CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5 - 6
※この物語はフィクションです。


 日本・神奈川県小田原市──緑豊かな山と水の清らかな海と川、そして温暖な気候に恵まれ、多くの先人によって築かれた長い歴史と伝統・文化のもと、後北条氏以来の城下町、また東海道屈指の宿場町として栄え、明治期には政財界人や文化人たちの別荘、保養の地として愛されてきた、神奈川県西地域の中心都市である。
 JR東海道本線の小田原駅を降りると、そのすぐ近くにそびえる高さ約70メートルの白く美しい小田原城天守閣が来訪者を迎える。小田原城は元禄16年(1703)の大地震でそのほとんどの建物が倒壊・焼失してしまうが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。現在の天守閣は、昭和35年5月に市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものだ。
 
 再来年のシーズンからF1にコンストラクターチームとして新規参入するマツダイラのチーム監督に就任した松平健は、戦略担当の神宮庄之助、テストドライバーのミハエル・カッズ・クーンらと共に、イギリスのシルバーストーンで行われるF1合同テストに初めて参加するため渡英する途中、急遽思い立って東京行きの新幹線を新横浜駅で1人途中下車し、そのまま下り新幹線に乗り換えて小田原駅まで引き返してきた。
 松平はそこからさらに小田急線に乗り換え、小田原から足柄、螢田(ほたるだ)、富水(とみず)と過ぎ、栢山(かやま)駅で列車を降りた。栢山は小田原市の農産業を支える広大な田園地帯で、この時期にはすっかり収穫を終えて、焦げ茶色の土壌に均一に並んだ稲穂の刈り取り跡だけが残された畑が広がっていた。
 松平を乗せたタクシーは、栢山駅前のロータリーを出て一面畑に囲まれたのどかな県道を東へと進み、正午を少し過ぎた頃に東栢山の一件の農家に辿り着いた。タクシーを降りた松平は、運転手の手を借りて、後ろのトランクから渡英するために持ってきていた重く大きなスーツケースを下ろすと、それを片手で持ち上げながら砂利道を歩き始め、立派な松の木が植えられている農家の敷地内に入っていった。
 このあたりは田園地帯と言うこともあり土地の物価は安く、この一帯に住む農家は皆広い土地を所有していた。松平が踏み入れた農家も例外ではなく、300坪はあろうかと思われる広い敷地内には数台の自家用車が停められており、その奥には80坪ほどの2階建ての日本家屋が建っていた。
 
 その玄関先に停められた軽トラックの脇で、1人の中年女性が作業をしていた。女性は頭に日焼け防止のサンバイザー付き頭巾を被り、首には手ぬぐいを掛け、白い割烹着にもんぺ姿に黒の長靴といった地味な格好で、軽トラックの荷台から荷物を下ろしていた。彼女は松平の気配に気付いてかがんだ状態ですっぴんの顔を上げると、驚きの表情を見せた。
「……あなた……」女性は両手で持っていた荷物を下ろして立ち上がると、怪訝そうな顔をしながら頭巾を外して、首に掛けた手ぬぐいで額の汗をぬぐった。
「……久しぶりだな。」松平はスーツケースを地面に置いて無理に笑みを作った。それを見た女性は小さくため息をつくと、両手を腰に当てて身体を後ろに反らして身体を伸ばしながら、松平に皮肉めいた笑みを見せて口を開いた。
「ずいぶん大荷物ね。日本を発つ前にわざわざ離婚届を持ってきてくれたの?」
「真衣、とりあえず話し合おう。」松平は静かに言った。
「あら、私の名前覚えてたのね。あなたに名前で呼ばれたのは何年ぶりかしら。」真衣は苦笑しながら答えた。
「とにかく、オレの話だけでも聞いて欲しいんだ。」松平は真衣の嫌みにめげず、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと真衣に語りかける。
「今更あなたと話す事なんて何もないわ。置き手紙見たでしょ?あの通りよ。」
「わざわざここまで足を運んだんだぞ、話ぐらい聞いてくれたっていいだろ。」松平は若干苛立ちをみせた。
「離婚届、持ってるんでしょ?」
「……あ、ああ、持ってるけど……」松平は渡英の準備をする際、こんなものを社長室の引き出しに入れっぱなしにしておくのはどうかと思い、念のため離婚届を荷物の中に入れて持ってきていたのだった。
「私が市役所に届けるから、サインして私に返して。」真衣は無表情で手を出した。
「真衣、オレはお前と別れるつもりはないんだよ!」
「私はあなたと別れるつもりなの。だから早くサインして。」
「頼むからオレの話を聞いてくれよ!」松平の語尾が強まる。
「だから話す事なんてないって言ってるじゃない!」真衣もつられて声を荒げた。と、ちょうどそこへ真衣の父親が玄関から出てきて、松平と真衣が5メートル以上離れて突っ立ったまま話しているという妙な光景を見てきょとんとした。
「おお、松平君、いつ来たんけ?」小柄で白髪の坊主頭の真衣の父親は、農協の作業着姿で小田原弁の愛想のいい声でそう言うと、日に焼けた顔をしわだらけにして白い歯を見せた。
「お義父さん、ご無沙汰してます。すいません、突然押し掛けてしまいまして。」松平も笑みを作って丁寧にお辞儀をした。
「何言っとるんけぇ!そんなところに突っ立ってねえで、さあへえってへえって!茶でも入れますけ!ほれ!真衣も何してるだ?」父親はそう言いながら激しく手招きをした。
「はあ……すみません。」松平はそれに従いながらチラリと真衣の顔色を伺うと、真衣は口を尖らせて顔を背け、軽トラックから降ろした荷物を両手で持ち上げた

   

 
イギリス・ノーサンプトン州ノーサンプトン───ロンドン・ユーストン駅から電車で約2時間のところにあるイングランド中西部の州都ノーサンプトン。この町の人口は約20万人で、製靴業が盛んなことで有名だ。その名前は“北の自営農場”を意味し、イギリスシューズの約8割がこの町で作られているため、「靴の聖地」とも呼ばれている。
 この町からさらにタクシーで20分ほど行くと、閑静な住宅地を抜け、広大な田園地帯が広がるシルバーストーン村に入る。そしてこの田園地帯のど真ん中に、イギリス・モータースポーツの故郷、シルバーストーン・サーキットがある。
 シルバーストーン・サーキットは、1950年にF1グランプリが初開催され、F1発祥の地として知られている。このサーキットは現在でもイギリスグランプリの舞台となっており、またイギリスを本拠地としている多数のF1チームがこのサーキットをホーム・コースにしている。
 サーキットレイアウトは、元々空軍の飛行場だったものを1948年にサーキットに作り替えたため、平坦なのが特徴だ。最初の頃は正五角形に似た形をしていたが、1991年に大改修が施され、複合コーナーが多数配置された高速テクニカルサーキットに生まれ変わった。そのコース特性はF1マシンのセッティングなどにおいて、高・中・低速域でバランスの取れた調整が要求されるため、F1のオフシーズンやシーズン中のテスト期間に行われる、各チームとの合同テストにも使用されている。
 
 11月下旬、このシルバーストーンで、例年と比べて異例の早さとなるF1シーズン閉幕後初のオフシーズン合同テストがおこなわれていた。本来なら12月上旬から始まるバルセロナでの合同テストが本格的な合同テストとなるが、今回は再来年のシーズンから新規参入する日本のF1チーム、マツダイラが新型マシンの発表会とシェイクダウン(試運転)をここシルバーストーンでおこなうため、それに伴ってザウバー・メルセデス、ジョーダン・ハート、リジェ・ルノーの3チームもテストの申請を出し、今回の臨時テストを認められた。
 初日の今日は、ザウバーとジョーダンの2チームが、今シーズンを戦ったマシンに一部来シーズン用のパーツを装着してテストを進めていた。とはいえ、彼らのチーム資金は決して潤っているとは言えず、特に最終戦オーストラリアが閉幕してわずか2週間のこの時期ではマシンにまだそれほど目新しい変化があるわけでもなく、12月上旬から始まる本格的なテストに向けての下準備といった意味合いが強い。ちなみにジョーダンは来シーズンからエンジンをハートからプジョーにスイッチすることが決定しているが、今回持ち込まれたマシンには、まだハートエンジンが搭載されていた。
 チーム資金に余裕のあるトップチームは、すでにシーズン中から来年のマシン開発に着手しており、そのマシンコンセプトや大まかなデザイン、それに重要となるパーツはおおかた出来上がっていることが多い。あとはオフシーズンの間にそれらのテストを重ね、その結果を基にパーツの改良を進めてニューマシンを作り上げ、ニューマシンが完成してからは、開幕戦までにひたすら走り込みを行い信頼性を高めていくのである。この前準備が早ければ早いほど、来シーズンの開幕戦までにある程度の信頼性が確保され、レース中のトラブルも少なくなり、シーズン序盤からチャンピオンシップを有利に進めていくことができるのだ。
 
 サーキット全体を見渡してみると、当然グランプリ・ウィークではないので、観客もいなければ中継するテレビクルーもいないし、レースを取り仕切るスタッフたちがいるわけでもない。しかし、F1のオフシーズンの動きをいち早くF1ファンに届けるため、F1誌の記者やモータースポーツジャーナリストたちが、この合同テストにも何人か詰めかけていた。そしてその中には、米『モーターワールド』誌の記者マキシ・レッドフォードの姿もあった。
 マキシはピットガレージとホームストレートを見渡せる、観客のいないメインスタンドの最前列の席を陣取り、久しぶりにF1の現場の雰囲気を感じていた。グランプリほどの活気や観客たちの熱気があるわけではないが、オフシーズンのテストは来シーズンのマシンの方向性を決定していく重要なファクターである。それ故グランプリでは見ることができない、チームスタッフやメカニックたちの地道な試行錯誤が伺える、F1の現場では裏の部分ということになる。そしてジャーナリストたちにとっては、各チームによって異なるテストメニューから、それぞれのマシン開発の進行具合を推測することができる恰好の機会であると言える。ただし、今回のテストは急遽スケジュールに追加された下位チームだけの臨時テストであるため、取材に来ているジャーナリストの数は通常のテストと比べてそれほど多いわけではなかった。
 
 双眼鏡でピットレーンを観察すると、テストに参加している2チームのガレージでメカニックたちがマシンを取り囲み作業を行う中、そのピットレーンの一番出口に近いガレージは、まだシャッターが閉じられたままだった。そしてそのシャッターには、『MAZDAIRA F1』という文字が書かれていた。
 マキシが追うマツダイラは、数日前に日本で具体的なチーム体制の発表を行い、今回のシルバーストーン合同テストで新車発表とシェイクダウンをすると発表した。マツダイラのF1マシンは、今年の1月に日本で行われたF1参戦発表の際にその姿を見せているが、その時に持ち込まれたのはMS−P1と呼ばれる試作1号機で、今回発表されるのはその次世代機だ。今までベールに包まれていたマツダイラのF1マシンが、いよいよサーキット上に初めて登場し、他のチームのマシンに混じって走り出すのだ。すでにマツダイラの存在は各国メディアの注目を集めており、マキシを初めとした今回駆けつける各メディアの一番の目的は、そのマツダイラのF1マシンを捉えることだった。
 
「久々のサーキットはどう?」マキシは背後からの女性の声に振り返り、声の主を知って笑顔を見せた。それはマキシの旧友で、日本に在住しているイギリス人モータースポーツジャーナリストのリヴェール・ウェスターだった。
「リヴェール、来てたのか。やっぱりサーキットはいいね。ピットガレージの作業音やエンジンのアイドリング音、それに風に乗って流れてくるオイルの匂いを感じているときが一番興奮するよ。それはそうと、君が合同テストに来るなんて珍しいな。」マキシの言葉にリヴェールはニコッと笑顔を見せ、マキシの陣取っている最前列の席に歩み寄り、腰を下ろした。
「せっかくイギリスに帰っているから、ついでに見ておこうと思ってね。」リヴェールは金網の向こうに広がるサーキットを見ながら答えた。
「実家ではゆっくりできたかい?」マキシは水筒からコーヒーを注いでリヴェールに手渡した。彼女は「ありがとう」と言ってそれを受け取ると、長く伸びた金髪の前髪を耳にかけ、ゆっくりと湯気の上がるコーヒーに口に付けた。
「おかげさまでね。あなたの方は、全然休めてないんじゃない?」
「ああ、まあね。コッツウォルズから一旦ロンドンの支社に戻って、そこからまたノーサンプトンに入ったから、息つく暇もなかったよ。」
「マツダイラの新車発表は明後日でしょ?何も今日来なくても良かったんじゃ……。」
「まあそうなんだけど、ロンドンでは写真の手配だけだったから、早めにこっちに来ておこうと思ってね。今の仕事とは直接関係ないけど、比較対象となるザウバーとジョーダンのテストも見ておきたかったんだ。でも、今夜と明日はホテルでゆっくりできそうだよ。」
「相変わらず仕事が好きなのね。」
「まあ、そうだね。きっと明日もゆっくりしてるとはいえ、ホテルでパソコンに向かって記事を書かなきゃならないし、仕事しているのと変わりないね。」マキシは苦笑した。
「来シーズンは、グランプリで会えるかしら?」
「……どうかな。マツダイラのF1デビューにはあともう1シーズン待たなければならない。この仕事をしている限り、来シーズンもマツダイラにべったりになるだろう。」
「残念ね。F1が一番好きなあなたが、2シーズンもグランプリから離れるなんて。他のジャーナリスト仲間たちも寂しがっていたわよ。」
「……ははは、まったくだ。よろしく伝えておいてよ。」
「いよいよ明後日、マツダイラの走りが見られるわね。」
「……ああ。でも、所詮はニューカマーだからな。それほど期待はしてないよ。」
「あら、そうなの?」リヴェールは意外そうな顔つきでマキシを見た。
「そりゃそうだよ。ウチの狙いは日本から新しいチームが参戦するという事実だけさ。ホンダを輩出した日本のチームだからホットなニュースではあるけど、それも再来年の開幕戦までだよ。実際にふたを開けてみれば、今までのニューカマーのチーム同様、期待外れな結果に終わるに違いない。せいぜい下位チームとの最後尾争いが関の山だろう。」マキシはサーキットから吹き上げる冷たい風に目を細めながら、淡々と答えた。
「……期待外れというか、ある意味予想通りの結果ってことか。」
「うん、その通りだね。」

   

 
日本・神奈川県小田原市、真衣の実家──松平と真衣は墨絵の掛け軸が掛けられた床の間がある広い和室の真ん中で、大きめのちゃぶ台を挟んで向かい合って座っていたが、真衣はムスッとした表情で、松平と目を逸らしたまま口を開いた。
「……それで、話って何よ。忙しいんだから手短に頼むわ。」その言葉に、松平は一度大きく息を吸い込むと、うつむいたまま言葉を絞り出した。
「真衣、オレが悪かった。仕事に専念しすぎて、なかなか家に帰れなくて、お前には寂しい思いをさせてしまったな。」
「勘違いしないで。別に寂しくなんかなかったわ。“亭主元気で留守がいい”って言うでしょ?あなたがいない方が、独りの時間を満喫できてせいせいしてたわよ。」
「強がり言うなよ……」
「強がりなんかじゃないわよ!バカ言わないでよ!」真衣は思わず無気になる。
「じゃあどうして……」松平は困惑した表情で真衣の顔を見上げた。
「あなたがたまにしか家に帰って来ないのは、もう慣れっこだから全然平気よ!だけどね、私はあなたのお手伝いさんじゃないのよ!あなたは昔からずっと自分の好きなことをやってきたからいいかもしれないけど、私は毎日毎日家の掃除をして、あなたが送り返してきた洗濯物を洗って、たまにあなたが帰ってきたら食事の支度をして、食べ終わったら洗い物をして、あなたが散らかした新聞を片づけて……主婦って言うのはね、毎日毎日誰にも評価されることもなく、ただ“元に戻す”単調な作業しかしてないのよ!わかる?私の人生って一体何なの?私の存在価値って一体何なの?結婚してる意味あるの?」
「悪かったよ……ほんとに……すまないと思ってる。」松平は自分の前に置かれた湯飲みの中のお茶に目を落としたまま、小さな声でつぶやいた。その言葉が終わるか終わらないかのうちに、真衣はさらにまくし立てる。
「ろくに家にも帰ってこないでただ家のことをやらせるだけなら、何も私じゃなくてもいいじゃない!お金あるんだから、家政婦でも雇えばいいのよ!いっそのこと、あなたの会社でお手伝いロボットでも作ったら?私はもうこんなロボットみたいに単調な毎日を過ごすのはもう耐えられないのよ!独りの家で家事をして買い物に行って、いつ帰ってくるともわからない亭主を待ちながらテレビを観て毎日が過ぎていく……この虚しさがあなたにわかる?」
 
「……反省してるよ、ほんと悪かった……」真衣の言い分に、松平はただ同じ言葉を繰り返すことしかできなかった。
「悪かった悪かったって言うけど、あなたこれから海外で仕事するんでしょ?世界各国を駆け巡る華やかな世界で!あなた、私に一言でも相談してくれた?私はニュースを見て初めてそんな話聞いたわよ!何でそんな大事なこと私に何も言ってくれないわけ?」
「……いや、一通り決まってから言おうと思ってたんだよ……」
「それにあなたが海外で仕事するんなら、余計私がいる必要なんてないじゃないの!それとも何?あなたが優雅に世界旅行している間、私はあの家に独りで閉じこもってろとでも言うわけ?何が悪かったよ!言ってることとやってることが全然違うじゃないの!」
「……いや、そのことなんだが……」松平は相変わらずうつむいたまま、言い出しにくそうにつぶやいた。
「何よ!」真衣は言い返せるものならしてみなさいと言わんばかりの勢いだ。松平はしばらく沈黙したが、意を決して真衣に顔を上げて言った。
「……一緒に来ないか?」
「……どこに?」真衣は訝しげに聞き返した。
「……だから、オレと一緒に、グランプリについてきて欲しい。真衣、オレにはお前が必要なんだ。今までなかなか言い出せなかったんだが、オレが辿り着いた長年の夢を、お前にも間近で見て欲しいんだ。」松平は真衣の目を見てもう一度言い直す。真衣はそれを聞いて、呆れてぽっかりと口を開けた。
「……はあ?何言ってるの?冗談よしてよ!今更取って付けたように!」
「本気だよ!もちろん各国のホテルを転々とする生活にはなっちまうけど、お前も海外旅行好きだろ?それに、いつか世界一周旅行もしてみたいって言ってたじゃないか!だからオレとF1チームに帯同して、一緒に世界各国のグランプリを転戦しよう!」
「何バカな事言ってるのよ!そんなことできるわけないじゃない!」
「なんでッ!」
「静岡の家はどうするのよ!」
「慶喜に住まわせればいいじゃないか!」
「慶喜は日本に置いていくの?」
「当たり前だろ!あいつは心配しなくても、もうとっくに親離れして自立してる!子供じゃないんだから!あいつにはオレからちゃんと話しておくから!」
「あのねえ!グランプリなんてシビアな現場に、私みたいなシロウトがうろちょろしてたら邪魔でしょうがないでしょう!それにあなたの仕事場でしょうが!」
「日本じゃ仕事場に家庭を持ち込むなとか言われそうだけど、欧米じゃ逆に、ドライバーに何でカノジョ連れてこないんだって言ってるぐらいだぜ?ドライバーがF1をまったく知らない恋人や奥さんを連れてくるなんてのは日常茶飯事だよ!それに、お前は英語も喋れるからすぐにスタッフともうち解けられるだろうし、オレとしても気の知れたお前がいてくれると何かと助かるんだよ!」松平は熱心に真衣を説得し続けた。
「……あのねえ、そんなこと急に言われても無理よ!」真衣は困惑している。
「無理は承知だ!頼む!一緒に来てくれ!」松平は思わず身を乗り出して、ちゃぶ台の上に両手をついて頭を下げながら懇願した。それを見た真衣は、深くため息をついた。
 
「……あなたっていつもそう!そうやって人の都合なんかお構いなしに、何でも強引に自分の思い通りにしようとするのよ!あなたってホント自己中心的ね!」
「一体何が不満なんだよ!今までのことは反省してるよ!だから一緒に来てくれって言ってるんじゃないか!観光もできるし、料理だって洗濯だって掃除だってホテルでやってくれるし、四六時中とはいかないが、ほとんど一緒にいられるんだぜ?それに何と言っても、F1グランプリを最前線で観戦できる!」
「私は別にF1なんて興味ないわよ!」
「実際に生のF1を間近で見て、あのエグゾーストノートやサーキットの雰囲気を体感すれば、お前だってきっとハマるって!」松平の勢いに圧倒され、真衣は絶句した。
「……とにかく、そんなこと急に言われても困るの!」
「どうしてッ!」
「しょうがないでしょ!パスポートが切れてるんだから!」真衣は大声で叫んだ。
「はあ?」
「だから!パスポートの期限がとっくに切れてるから再申請が必要なの!それにねえ!男にはわからないでしょうけど、旅行するとなったら、女には色々と準備ってものがあるのよッ!」
「……じゃあ……」松平は言いかけた。
「……とりあえず、また日本に帰ってくるんでしょ?その時までに考えておくから、少し時間をちょうだいよ!」真衣はまた口を尖らせながらそう言って顔を逸らした。
「……真衣、許してくれるのか?」松平は聞き返した。
「それも含めて、考えておくから。」真衣は答えた。
「頼むよ真衣、別れるなんて言わないでくれよ……」松平は露骨に情けない顔を見せた。
「だから!時間をくれって言ってるでしょうが!」真衣はヒステリックに繰り返した。
「……わかったよ……いい返事を期待しているからな!」松平は仕方なく素直に引き下がった。とそこにちょうどタイミング良く真衣の父親がふすまを開けて部屋に入ってきた。
「松平君、あんた昼飯まだだべ?準備できとるから食べていかんけ?」
「……は、はあ……」松平はもう頭髪がほとんど残っていない頭のてっぺんを掻きながら、チラリと真衣の顔色を伺った。
「……食べていけば?」真衣は無表情で言った。
「では、お言葉に甘えて、ごちそうになります。」松平は答えた。
「そうけそうけ、ボンジュールが冷えとるけ、一緒に飲んべえや。」真衣の父親は嬉しそうにしわくちゃの笑顔を見せた。
「ボジョレー・ヌーヴォーでしょお父さん。それに昼間からワイン?」真衣は呆れた。
「たまにはいいべ、さあ早くこっちへこんけ。」父親はそう言って先に奥へと入っていった。
「そういやボジョレー・ヌーヴォーが解禁されたんだったな。でも、お前アルコール飲めなかったんじゃ……」松平は立ち上がりながら尋ねた。
「あら、知らなかったの?私、今じゃキッチンドリンカーよ。」真衣は答えた。

   

 イギリス・ノーサンプトン州ノーサンプトン───シルバーストーンサーキットで行われているF1のオフシーズン合同テストは、1日目と2日目はザウバー・メルセデスがアルゼンチン人のノルベルト・フォンタナとドイツ人のクリス・ニッセンという2人のテストドライバーを、ジョーダン・ハートもイギリス人テストドライバーのケルビン・バートを走らせた。2日目まででトップタイムをマークしたのはザウバーのニッセンで、タイムは1分30秒256だった。ちなみにこのコースの公式コースレコード(当時)は、ウィリアムズのデーモン・ヒルが今年の予選で記録した1分24秒960である。予選セッションは通常燃料タンクをほとんどからにした状態の軽いマシンで走行するため、全セッションで最も速いタイムが記録されるのだ。
 
 そしてシルバーストーン合同テストは、3日目の朝を迎えた。
 シルバーストーン・サーキットのピットレーン裏にある駐車場に、メルセデス製の3台のトランスポーターと呼ばれる大型トレーラーが立て続けに入ってきた。それらの長い貨車にはいずれも『MAZDAIRA F1』というロゴが描かれていて、先に駐車されているザウバーとジョーダンのトランスポーターに並ぶように1台ずつ横付けされていく。そしてその到着を朝早くから待ち受けていたジャーナリストたちが次々と駐車場に集まってきた。もちろんその中にはマキシ・レッドフォードの姿もあった。
 3台が他のトランスポーターと1cmの狂いもなくきれいに整列して駐車されると、その後部のハッチがゆっくりと自動で開かれていった。その様子を、ジャーナリストたちが一斉にカメラに納め始めた。初めに開かれたトランスポーターの中からは、2台のシートに被せられたF1マシンが下ろされた。2台はタイヤをホイールごと外された状態で専用のキャリア付きのスタンドに固定されており、スタッフたちによって1台はピットガレージへ、もう1台はパドックへと運ばれていく。シートに覆われているためマシンの姿を見ることはできなかったが、ジャーナリストの中にはその謎に包まれたF1マシンの姿をカメラで追う者もいた。
 
 そして2台目のトランスポーターから姿を現したのは、ゴールドメタリックの1台の大きなセダンだった。セダンは一見しておおよそ乗用車とは思えないような奇抜な形状をしていて、さしずめアメリカンコミックのヒーローが運転するマシンのような、非常に有機的で独創的な曲線を描いていた。さらに3台目のトランスポーターからは、ゴールドメタリックのセダンを一回り小さくしたような、こちらも独創的なシルバーメタリックのスポーツカーが姿を現した。スポーツカーは2シーターで、セダンと比べてかなりプロポーションは鋭く、より空力を追求されたクルマであることは一目瞭然だった。
 2台は共にチューンナップパーツメーカーだったマツダイラ・モータースが開発し、昨年のデトロイドで行われたモーターショーに出品されたコンセプトカーがベースとなっているもので、それぞれ『スーパーセダン・イエヤス』、『コンパクトスポーツ・タケチヨ』という名前があった。今ここにあるものは、その後日本で市販化の認可が下り、市販車としての許容基準に適合するよう改良を施して製品化されたものだった。つまり、2台が市販車として公の場に姿を現したのは、これが初めてのこととなる。
 2台の市販車はトランスポーターから下ろされると、それぞれスタッフが乗り込み、エンジンがかけられて、ジャーナリストたちが見守る中、F1マシンの1台が運ばれていったパドックへとゆっくりと走り始めた。
 
 パドックの一画には、マツダイラのためだけに新車発表会場となる特設ステージが用意されていた。ステージは特に段差が付けられているわけではなかったが、ウエストぐらいまでの高さの簡易的な柵によって仕切られ、その中で先程トランスポーターから下ろされたばかりのシートに覆われたF1マシンが1台と金銀2台の市販車が斜めに並べられ、その背後には『MAZDAIRA F1』のロゴが描かれた壁が立てられていた。柵の外側にはすでに各国のジャーナリストたちが集まっていて、新車発表会の開始を今か今かと待ちわびながら柵の向こうの3台のマシンをカメラに納めたりしていた。
 一通り準備が整うと、司会進行役がマイクを持ってステージの隅に登場し、新車発表会の開始を告げた。その後テクニカル・ディレクターの神宮庄之助、F1車体技術開発責任者のハイド・ボーン博士、さらに金色のレーシングスーツに身を包んだテストドライバーのミハエル・カッズ・クーンが姿を現し、3台のマシンの後ろに整列した。その後簡単にマツダイラ・モータースの沿革が紹介され、まずは2台の市販車がクローズアップされた。2台は『M101イエヤス』『M201タケチヨ』と名付けられ、マツダイラがF1に参戦する再来年の開幕戦に合わせて販売を開始すると発表された。
 他のジャーナリストたちに混じって柵の外から発表会に立ち会っていたマキシは、ステージ上にチーム監督であるケン・マツダイラの姿がないこと首をかしげた。マキシは今回の取材で、どうしてもケン・マツダイラに話をしなくてはならなかった。マツダイラには、マキシの編集部だけが握る産業スパイ疑惑があるのだ。だが、当の本人が来ないことには話にならない。(ケン・マツダイラはここへは来ないのか……?)マキシは焦りを覚えた。
  
 そしていよいよ発表会は、今年1月以来となるマツダイラF1の新型F1マシンのお披露目へと移っていく。F1マシンはまだシートに覆われていたが、先程シートを覆われた状態でタイヤが装着され、すでにスタンドから下ろされて着地していた。そのマシンにマツダイラF1のキーメンバーである神宮、ボーン、カッズの3人が歩み寄り、それぞれシートの端を手に持ち、司会進行役の合図でゆっくりとシートを引き始めた。
 シートが徐々に除かれ、その下からスポンサーロゴが一切入っていないゴールドメタリックのボディが現れると、一斉にカメラのフラッシュがたかれた。マキシも夢中になってシャッターを切った。『MS−P2』と名付けられた黄金のF1マシンは、今年1月に発表されたMS−P1と比べて、一見して外観に変化が見られた。特にフロントウィングとマツダイラのロゴが描かれたリアウィングの変化が顕著で、MS−P1が昨年のウィリアムズFW15に酷似していたのに対し、MS−P2にはオリジナリティが感じられた。エンジンはハートV8エンジンを搭載しており、エンジンなどをカバーするカウル(外皮)の形状は楕円形、ノーズ(マシン先端部分)はハイノーズなのが特徴だ。その他今回発表されたマシンスペックは以下の通りである。
 
 



【マシン概要】
 ●マシン名称…………………………MS−P2
 ●エンジン……………………………ハートV8エンジン
 ●トランスミッション………………マツダイラ6速セミオートマチック
 ●シャシー……………………………マツダイラ
 ●サスペンション……………………マツダイラ
 ●ダンパー……………………………マツダイラ
 ●ホイール……………………………ODA
 ●タイヤ………………………………グッドイヤー
 ●ブレーキ……………………………マツダイラ
 ●電装系………………………………マツダイラ、トヨトミテック
 ●ドライバーズシート………………レカロ

 
「……本来ならチーム監督であるケン・マツダイラが解説する予定じゃったが、ケンは諸事情により到着が遅れているので、代わって私から解説しよう。マシンの設計を担当したハイド・ボーンじゃ。航空力学と物理学の博士号を持っておる。」司会進行役からマイクを渡されたハイド・ボーン博士が得意げに新型マシンの解説を始めた。
「これまで日本のテストコースで旧型のMS−P1によるテストが繰り返されてきたが、そのデータを基にイギリス国内のファクトリーで新しい空力パーツを開発し、同時にプラットフォーム(サスペンションやタイヤ、ウィングなどを除いた基本ボディ)も新たに設計し直したので、このMS−P2は旧型を一切共有しない全く新しい新型車と言うことになる。カウル形状は、コースレイアウトに関係なくマシン性能を平均的に引き出せるよう意識しておる。また空力性能を大きく左右するノーズは、空力的に優れたハイノーズを採用した。トランスミッションはドライバーの負担を軽減するため、ステアリングの裏にあるパドルシフトによるセミオートマチック(この当時のF1では、まだシフトレバーによるマニュアルトランスミッションが存在していた)を採用し、サスペンションは多くのチームが採用しているパッシブタイプじゃ。わしもF1マシンを手がけるのは初めてのことなので、今回は信頼性を重視して無難なデザインに徹した。言うまでもなくこのMS−P2はまだ完成したばかりで、実際にコース上を走るのはこの後ここで行うシェイクダウンが初走行になる。従って我々もこのマシンがどれほどのポテンシャルを持っているのかは全く想像できんが、今回その一端が明らかになるじゃろう。ま、あまり期待はせん方がいいじゃろうな。」ハイド・ボーンの冗舌な解説が一通り終わると、集まったジャーナリストたちが一斉にボーンを質問攻めにした。
 
 
 1時間後、神宮、ボーン、カッズを初めとしたチームスタッフは、新車発表を終えてマツダイラが用意したモーターホームに戻ってきた。モーターホームはチームスタッフやドライバーたちがミーティングしたり食事をしたりするための簡易オフィスのことで、その規模はトップチームの豪華なものから下位チームのシンプルなものまで多種多様だ。通常大型トレーラーを組み合わせてコンパートメントなどで設営されるが、マツダイラのモーターホームは大型トレーラー2台の間にビニール製のテントを張り、その中にテーブルとベンチを並べるという質素なものだった。マツダイラのスタッフたちは全員トレーラーの中に入り、その中のミーティングルームで初めての合同テストに臨む前のブリーフィングを開いた。
「……まだ1人……いや、監督も入れれば2人だな、この場に来ていない人間がいるが、ブリーフィングを始める。」神宮は1人立った状態で他のスタッフを前に口を開いた。
「今回のシルバーストーンでのテストは3日間の日程だが、初日である今日の目的は、あくまで新型マシンの初期システムチェックだ。従って特にラップタイムを意識する必要はない。カッズもこのコースで走るのは初めてだろうから、コースを覚えるつもりでリラックスしてテストに臨んでくれ。ただし、言うまでもなく今回のテストは今までとは違い、他チームのマシンもコース上を周回している。規定により、カッズのマシンのテールランプにはF1初心者を意味するグリーンランプが点灯されるが、他のマシンが迫ってきたときは邪魔をせず安全なポイントでパスさせろ。MS−P2は2台しかないので、くれぐれもマシンをクラッシュさせないよう注意して走行してくれ。カッズは1号車、そして2号車にはもう一人のテストドライバーが乗り込む。あいにくその彼は遅れているようなので、30分後に先に1号車のカッズだけでテストを開始する。以上だ。何か質問はあるか?」神宮の言葉に、スタッフたちは無言で応えた。
「ではブリーフィングを終わる。みんな気を引き締めていけ!」
 
 
 すでにマツダイラのピットガレージでは、2台のMS−P2がジャッキアップされた状態で組み上げられ、4本のタイヤにはタイヤウォーマーと呼ばれるタイヤを暖めておく電熱線入りのカバーが巻かれ、あとはエンジンを始動して発進を待つだけの状態になっていた。
 カッズはガレージに入ると、軽くエンジニアと打ち合わせをした後、早速ヘルメットを被りグローブをはめ、最初にガレージに運ばれていたマシンの狭いモノコックに収まり、メカニックからステアリングを受け取って取り付けた。ガレージのシャッターが開けられ、MS−P2のハートV8エンジンに初めて火が点ると、空気を割るようなバリバリという鋭いアイドリング音がガレージに響き渡った。そして4本のタイヤに巻かれたタイヤウォーマーが外されジャッキから下ろされたMS−P2は、いよいよゆっくりとガレージを出てピットレーンを抜け、コースへと出て行った。すでにコース上ではザウバーとジョーダンのマシンが周回を重ねていた。
 神宮はハイド・ボーンらと共にピットレーンのホームストレート側のウォール沿いに設営されたオペレーティングブースに収まると、無線用のヘッドフォンマイクを装着しながら後ろを振り返り、ガレージ上に残されたもう1台のMS−P2を見てぼやいた。
「……ったく、何やってんだアンディは……」
「ほっほっほ、渋滞に巻き込まれとるんじゃないのか?シルバーストーンはど田舎じゃが交通量は多いからの。新しい交通システムが導入されたとはいえ、まだまだ交通の便を改善する必要があるのう。」ボーンはのんきに笑ってそう言った。

   

 シルバーストーンサーキットの駐車場に、1台のロッソコルサ(赤色)のフェラーリが入ってきた。今年発売されたばかりの新型車512TRだ。フェラーリは加速音とスリップ音を響かせながら、ほとんどクルマが止まっていない駐車場を乱暴な運転で横切ると、そのまま駐車場の一角のスペースにラインを無視した雑な停め方で駐車された。
 エンジンが停止して運転席のドアが開き、中から出てきたのは、ベージュのスーツに身を包み、サングラスをかけた黒髪のイタリア人優男だった。身長は172cmとヨーロッパ人としてはそれほど高くないが、体付きはがっちりとしている。ジャケットの下は白いタートルネックのセーターで、首にはグレーのマフラーを巻き、シックで上品な身なりだった。男はサングラスを外してジャケットの内ポケットにしまい込むと、「オレの人生、まだまだ捨てたもんじゃねえな。」と独り言を言いながらイギリス独特の灰色の空を仰ぎ、彫りの深い顔立ちに清々しい笑みを浮かべて、そのまま大きなバッグを肩に担いでパドックへと消えていった。
 
 パドックにいたジャーナリストやチーム関係者たちは、パドックへとひょっこりやって来たこの男の姿を見てざわめき始め、皆口々に「なぜ彼がここに?」と首をかしげた。男はそんなことには気にも留めず、顔見知りの人間を見かけると手を挙げて愛想を振りまく余裕すら見せながら、さっそうとピットレーンに入っていった。そして彼が足を止めたのは、マツダイラのピットガレージだった。
「やっと来たか、遅いぞアンディ!」神宮は男に気づき、ブース上から叫んだ。
「すまねぇ、グランプリウィークじゃないから道も空いてるだろうと思って普通にホテルを出たら、意外と混んでいてな。で、オレはどこで着替えたらいいんだ?」アンディと呼ばれた男は、陽気な笑顔を見せて癖毛の黒髪を手でかき上げた。
「裏にうちのモーターホームがある。そこを使え。誰かアンディを案内してやってくれ。」神宮はそう言ってガレージのメカニックに声をかけた。
 程なくして、アンディと呼ばれる男はマツダイラの金色のレーシングスーツに着替え、右手に自前のヘルメットを抱えてガレージへと戻ってきた。それを見た神宮は、オペレーティングブースでのモニタリングをハイド・ボーンと他のスタッフに任せ、自分はブースを降りてピットレーンを横切り、アンディに歩み寄った。
「すぐに出られるか?」神宮は彼に尋ねた。
「もちろんだ。」男はニヤリと自信満々の笑みで答えた。
「コンピューター関係のマニュアルはちゃんと読んだだろうな?」
「ああ、読んだよ。だがマニュアルだけでは完全に把握するのは無理だ。あとはコースを周回しながら徐々に覚えていくよ。何せコンピューターとは無縁の時代が長かったものでね。」男はそう言いながら早速メルメットを被った。
「よし、わかった。テストの段取りはこの間話した通りだ。細かいことはエンジニアの桑名とやりとりしてくれ。頼んだぞアンディ。」神宮はそう言って彼の肩を叩いた。
 
 彼の名は、アンドレア・デ・チェザリス。1959年生まれの35歳だ。チェザリスはカートで世界チャンピオンを獲得した後の77年、18歳でFF1600でフォーミュラに転向。イギリスF3BPシリーズ、F2などを経て、80年の第13戦カナダグランプリでアルファロメオからF1デビューを果たした。速さには定評があったが、レース中にはミスも多く、“壊し屋アンディ”の異名を持つ。そのため何度となく在籍したチームから見放され、昨シーズンまでの15年のキャリアで12回の移籍を経験する。現在までにF1でポールポジション1回、2位2回、3位3回の成績を残しているが、優勝経験はない。
 今シーズンは第3戦サンマリノグランプリからジョーダンで2戦出走した後、スペインを欠場してザウバーに移籍し、ジョーダンで4位1回、ザウバーで6位1回と2度の入賞を果たすも、それ以外のレースで9回のリタイヤを喫し、第15戦日本グランプリを前に再びシートを失ってしまった。
 しかしチェザリスは、ハイテク時代と呼応するかのように進む世代交代の中で、まだコックピットの中にコンピューターの液晶画面など存在しない時代から、自分の腕と勘だけを頼りに孤独な戦いに挑んできたベテランドライバーの1人だ。イヴァン・カペリ、デレック・ワーウィック、リカルド・パトレーゼ、ティエリー・ブーツェンらといったベテランドライバーたちが次々とエントリーリストの中から消えていく中で残された、最後の騎士なのである。チェザリスはこれまでにも、騎士と呼ぶにふさわしいキャラクターを兼ね備え、そして実際に騎士らしく果敢な走りを見せてきた。そして時に中堅チームで信じられないようなパフォーマンスを見せて存在感をアピールし、ファンの脳裏にその姿を焼き付けた。
 
 そのアンドレア・デ・チェザリスが、今回のテストでマツダイラMS−P2のステアリングを握った。彼がマツダイラに乗ることを知ったジャーナリストたちは、皆マツダイラのガレージを取り囲み、彼が金色のレーシングスーツを身にまとい、黄金のマシンに乗り込んでガレージを飛び出していく姿をカメラに捉えた。チェザリスが乗ることなど全く感知していなかったジャーナリストたちにとっては、それほどセンセーショナルなニュースだった。
 神宮はその様子を横目に見ながら、つかつかとブースに戻り、ヘッドフォンマイクを付けながらコース上に走り去るチェザリスのマシンを見送った。
「……博士、彼は大丈夫なんでしょうかねえ。」神宮はボーンにぼやいた。
「……さあな。じゃが、ケンはいたくお気に入りらしいぞい。」
「アンドレアの起用を松平の口から初めて聞いたときには、耳を疑いましたよ。よりによって貴重な新型マシンのシェイクダウンに“壊し屋アンディ”を乗せるなんて……。」
「ほっほっほっほ、やつはわしと同じでコンピューターは苦手なようじゃな。しかしやつには15年というF1での経験がある。昨年のカナダでは史上3人目となる200戦出場を達成したのからのう。その経験と持ち前の速さは、うちにとって貴重な資源になるじゃろう。」
「その200戦(正確には208戦)の半分以上はリタイヤですよ。それに、200戦以上も出場して一度も優勝していないというのもどうかと……。」神宮は苦笑した。
「……神宮くん、初めてのテストだと言うのに、不安になることを言わんでくれんか……。」ボーンは丸眼鏡の奥のつぶらな目をいっそう薄くして、神宮に冷ややかな視線を送った。
「……はあ、すみません博士。」神宮はそう言って、頭上のモニターに向き直った。
 実際アンドレア・デ・チェザリスは、今シーズンまで208戦出走しているが、最も長い間優勝したことがないドライバーとしては歴代1位、またリタイヤした数も通算134回で歴代1位という不名誉な記録を持っている。(2006年現在もこの記録は破られていない。)

   


 マキシは、ミハエル・カッズ・クーンが乗り込んだMSーP2がコースに出て行く様子をカメラに納めると、早々にピットガレージでの取材を切り上げてタイミングモニターのあるプレスルームに来ていた。プレスルームはピットレーンを見下ろせる建物の3階にあり、マキシはそこからプレス用に供給されるラップタイム情報を見ながらコース上の様子を見下ろし、MS−P2の走りをラップタイムと併せてチェックしようとしていたのだ。
 合同テスト3日目の今日は、すでに初日からテストを続けているザウバー、ジョーダンの他に、新たにリジェが加わり、マツダイラを入れた4チームが走り込んでいた。ザウバーが2台、ジョーダン、リジェ、そしてマツダイラが各1台ずつマシンを走らせているので、今日の合同テストには5台のマシンが参加していることになる。
 
 部屋の窓際の頭上に設置されたタイミングモニターには、現時点での参加ドライバーのタイムスタンディングが表示されていた。すでにトラックがオープンして3時間近く経過しているが、今回のテストでは、今日がシェイクダウンとなるマツダイラのマシン以外は、今シーズンを走り終えたばかりのマシンに一部新パーツがつけられたもので、特にこれといって驚くべきタイムが記録されているわけではなかった。
 モニターに記録されたタイムはリジェ・ルノーのテストドライバー、フランク・ラゴルスが記録した1分29秒025が最速で、以下ノルベルト・フォンタナ(ザウバー・メルセデス)、クリス・ニッセン(ザウバー・メルセデス)、ケルビン・バート(ジョーダン・ハート)と続き、マツダイラのミハエル・カッズ・クーンはとりあえず初期システムチェックのためのクルージング走行を30周程度おこない、トップから約4秒遅れながら、今のところ特に大きなトラブルもなくテストを続けているようだった。
 
 ところが、マキシが見守っていたタイミングモニター上に、新たに6台目のエントリーとなるもう1人のドライバー名が突如加わった。シルバーストーン・サーキット独自のシステムによって機能しているタイミングモニターには、ドライバー名はファミリーネームのアルファベット3文字で省略表記されるが、新たに加わったドライバー名は『CES』だった。
「……CES……?いったい誰が……」マキシはそれを見て慌てて窓際に身を乗り出し、ホームストレートを見下ろした。しばらくするとマツダイラの金色のマシンが通過したが、明らかにミハエル・カッズ・クーンのものとは異なるデザインのヘルメットを被ったドライバーが乗っていた。そしてそのヘルメットのデザインを、マキシは知っていた。
「……アンドレア・デ・チェザリス……!」マキシはマツダイラのガレージを早々に切り上げてプレスルームに上がってきていたため、アンドレア・デ・チェザリスがマツダイラのテストに参加していることを、たった今知ったのだった。
 マキシは再び頭上のタイミングモニターを見上げ、チェザリスのタイムの動向を追った。チェザリスはまだシェイクダウンしたばかりのマシンだというのに、タイヤが暖まり始めた5周目にはラゴルスとフォンタナに次ぐ3番手タイムをマークし、そして10周目には何と今回の合同テストで最速となる1分28秒998のタイムを叩き出したのだ。
「……な……速い……!唯一の新型車とはいえ……初走行でこのタイムとは……!」
 
 
「……あんのバカヤロウ……!何息巻いて飛ばしてやがるッ!」マツダイラのオペレーティングブースでカッズ・クーンとチェザリスの走行を見守っていた神宮は、チェザリスのタイムを見て、思わず日本語で怒鳴り声を挙げた。そしてすぐさま腰に取り付けたチェザリス用の無線機のボタンを押し、今度は英語で走行中のチェザリスに怒鳴った。
「アンディ!お前何考えてんだッ!そのマシンは今日が初めての走行なんだぞッ!まだ初期エラーも確認できていないんだッ!マシンに何かあったらどうするんだッ!」その神宮の怒鳴り声の後、ブースにいるスタッフ全員のヘッドフォンに、チェザリスの返答が聞こえた。
「別に飛ばしてるつもりはなないぜ?ちょいとアクセルを踏み込んだだけだ。このマシンはなかなかいい感じだ、トラクションもいいしブレーキの利きも抜群だ!セッティングを煮詰めればまだまだタイムの伸びしろもある!気に入ったぜ!」チェザリスの声は、エンジン音に混じってかなり興奮している様子だった。
「いいからもっと速度を緩めろッ!今日の目的はあくまで初期のシステムチェックだけだ!今日が初めてのシェイクダウンだってことを忘れてるのかッ!まだどんなトラブルが起こるかわからんし、マシンの挙動だって我々にも予測不可能なんだぞッ!……それにお前……F1歴15年のベテランだろうがッ!」神宮はさらに怒鳴り散らした。
「了解了解、ペースダウンしてテストプログラムを続行する。」チェザリスは答えた。
「今度無茶な走りをしたら即マシンから降ろすからなッ!」神宮は最後にそう言い放つと、腕を組んで苛立たしげに舌打ちをした。
 
「ほっほっほっほ、35歳の割にずいぶんと血気盛んじゃのう。」2人のやりとりを横で聞いていたハイド・ボーンは、のんきに笑い声を挙げた。
「……笑い事じゃありませんよ博士……MS−P2は2台しかないんですよ!それに今回のテストで使えるタイヤの本数だって限られているんです!シェイクダウンでいきなり壊されたらどうするんですか!」神宮は呆れてボーンにぼやいた。
「……まあまあ、とりあえず何事もなかったからいいじゃないか神宮君。それにほれ、早速言いつけを守ってペースを落としているみたいじゃぞ?」ボーンはそう言ってタイミングモニターを指さした。チェザリスが翌周に記録したタイムは、もう1台のMS−P2に乗り、指示通り初期チェックに徹しているカッズ・クーンと同等のタイムに落ちたが、それでもベテランのプライドが許せないのか、カッズ・クーンより1秒以上も速いタイムだった。
「噂には聞いていましたが、まさかここまで扱いにくい男だとは……先が思いやられますよまったく……。オレは最初からアンディの起用は反対だったんです!」
「……じゃが、少なくともこのシルバーストーンでは、MS−P2が今シーズンのイギリスグランプリの平均レースタイムと遜色ないタイムで走れるだけのポテンシャルを持っていると言うことは、これで分かったな……。」ボーンの口調が急に変わった。
「……確かに……それはそうですね。」
「そう考えると、見通しは明るいと思わんかね?」ボーンは丸縁眼鏡の奥の目を細めた。
「……いえ、しかし参戦するまでにはもう1年ありますからね。それにMS−P2は名目上来シーズンの車両規定に基づいて設計された新型マシンですから、すでに終わった今シーズンのタイムと比較するのは無意味かと。おそらく来シーズンになれば、さらに高速化が進んで全体的なタイムが短縮されるのは間違いないですからね。」
「……まあいずれにせよ、それは今考えることではないじゃろ。何せ今日は初めてのシェイクダウンなんじゃからな。ほっほっほっ!」ボーンは高らかな笑い声を挙げた。
(……博士が先に言い出したんじゃないですか……)神宮は顔を引きつらせた。
「じゃが、いきなりMS−P2の速さを披露してしまったのはまずかったかもな。」ボーンは鼻の下に伸ばした白い口髭をなでながらつぶやいた。
「……と、いいますと?」神宮はホーンに聞き返す。
「日本のことわざで、賢い鳥はなんとかっちゅうのがあるじゃろ。」
「……ああ、『能ある鷹は爪を隠す』ですね。」
「……わざわざ最初からこっちの手の内を見せてやる必要はないということじゃよ。新興チームであるうちのマシンがそこそこ速いとわかって、特に当面はうちの直接的なライバルとなる下位チームたちに奮起されても困るしのう……。」ボーンは肩をすぼめた。
(……F1は元々そういう技術競争の場なんですが……)神宮は呆れた。
 
 
 プレスルームでタイミングモニターを見ていたマキシは、チェザリスがシェイクダウンしたばかりのMS−P2でトップタイムをマークしたという事実に、大いなる衝撃を受けていた。彼は険しい表情で拳を口元に押し当てて、モニター上のチェザリスのタイムを見つめていた。
(……今年のイギリスグランプリのレース中でのファステストラップは、優勝したデーモン・ヒルがマークした1分27秒100……そのタイムから2秒と離れてない……。しかも相手はルノーV10エンジンを積んだウィリアムズなのに対し、マツダイラはフォードの型落ちエンジンをモディファイしたハートV8エンジンで、それも基本セッティングしか施していない初期状態で……。初めてF1マシンを開発したマツダイラが、いきなりこれほどのポテンシャルを持つマシンを作り上げてくるとは……。やはりマツダイラは、産業スパイと思われるマーカス・ミッドフィールドから入手したウィリアムズFW15の設計図を基に、マシン開発における様々なノウハウを学び、MS−P2に活かしていたと言うことなのか……。マーカス・ミッドフィールドが暗殺されてその証拠は隠滅されてしまったが、やはり何としてもケン・マツダイラにこの事実を突きつけて、真実を問いつめなければなるまい。イタリアン・マフィアのジョルノ・フェレーラとの関係とともに……。)

 
 
(つづく)


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