ、すまなかったな。」モンテール・カルロスも歩み寄り、ジョルノに声をかけた。
「……私はダンにそそのかされ、我が子のように愛していたお前に裏切られたと思い、ずっとお前を恨み続けた。ポリーを失ってからの10年間、お前に復讐することばかり考えていた。ジョルノ、私を許しておくれ……。」モンテール・カルロスの目には涙が浮かんでいた。
「いいんだ、もう終わったことだ。私を信じてくれてありがとう……親父。」ジョルノはゆっくりと立ち上がり、すすり泣くモンテール・カルロスを抱きしめた。
「ジョルノ、また私の元に戻ってきてくれるかね?この10年の罪滅ぼしに、お前の望みを何でも叶えてやる。お前は私の息子だ。」モンテール・カルロスは言った。
「……親父は、私の両親が事故死した後、幼い私を引き取って、ポリーと同じほどの愛情をたくさん注いでくれた。私にとっても本当の親父だ。今でもその気持ちに変わりはない。」
「では……」モンテール・カルロスは顔をほころばせた。
「すまない親父……私はこの世界から足を洗いたい……。これからは、田舎でひっそりと店を営みながら、娘と静かで平和に暮らしていきたいんだ。わかってくれ親父。」ジョルノは泣きながら答えた。それを聞いたモンテール・カルロスは、寂しげな表情に変わった。そして一度うつむいた後、再び顔を上げてジョルノを見上げた。
「……そうか、わかった。お前はどこに行っても私の息子だ。お前とエマの幸せを、誰にも邪魔はさせん。元気でやっていくがよい。」モンテール・カルロスは笑顔を見せた。
「ありがとう親父……」ジョルノの顔にも笑顔が戻った。モンテール・カルロスはジョルノの肩を叩くと、そのまま背を向け、部下と共にゆっくりと廃工場を後にしていった。
 
 
「私のせいで、またケンを危険な目に遭わせてしまったな。本当に申し訳ない。」ジョルノは松平の身体を支えるように歩きながらそう言った。
「いや、元はと言えばオレがマーカス・ミッドフィールドの極秘情報を欲しがったのが原因だ。オレにも責任がある。気にするな。それよりも、助けに来てくれて感謝している。本当にもうオレの人生は終わったと諦めかけていたからな。」松平は苦笑して答えた。
「お前を殺させはしない。お前は私と娘の命の恩人だからな。」
「……ジョルノ、一つだけ聞きたいことがある。」廃工場を出たところで、松平がおもむろに言った。「高速道路で、マーカス・ミッドフィールドを狙撃したのは、お前なのか?」
「フッ、狙撃の名手と聞いてそう思ったのか?」ジョルノは笑いながら言った。
「……ああ、まあな。」
「確かに狙撃には自信があるが、撃ったのは私ではない。私はダンがインターポールの捜査官に成りすまし、ミッドフィールドが日本にいることを突き止めたのを知り、ミッドフィールドに警告するために日本へ行ったのだ。だが私が接触する前にダンが先にミッドフィールドに脅しをかけた。動揺したミッドフィールドはおそらく、お前の会社の極秘情報を持ち出して命乞いしようとしたんだろう。しかしもはやダンにとって極秘情報などどうでもよかった。奴は裏切り者であるミッドフィールドを殺すことしか考えていなかったんだ。私もあの時ミッドフィールドのクルマを追っていたが、ダンの一味もミッドフィールドのクルマを尾行していて、ぴったりと真横につけて併走しながら撃ったんだよ。」
「なぜダンが、イギリスでオレに近づいてくると?」
「1年前にフランスで一緒に行ったバーがあるだろう。あそこのマスターは私とは古い付き合いでな。ダンとも面識があるのだが、ダンが突然訪ねてきて私のことを色々聞き、店に飾ってあったお前との写真を持ち去っていったと連絡してきた。それから、私とダンたちの他に、もう1人偶然ミッドフィールドを追跡していた人物がいたんだ。」
「……レッドフォードというアメリカ人ジャーナリストだな。」
「そうだ。」
「……あの男……どこにでも出てくるな……。」松平はぼやいた。
「その後日本の警察にミッドフィールド狙撃事件の情報が寄せられ、レッドフォードを乗せたタクシードライバーが、レッドフォードに言われてミッドフィールドのクルマを追跡したことを証言したんだ。当然その情報は国際警察に身を置いていたダンの耳にも入り、ダンはレッドフォードに目をつけた。そしてダンはレッドフォードを追ってイギリスへと渡り、レッドフォードがF1関係の取材をしていたこと、さらにシルバーストーンでF1のテストがあることを知った。ここまで来ればあの間抜けなダンでも、ミッドフィールドと彼の持っていたウィリアムズの極秘情報を横取りした張本人であるお前がイギリスへとやってきて、レッドフォードが取材のためにお前に接触することぐらい感付いただろう。私は密かにダンの行動を追っていたが、案の定ダンはレッドフォードに近づき、彼に私とお前が写った写真を手渡した。そのうち1人はイタリアン・マフィアの幹部だと言ってな。ダンは私がイギリスにいることを知っていた。だから私と写真に写っているお前を見つけ出せば、私の居場所が分かると考えたのだろう。」
「……なるほどな。」松平は話を反芻するかのように何度か頷いた。
「……ダンをおびき寄せる材料にお前を使ってしまって、本当に申し訳なかった。」
「もういいよそれは。済んだことだ。ああそうだ、オレが日本を発つ前の日に、エマがオレの元に訪ねてきたぞ。」松平は思い出したように言った。
「……エマが?」フェレーラは驚いて聞き返した。
「……ああ、お前のことをひどく心配していてな、お前がもう戻ってこないんじゃないかと言っていたぞ。エマはお前がダンに復讐するために姿を消したことをわかっていた。」
「……それで、エマは今どこに……」
「日本で一泊して、そのまま帰ると言っていたから、おそらくもうニースに帰ったんじゃないのかな。お前も早くエマの元に帰ってやれよ。」
「……ああ、わかったよ。もちろんそうするつもりだ。まずはお前を無事にサーキットに送り届けてからな。」

   


 
太陽が西の空に沈みかける頃、シルバーストーン・サーキットでおこなわれていたF1合同テストが終了し、参加していた各チームは、ピットガレージでの撤収作業などに追われていた。そんな中、ガレージからパドックにあるマツダイラのモーターホームに向かっていた神宮庄之助とハイド・ボーン博士が、警察に連行されたという松平のことを気にしていた。その事実は神宮とボーンしか把握していない。
「結局戻ってきませんでしたね。」神宮が呟いた。
「そうじゃな。一体あの男は何をしでかしたんじゃ?」ボーンはそれほど心配はしてないような表情で神宮に聞き返した。
「……さあ、私には何も。」神宮は思い当たる節がないわけでもなかったが、そう答えた。
「困ったもんじゃの。この後ケンも交えたキーメンバーで記者会見に臨まなきゃならんのじゃろ?そっちはどうするんじゃ?」ボーンはむしろこちらの問題で深刻な表情を見せた。
「……そうですね、困りましたね。松平の急用を理由に、ひんしゅく覚悟でキャンセルを申し入れるしかなさそうですね。」神宮は苦笑して答えた。
 2人の思惑をよそに、マツダイラのモーターホームの前にはすでに記者会見を待つジャーナリストたちが集まり始めており、マツダイラのスタッフたちが記者会見用のついたてを設置して準備を進めていた。それを見た神宮は気が重そうに溜息をついた。
「うわあ……もう結構集まってきてますね。誰がキャンセルを伝えますか?」神宮は、答えは分かっていたが、一応ボーンに尋ねた。
「そりゃあ神宮君、君しかおらんじゃろ。」ボーンは神宮の予想通りの答えを返した。
「……ですよね。」神宮はがっくりとうなだれた。
 
 2人が一旦モーターホームに入り、2階のミーティングルームに上がると、そこには何と松平がのんきにコーヒーを飲みながら待ち構えていた。
「お!ショーさん、ボーン博士、お疲れ様!」松平は平然とそう言った。
「お、お、おま……!何やってたんだよ!警察に連行されたと聞いて心配してたんだぞ!」神宮は目を丸くして松平に怒鳴った。
「すまんショーさん、実は入国手続きで不都合があって連れてかれちゃったんだけど、もう問題はすべて解決したから。いや〜、結局全然テストを見れなくてホント申し訳なかった。」松平はヘラヘラと笑いながら答えた。
「その口元の絆創膏はどうしたんだ?」神宮が聞き返す。
「ん?ああ、これはその……ちょっと転んでな。大したことはないよ。そんなことより、これから記者会見を開かなきゃいけないから、今日のテストの詳細をざっと教えてくれないか?」松平ははぐらかすように話題を変えた。
「そんなことよりってお前……。」神宮は呆れた。
 
 
 程なくして、マツダイラのモーターホームの脇に設置されたチームロゴ入りのついたての前で、チーム監督の松平、戦略担当で今回のテストを指揮した神宮、そしてマシンデザイナーであるボーンのキーメンバー3者が、立ったままの状態でジャーナリストたちの囲み形式による記者会見に臨んだ。
「今日の午前中に起こったトラブルはギアボックスのトラブルです。ギアボックスは当社が開発したものを使用していますが、今回の初めての合同テストで構造上の問題が発覚したため、ファクトリーに持ち帰って検証し改良する必要があります。その他には今のところ初期エラーは見あたらず、今後更にテストを重ねて問題点を洗い出し、改良を進めていく予定です。」松平はジャーナリストたちに対し、まずはありきたりなコメントを述べた。
 
「AB通信のスミスです。ミスター・マツダイラに伺います。マツダイラは今回初めて他のライバルチームと同じトラックを周回しましたが、実際にライバルと比較してどんな感触を持ったか教えてください。」
「そうですね、確かに今回のテストは初めて他のチームと比較される機会になったわけですが、現実的には今回参加した他のチームはすべて今シーズンを戦い終えたばかりのマシンで、来シーズンのレギュレーションに適合した新型は我々のMS−P2だけですから、単純に我々のマシンがどの程度のレベルにあるかというのは、現時点ではまだ判断できません。しかし、少なくともここシルバーストーンで、初期セッティングを施しただけのMS−P2がコンスタンスに1分31秒台で走れるという事がわかったのは収穫でしたね。我々の開発の方向性は間違っていなかったことが証明されました。」
「昨日はシェイクダウンで、いきなりチェザリスがトップタイムを叩き出しましたね。」
「あれには正直驚きました。まだコースデビューして数時間しか経っていない状態、しかもハートV8エンジンのMS−P2であのタイムが出るとは思ってもいませんでした。しかしあの時は燃料タンクを軽くした状態だったのでタイムが出たのだと思います。」実際は昨日アンドレア・デ・チェザリスがトップタイムをマークしたのは、そこそこ燃料を積んだ状態で、しかもチェザリスの暴挙によるものだったが、その事実はあえて伏せられた。
「ESPMのブラウンです。ミスター・ジングウ、あなたは昨年ル・マン24時間耐久レースのチームを率いて大成功を収めましたが、ル・マンとF1を比べてどのように感じますか?実際にF1の現場でテストを指揮して何か感じるものはありましたか?」
「……えーと、そうッスね、まあ、ル・マンは1レースが24時間と長時間なのに対し、F1は1レースがたったの2時間だから、戦略的にスタートからゴールまでに考える事が多いだろうから、F1の方が余裕はないと思いますよ。今回のテストの感想で言うと、そうだなあ、ル・マンに比べてF1のコースの方が1周の全長も短いから、マシンが帰ってくるのが早いなってことぐらいですかね。あとは、まだF1用のコンソール機材に慣れてないので、使い方を早くマスターしたいですね。」
「共合通信です。ドクター・ボーンにお聞きします。あなたのキャリアで初めて手掛けられたF1マシンが、今回初めて公式な合同テストでコースデビューしたわけですが、その率直な心境などをお聞かせ願えますか。」
「そうじゃな、特に感慨深いものを感じるというような事はない。じゃが、先程ケンが言っていたように、空力的には大方正しい方向に進んでいることは確認できたかの。我々には風洞設備が備わっておらんので、エアロダイナミクスの研究はCFD(コンピュート・フリュード・ダイナミクス=演算解析流体力学)のみに頼らざるを得ないのじゃが、わしの専門分野で、F1空力の基礎となっておる航空力学的に言えば、わしがこれまで手掛けてきた他のカテゴリーのレーシングカーもF1マシンも、理屈はさほど変わらんのじゃよ。従ってわしの知識と腕をもってすれば、F1マシンをデザインするのは初めてでも、ある程度のレベルのものは造れるとは思っておったよ。あとはこれからテストを重ねてデータを収集してさらに熟成させていけば、F1デビュー1年目からそこそこの活躍は期待できるんじゃないかの。」
「ロイダー通信のフィッシャーです。ミスター・ジングウ、今回起用したミハエル・カッズ・クーンとアンドレア・デ・チェザリスの両ドライバーに対する評価をお願いします。」
「そうッスね、カッズは昨年からマツダイラのテストに参加していたので、チームにもすっかり溶け込んで、能率良く決められたプログラムをこなして、的確なフィードバックを返してくれますよ。彼は堅実な走りをして、与えられた仕事に対しても忠実なので、今回も有益なデータを収集する事ができました。で、アンディはF1参戦200戦以上のベテランだからみんなもよく知っていると思うけど、一緒に仕事をするのは今回が初めてだったからどんなやつかなと思っていたけど、なかなか陽気でいいやつでしたよ。」
「アンドレアに対しては、他に何かありませんか?」
「……んー、まあ、評判通り、アグレッシブなドライバーだなと思いましたよ。」神宮のその意味深な返答に、ジャーナリストたちの間から笑いが起こった。
 ジャーナリストたちの中に、あの米『モーターワールド』誌の編集者マキシ・レッドフォードの姿も見られたが、彼は終始口を閉ざしたままだった。
 
 翌日の早朝、ロンドンを流れるテムズ川のほとりで、指紋が消され、顔がぐしゃぐしゃに潰された身元不明の男性遺体が発見される。遺体は衣服をすべて脱がされており、遺留品はなく、口には大きな石が詰め込まれ、手足には無数の銃弾が撃ち込まれ、じわじわとなぶり殺された形跡が残されていた。調べた結果、過去にイタリアでこれと非常によく似た手口で殺害された殺人事件が数件あったことがわかったが、それらの事件はいずれも被害者の身元判明に至らず、イタリアではすべて迷宮入りしているという。
 また同じ日、ロンドン郊外の森の中では、匿名の通報を受けて駆けつけた警察官によって、国際警察機構に所属していた若い捜査官の絞殺死体が発見される。死体は森の中に停められていた黒いリンカーン・コンチネンタルの車内に残されていた。
 スコットランド・ヤードはこの2件の殺人事件の関連性を調べているが、テムズ川で発見された遺体の身元確認が困難で、今のところ詳しい事は分かっていない。
 
 
 同じ日の午後、南フランス・ニース───マルセイユとイタリアのヴェンティミリアを結ぶ、フランス国鉄の主要駅であるニース・ヴィル駅で電車を降りたブロンド髪の若い娘エマは、大きなスーツケースを引き、長旅で疲れた足でとぼとぼと歩きながら駅を出ると、そのまま路線バスに乗り換えて帰路に就いた。
 バスは程なくして地中海に面した国際的に名高い風光明媚な海岸コート・ダ・ジュールに出る。この地域一帯は地中海性気候の影響で1年を通して温暖で乾燥しており、その景観の美しさから、世界中の著名人が別荘を構える事で有名である。
 エマは窓の外を流れる見慣れた風景をうつろな表情でぼんやりと眺めていた。やがてバスが目的地に着くと、彼女はバスを降り、徒歩で海岸線を歩き始めた。相変わらず足取りは重く、時折深い溜息をつくほど、彼女は疲れ果て、そしてその表情は悲しみに満ちていた。
 
 ようやく海岸線沿いにある自分の家が見えてきたところで、エマはふとおかしなことに気付き、足を止めた。エマの家は2階建てのこのあたりではごくありふれた家屋で、2階が住居、1階では彼女の父親が外国から個人貿易で取り寄せた商品を扱った小さな雑貨屋を営んでいたのだが、誰もいないはずのその雑貨屋の前に商品が陳列され、店が開店していたのだ。エマはその光景に驚き、思わず疲れを忘れて店に向かって走り出した。息を切らせて店の中に入ると、いないと思っていたエマの父親が店の奥で商品の整理をしていた。
「パパッ!」エマの顔からみるみる涙があふれ出し、彼女はすぐさま父親に駆け寄ってその大きな体に抱きついた。
「エマ、おかえり。」ジョルノはエマの身体をぎゅっと抱き寄せ、穏やかな表情で娘に優しくささやきかけた。
「パパのバカッ!今までどこに行ってたのよッ!ずっと探してたんだからッ!」エマは我を忘れて泣きじゃくりながらジョルノに叫んだ。
「すまなかったなエマ。すべて済んだよ。もう何の心配もいらない。」ジョルノは答えた。
「もうどこにも行かないでッ!」エマは涙でぐしゃぐしゃになった顔でジョルノを見上げた。
「もちろんだ。もう二度とお前のそばを離れない。ずっと一緒だ。」ジョルノはそう言うと、再びエマの頭を両腕で包み込んだ。
 
 
(つづく)


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