CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5 - 6
※この物語はフィクションです。


 11月中旬、今年のF1グランプリシーズンが終了して間もなく、再来年からF1に新規参戦する日本のコンストラクター(製造者)チーム『マツダイラ』の名前が、モータースポーツの世界最高峰F1グランプリを統括するFIA(国際自動車連盟)によって、初めて公式に各メディアに向けてアナウンスされた。そしてその模様は日本国内でも、日本でのF1中継の放送権を独占するテレビフジのスポーツニュースなどで放送された。その中でFIAのマックス・モズレー会長は「マツダイラの参戦は、F1にとって非常に喜ばしいことだ。再来年からグリッドに並ぶマシンが2台増えることで、決勝レースはよりエキサイティングなものとなるだろう。」とコメントし、マツダイラのF1への参入を歓迎した。また、F1グランプリにおいてほぼFIAと同列に位置する組織FOCA(F1コンストラクターズ協会)のバーニー・エクレストン代表も「日本から(ホンダに次いで)再びコンストラクターが誕生したことは大きな意味がある。マツダイラの参戦は、ヨーロッパ色が強いF1グランプリの、アジア諸国への浸透をよりスムーズにしてくれるに違いない。」とコメントし期待を寄せた。
 
 このFIAの公式発表によって、マツダイラF1参戦のニュースは海外のメディアに大きく取り上げられ、イギリスのBBCテレビやアメリカのABCテレビなどでも報道された。そして世界各国のモータースポーツジャーナリストたちが、その詳細を求めて続々と来日した。
 それを受け、静岡県に本社を置くマツダイラは、わざわざ東京まで出向いて都内のホテルで会見を開き、いくつかの具体的なチーム体制の発表をおこなった。それは、マツダイラ・モータースの社長であったケン・マツダイラが自ら監督となりグランプリチームを指揮するという、驚くべきものだった。現在明らかとなっているチーム体制は次の通り。
 
 


【チーム概要】
 ●チーム名称…………………………MAZDAIRA F1
 ●メインスポンサー…………………(未定)
 ●チーム規模…………………………約130名
 ●チーム国籍…………………………日本
 ●チーム本拠地………………………イギリス(予定)
 ●ファクトリー………………………(未定)
  
【キーメンバー】
 ●チームオーナー……………………伊達 宗政(マツダイラ社長)
 ●マネージング・ディレクター……松平  健
 ●テクニカル・ディレクター………神宮庄之助
 ●F1車体技術開発責任者…………ハイド・ボーン
 ●スポーティング・ディレクター…(未定)
 ●レース技術開発統括責任者………加藤 清孝
 ●F1テクニカルアドバイザー……(未定)
 ●マネージメントボード……………小西  隆
                 石川 正和
 ●シニアアドバイザー………………前田 利夫
 ●エンジニアリングディレクター…滝川 一政
 ●チーフレースエンジニア…………ギャレリー・カフカ
 ●レースチームマネージャー………南部 晴之
 ●レースエンジニア…………………マイク・オニール
                 桑名 英一
 ●テスト・ドライバー………………ミハエル・カッズ・クーン

 
 11月下旬、静岡県
静岡市、マツダイラ本社───始業時間の5分前に松平が出社し事務館の社長室に入ると、黒い髪が背中に届きそうなほど伸びた神宮庄之助がすでにそこにおり、応接用のソファーに座り、両肘を膝の上に乗せる格好で前屈みになりながらお茶を飲んでいた。
「あら、ショーさん早いね。」松平はおどけてそう言った。
「今日は、渡英前の最後のテストだからな。」神宮はそう言って両手で膝をパンと叩いてソファーから立ち上がり、横に置かれた愛用のボストンバッグを持ち上げ肩に掛けた。
「もう行けるんだろ?」
「ああ、悪いけど、ショーさんは先にスタッフとマイクロバスで行っててくれないかな。オレはちょっと用事を済ませてから自分のクルマで行くから。」松平は着ていたマツダイラのスタッフジャンパーを脱ぐと、それをロッカーのハンガーに掛けながらそう答えた。
「あ、そうなの。じゃあ、昨日と同じテストを進めていればいいんだな?」
「ああ、うん。今K−6でできることは限られているからね。」
「わかった。」神宮はそう言って社長室から出ようとドアノブに手を掛けたところで、ふと手を止めて松平の方に振り返った。
「……ところで、奥さんは大丈夫なのか?」神宮の問いに、すでにデスクに座って書類に目を通し始めていた松平は顔を上げた。
「……ああ、女房は小田原の実家に帰っているよ。2日ほどどこかのホテルに泊まっていたらしいんだが、昨日の夜帰ってきたって向こうのお義父さんから電話があった。まったく人騒がせなやつだよ。」松平はぼやき混じりでそう答えた。
「……で、奥さんと話はできたのか?」
「……いや、オレと話すことは何もないらしいよ。」松平は苦笑して、頭髪がほとんどなくなった頭のてっぺんをぽりぽりと掻いた。その様子を見た神宮は、一瞬顔を背けてためらうようなそぶりを見せたが、思い直して再び松平に顔を向けた。
「……お節介かもしれないが、ちゃんと話をした方がいいと思うぞ。お前、このままの状態で日本を離れるつもりか?今のうちに何とかしないと、取り返しのつかないことになっちまうぞ……。」神宮は呆れたような表情で松平に諭した。松平は何も言わず、ただ苦笑で応え、再び目の前の書類に目を向けた。神宮は再び何か言おうとしたが、今度は喉まで出かかっていた言葉を止め、首を2〜3度横に振って諭すのを諦めた。
「……ったく!どうなっても知らねえぞ!」神宮はやや乱暴な口振りでそう言い残すと、今度こそドアを開けて部屋から出て行った。
 
 松平は上目遣いで神宮が出て行ったドアを見ると、再び目を戻し、ゆっくりと引き出しに手を伸ばして1枚の紙切れを取り出した。それは、彼の妻の署名と捺印がされた離婚届だった。松平は口をへの字に曲げ、渋い表情でしばらくそれを見つめていた。
「……やれやれ、よりによってこの大事なときに……」彼はそうつぶやきながら大きな溜息をつくと、紙切れを元の引き出しにしまい込んでしまった。そのとき、松平は一瞬苦痛で顔をゆがめ、左手で腹の辺りを押さえた。ここ数日、松平は胃に違和感を感じていたのだった。何度か薬を服用していたのか、机の上には胃腸薬の箱とペットボトルに入った水が置かれている。彼は箱から錠剤を取り出して口に含むと、ペットボトルの水でゆっくりと飲み込んだ。そして気を取り直したように電話機に手を伸ばす。
「……ああ、松平だけど、販促課の福島くんを社長室に呼んでくれ。」
 
 
 程なくして、一人の青年が社長室へとやってきた。彼はやや緊張した面もちで、松平に促されるまま応接用のソファーに腰を下ろした。青年は、ふかふかのソファーに座っても背筋をぴんと伸ばし、両手を軽く握り両膝の上に載せていた。
「まあそう固くならずに、楽にしなさい。」松平は向かい側に腰を下ろしてにこりと笑った。
「……はい。」青年はそう答えたが、姿勢を崩そうとはしなかった。彼が松平に対して萎縮しているのには、訳があった。彼は以前、井川山中にあるテストコースK−6でのテスト中に、危険な事故を引き起こした原因となったミスを犯し、そのことで松平の逆鱗に触れ、F1プロジェクトから外されてしまったのだ。その時の松平のあまりの剣幕が彼の脳裏から離れず、未だに彼は松平に対して恐怖感を抱いていたのだった。
「……福島、販売促進課の仕事はどうだね?」松平はゆっくりとした口調で言った。
「……はい、各営業所や販売代理店を回り、製品の販売促進に努めております。」
「そりゃまあそうだろう。販売促進課なんだからね。」松平は笑いながらそう言った。
「……はあ、すみません。」福島は相変わらず緊張しまくっていた。
「……どうだ、今の仕事にやりがいを感じているかね?」
「は、はい!もちろんです!」福島は、顔はまっすぐに松平の方に向けてはいたが、目線はまるっきり別の方に向いていた。
 
「……なあ福島、そろそろ、F1の現場に戻らないか?」松平は静かに言った。
「……は?」福島は、松平の思いも寄らぬ言葉に目を丸くした。
「あれからだいぶ経ったことだしな。お前もあのときのミスで色々と思うところもあっただろう。だが、チームとしてはお前の技術と知識が必要なんだ。一度お前をプロジェクトから外した私がこんなことを言うのもなんだが、プロジェクトに戻って来てはくれないか。」松平は福島をまっすぐ見据えていた。
「……いいんですか!?」福島は突然のプロジェクト復帰話に、動揺を隠せないでいた。
「お前の技術もさることながら、今後の活動では、お前のような若手のリーダー的存在が必要なんだよ。何といってもレースはチームワークが大事だ。そしてお前のことを慕っているメカニックも大勢いるようだしな。」
「……僕はまたK−6でのテストに参加できるんですか?」福島は思わず前のめりになる。
「……いや、K−6じゃない。実は今後F1プロジェクトは、本社ファクトリーでの作業と井川山中のK−6でテストなどを行う『ジャパン・ユニット』と、海外での他のF1チームとの合同テスト、及び再来年からはF1グランプリに帯同する『グランプリ・ユニット』の2チームに分けることにした。そこで福島、お前には海外での合同テストやF1グランプリに帯同するグランプリ・ユニットのメンバーに入ってもらいたい。」
「……え?……グランプリ・ユニット……F1チームにですか……?」
「そうだ。F1チームのメカニックの一員として働いてもらいたい。」
「……僕が……F1チームのメカニックに……」福島は声を震わせた。
「まあ、急な話だから返事は急がないが、私としては是非ともお前に参加して欲しいと思っている。もちろん海外勤務になるから日本へはなかなか帰ってこられなくなる。だから親御さんともよく話し合って決めてくれ。」
「……は、はい……わかりました……」福島は呆然とした表情で答えた。
「話は以上だ。私は明日からイギリスに渡り、現地でのテストに同行することになる。次に帰ってくるのは再来週の半ばになると思う。その時に返事を聞かせてくれ。いい返事を期待しているぞ。」松平はそういってソファーから立ち上がると、自分のデスクへと戻った。
「……は、はい!」福島もソファーから立ち上がり、ぎこちなくドアまで進み、くるりと身体を振り向かせて「失礼しました!」と言いながら深々と頭を下げると、再びドアの方へ向き直り、ドアを開け退出した。
 福島は音を立てないように慎重にドアを閉め、ドアの方に向いたまま大きく深呼吸をして緊張を解いた。そして振り返り様に、突然嬉々とした表情で右手拳を振り下ろし、静かにガッツポーズした。社長室のすぐ脇にあるデスクに座っていた社長秘書は、それを見てクスッと笑った。そこへ、秘書のデスクの内線電話が鳴った。
 
 松平は社長室での書類の整理を終え、井川山中のK−6で行われているマシンテストに出発するため、ロッカーからスタッフジャンパーを取り出して羽織った。とそこへ、社長室のドアがノックされた。松平はジャンパーのファスナーを閉めながら「どうぞ」と答えた。入ってきたのは、彼の秘書だった。
「社長……いえ、監督、お客様がお見えです。」秘書は落ち着いた口調で言い直した。
「……今週いっぱいは社長でいいよ。で、誰?」松平は笑って聞き返した。
「サローネ様という女性の方で、社長のお知り合いだとおっしゃっていますが。」
「……サローネ?ガイジン?聞き覚えのない名前だが……」
「とりあえず私がロビーに降りてお会いしましたが、まだお若いブロンドの美人でしたよ。」秘書は含み笑いで答えた。
「……若いブロンドの美人?ますます心当たりがないな。」松平は首をかしげた。
「ふふふ、社長も隅に置けませんね。」秘書が付け加えた。
「……ちょっと……よしてよ吉原くん、人聞きの悪い……」松平は苦笑した。
 
 松平が怪訝そうな顔をしながらいそいそと1階のロビーに行くと、そこには秘書が言っていた通り、ブロンドの髪を肩口まで伸ばした若い女性が待っていた。ジーパンの上に厚手の白いダウンジャケットを着ていて、靴もスニーカーとカジュアルな出で立ちで、キャスター付きの頑丈な旅行用バッグに腰を下ろし、すらっと伸びる長い足を投げ出していた。彼女は松平に気づくと立ち上がり、嬉しそうに手を振った。
「チャオ!ケン!」彼女は大声でそう言いながら笑った。
「……エマ……」松平はぽっかりと口を開け、驚きの表情を隠さなかった。

   

 
10年前、イタリア・ナポリ───地中海を望む世界遺産の街ナポリ。ヨーロッパ最大の旧市街を抱え、ギリシャ・ローマ、中世、ルネッサンス、バロック、ロココ等の過去25世紀に渡る様々な都市文化が積み重った歴史の街だ。そのナポリのヴェスーヴィオ地方は、西暦79年の噴火で古代ローマ都市を火山礫と灰で飲み込んだヴェスーヴィオ火山がそそり立ち、青々ときらめくナポリ湾を断崖が取り囲んでいた。
 その断崖沿いの道路を、1台の赤いハッチバックの車が走っていた。イタリアではごく普通の大衆車として知られるフィアット・パンダだ。乗っていたのは中年の日本人夫婦と小学生ぐらいの少年で、夫がハンドルを握り、妻が助手席に乗り、子供は狭い後部座席で縮こまるように横になっていた。
 
「……ねえ、もっと大きな車はなかったの?」妻は夫に不平をこぼしていた。
「あのなあ……贅沢いうなよ。」夫は前を向いたまま答えた。
「せっかくイタリアに来たんだから、ゆったりとした車でドライブしたかったわ。」
「パンダはいいクルマだよ。一番イタリアらしい。」
「……この車って、日本でいうカローラとかでしょ?」
「まあな。でも、パンダは限られたスペースを最大限に活用した真の実用車だよ。イタルデザインの巨匠ジウジアーロが開発した最高傑作だ。1979年の登場以来、イタリア人の最良のアシとして大成功を収めたんだ。直線だけで構成されたボディパネルやシンプルで機能性の高いインテリアには、未だにファンが多いよ。」夫は自慢げに話した。
「……イタリアまで来て、あなたのクルマのうんちく話なんて聞きたくないわよ。」妻は相変わらず機嫌が悪そうにそう漏らした。
 そんな会話をしながら、車が絶壁のカーブに差し掛かると、そのカーブの途中で2人は思いがけない光景に出くわした。
「あん?なんだありゃ!」夫は思わず声を挙げた。前方の崖沿いの路肩で、おかっぱのブロンド髪の少女を抱きかかえた大柄のイタリア人男性がこちらに手を振っていた。夫がスピードを緩めて男に近づくと、男が額から血を流しているのがわかった。そしてさらによく見ると、その男の背後のガードレールが破られているのが確認できた。
「事故ったんだ!」夫は状況を理解した。
「大変!」それを知った妻も思わず両手で口を覆った。
 
 幸い路肩には車が一台停められるだけのスペースがあったので、夫はそこに車を停めて車から降りた。大柄の男は少女を抱いたまま夫に歩み寄り、もう片方の手で激しく身振りしながら何やらまくし立てていた。少女は男の腕に抱かれて、不安そうな顔つきで何も言わずこちらを見ていたが、両手でしっかりと男にしがみついているところを見ると、この二人が親子であることはすぐにわかった。男は口のまわりがヒゲで覆われており、見た目はかなり威圧的な感じだ。ところが、夫はイタリア語がまったくわからず、男が何を言っているのかさっぱり理解できずに困り果ててしまった。そこで妻も車から降り、会話に加わる。妻が男に「英語はわかる?」と尋ねると、男はうなづいて英語で話し始めた。
 男は10歳になる娘と車で走っていて、ここからガードレールを突き破って崖に飛び出したのだと話した。しかし幸い車は途中の木に引っかかったために崖下まで転落することはなく、命からがら車から脱出し崖をよじ登ってきたらしい。そして男は街まで乗せていって欲しいと夫に頼んだ。夫はうなずいて車に乗るように勧めた。
 
「助かった!ありがとう!名前を聞かせてくれないか?」助手席に座った大柄の男は、ハンカチで額の傷を押さえながら、カンツォーネ歌手のようなツヤのある低い声で夫に尋ねた。
「……ケン・マツダイラ。それに妻の真衣、せがれの慶喜だ。」夫は答えた。
「私はジョルノ・フェレーラ。そして後ろの子は私の一人娘、エマだ。」ジョルノと名乗る男は、後部座席の隅で怯えるように小さくなっている娘を見ながら言った。その横では何も知らない息子の慶喜が、母親の膝を枕にして相変わらず眠り込んでいた。
「いったいなぜ崖から落ちたんだ?前方不注意か?それとも車の故障か何かか?」松平は日本語でジョルノに質問し、それを妻の真衣が英語で通訳した。
「……いや、そのどちらでもない。」ジョルノは答えた。
「どういうことだ?」松平は訝しげな表情で聞き返した。
「……実を言うと、私たちは追われていたんだ。」
「……追われていた?じゃあ、追っ手から逃げていて事故ったと?」
「……ああ、その通りだ。」ジョルノがそう答えた瞬間、突然5人の乗った車に激しい衝撃が襲った。その衝撃に真衣と娘は思わず「キャッ!」という悲鳴を挙げ、熟睡していた慶喜も驚いて飛び起きた。いつの間にか背後にぴったりとついていた車がいきなり追突してきたのだ。
「何を考えてるんだあの車は!危ねえなあッ!」松平は怒りを露わにすると、後続車は再び追突してきた。明らかに後続車は故意に5人が乗る車にぶつかってきていた。
「くそッ!なんだってんだよッ!」松平は怒鳴った。
「奴らだ!奴らが戻ってきたんだ!」ジョルノはうわずった声で叫んだ。
「奴らって、追っ手のことか?」松平は聞き返した。
「そうだ!私たちを殺す気なんだ!」ジョルノは答えた。
「……こ、殺す気だって?ウソだろおいッ!シャレんなんねえよッ!」
「頼む!もっとスピードを上げて、奴らを振りきってくれ!」ジョルノは松平に叫んだ。
「言われるまでもねえッ!みんなシートベルトを締めて、しっかり捕まってろ!」松平はそう言ってハンドルを握り直し、アクセルをめいっぱい踏み込んだ。
 
 5人を乗せた赤いフィアット・パンダは突然スピードを上げ、後続車をみるみると引き離し始めた。しかしすぐに後続車もスピードを上げ、追走を開始する。松平はコーナー手前ですばやくシフトダウンし、ハンドルを切りながらブレーキを踏んでコーナーに切り込んでいった。それはおおよそ考えられないほどの進入速度だったが、車はコーナーの内側を軸に横滑りしながら回転し、まるで氷の上を走るかのように、滑らかにコーナーを抜けていった。その後も松平が運転するフィアットは、タイヤのスリップ音を響かせながら大小のコーナーを次々と駆け抜け、まるで世界ラリーを見ているかのような驚異的な走りを見せた。松平は額に汗を浮かべながらも、そのハンドルさばきやギアさばきは極めて正確で、的確にペダルを踏み分けて加減速を繰り返しているように見えた。クルマの動きはまるでアクロバット走行のように激しかったが、松平は明らかに、クルマを完全にコントロールしていたのだ。
 ジョルノは「振り切ってくれ」と頼んだものの、そのあまりのスピードとジェットコースターのような運転に、シートにへばりついた状態で顔面蒼白で硬直していた。後ろでは真衣とエマが悲鳴を挙げている中、真ん中に座っている慶喜だけが目を爛々とさせ「うおおッ!父さんすげえッ!」と喜んでいた。
 後続車も懸命にフィアットを追うが、フィアットが5人も乗っているとは思えないような信じられない速さで逃げていき、そのうちコーナーで後続車がミラーに映らなくなるまで引き離した。しかし崖沿いの道は対向車もまばらな延々一本道で、恐怖のカーチェイスは一向に終わる気配がなかった。
「ジョルノ!この道はずっと一本道なのか?」松平が日本語で叫ぶが、真衣が悲鳴を挙げているのでジョルノに通じない。「真衣!訳してくれよ!」松平が怒鳴った。真衣は悲鳴を挙げながらもジョルノに通訳した。
「……もう少し行くと崖を登っていく道がある!……いや、だめだ!進行方向とは反対側に登っていくから、こちらからでは入れない!」ジョルノは必死で答えた。
「そんなに鋭角なのか?」松平は聞き返した。
「……ああ、入ろうと思ったら一度切り返さなきゃ無理だ!だがその間に奴らに追いつかれちまう!そこはダメだ!」
「とりあえず場所を教えろ!どこだ!」
「……あのカーブの向こうに標識が見えるだろ!そのすぐ先だ!」ジョルノはそう言って道の先を指さした。
 フィアットはすぐにジョルノが指さした標識に到達した。
「入口はどこだよ!見えないぞ!」松平は再び叫んだ。
「……ここだッ!だが無理だッ!」ジョルノが言い終わるか終わらないかのうちに、松平はハンドルをいっぱいに切りながらサイドブレーキを引く。その瞬間、フィアットは激しいスリップ音を響かせながらスピンして180度回転した。その遠心力で松平を除く4人全員が車内の一方に寄ってしまう。すると、そこには反対側からはまったく見えなかった崖を登っていく小道が姿を現したのだ。松平は迷わずアクセルを踏み込んでその小道へと入っていった。小道は緩やかなカーブを描きながら登っていく。
 しばらく進んだところで松平は車を停め、後ろを振り返った。どうやら追っ手はそのままこの小道に気付かず走り去ってしまったようだ。松平はフーッと息を吐き出し、後部座席に座っている3人に「大丈夫か?」と声をかけた。エマと真衣は窓にもたれるようにぐったりとしていたが、慶喜だけが興奮した表情で何度もうなずいていた。

   

 その日の深夜、サレルノ・アマルフィ───5人は追っ手から確実に逃れるため、ナポリを出て延々と西へ走り続け、メッシーナ海峡を車ごと船で渡り、深夜にシチリア島サレルノ県のアマルフィに辿り着いた。アマルフィは全長40kmにも及ぶアマルフィ海岸の中心地で、中世初期に海洋貿易港としてベネツィア、ジェノバに先駆け発達した海洋都市だ。貿易港らしくアラブの影響を受けた歴史的建築物が海からの夕日の反射に映えて、エキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
 一行は、街の東側の岬に張り出すように建つホテル「ルナ・コンベント」に身を置くことにした。「ルナ・コンベント」とは「月の修道院」という意味で、12世紀の修道院を利用した高級リゾートホテル。現在も地元の結婚式などが行われている伝統ある建物だ。
 ジョルノは助けてくれたお礼だと言って宿泊費を出し、念のため松平の名でチェックインし、5人は地中海が一望できる広い石壁の部屋で、ようやく心と身体を休めることができた。部屋の中にはアンティーク家具が上品に配置されており、窓際には昔ながらの暖炉と革張りのソファーがあり、ゆったりとリラックスできる極上の空間だった。エマと慶喜の2人の子どもは疲れ果てて寝室で眠ってしまい、ジョルノと松平夫妻の3人は、薪をくべた暖炉の前でシャンパンを開けた。
「すげぇ!絶好のオーシャンビューだよ!」松平は大きな窓から見える海岸沿いの街の明かりを見下ろしながら、子どものように奇声を挙げて無邪気にはしゃいでいだ。
「ルナ・コンベントなんて滅多に泊まれるもんじゃないわよ!」真衣も嬉々としていた。
「オレらが泊まっていたナポリのサンジョルジョとは、やっぱ全然格が違うなあ!」
「沖に見える明かりはイカ釣り漁船かしら。」真衣もシャンパンを片手に窓際に立つ。
「……んなわきゃねえだろう、焼津じゃあるまいし……」松平は呆れた。
「……あれは、富豪たちのクルーザーの明かりだ。この辺りは世界中のセレブリティの隠れ家として知られるリゾート地だからな。夜になるとああやって自家用クルーザーで沖まで出て、船上パーティーを催しているのさ。」ジョルノが答えた。
 
「……それより、あんたすごいな。あの危険な状況で動揺せず常に冷静で、しかもあんな神業のような芸当をやってのけるんなんて。あんたはレーサーか何かか?」ジョルノはシャンパンをあおりながら松平に感嘆のまなざしを向けていた。
「いや、ただのクルマ好きだよ。日曜日の早朝とかに、近所の峠道で走り込んでいるだけさ。それより、冷静だったなんてとんでもない!死ぬかと思ったよ!」松平は苦笑した。
「もうあんな恐ろしい運転は二度とごめんだわ……」真衣が口を挟んだ。
「あんた方は、私たちの命の恩人だ。何とお礼を言っていいのやら。それに、あんな危険な目に遭わせてしまって、本当に申し訳ない。あんた方を巻き込むつもりはなかったんだが、まさか奴らがまた戻ってくるとは……。」ジョルノは先程までとは打って変わって、物静かな口調で松平夫妻に感謝と謝罪の言葉を述べた。それを聞いた松平は振り返り、暖炉の前のソファーに腰を下ろした。
「……あんたを追っていたあの過激な連中は、一体何者なんだ?」松平は問いただした。
「……あんた方には正直に話すが、奴らは、モンテール・カルロス一家と呼ばれる連中だ。そして私も、モンテール・カルロス一家の幹部だった。」
「モンテール・カルロス?」松平は首を傾げた。
「わかりやすく言うと、日本のヤクザのようなものだ。」ジョルノは答えた。
「……てことは……マフィア!」真衣は思わず叫んだ。
「そうだ。モンテール・カルロス一家は、表向きは『モンテール・カルロス総合商社』という海外貿易の大手企業だが、その実情はこの辺り一帯を仕切っているマフィアだ。」
「それで、そのマフィアの幹部だったあんたが、なぜかつての仲間に命を狙われる羽目になっちまったんだ?」松平の言葉が真衣に訳される。
「……裏切られたんだ。私を妬む、ダンという男にな。」ジョルノは静かに答えた。
「……内輪もめかよ……あ、今のは訳すなよ。」松平は真衣に言った。
 
「……モンテール・カルロスには、ポリーという私と同年代の一人息子がいたんだが、モンテールは私やダンのことも、実の息子のようによくしてくれていた。だから私やダンも、モンテールのことを“親父”と呼んで慕っていた。だが野心家のダンは、オレが親父に気に入られているのをよく思っていなかったんだ。そして私は、親父に頼まれたある大きな仕事を成し遂げて、さらに親父に重宝されるようになった。おそらくそれがダンの嫉妬心に火をつけたのだろう。ダンはポリーの誕生日に、私に毒の入ったワインを持たせ、ポリーを殺させたのだ。」
「……殺させたって……平然とそんなこと言うなよ……」松平はぼそっとつぶやいた。
「……恐ろしい ……」真衣も思わず身震いした。心なしか、真衣のジョルノを見る目が少し変わったように感じられた。
「そう、私はダンにはめられ、ポリー殺しの濡れ衣を着せられたのだよ。相手を陥れるためには手段を選ばない、そして己の野心のためならどんなことでもする……私が生きているのは、そういう世界なのだよ……。」ジョルノは言い終わるやいなや、悔しそうにソファーを拳で殴った。そしてジョルノの両目からは、いつの間にか涙があふれ出ていて、それが頬を伝い、口の周りに蓄えられた髭に吸い込まれていった。やがてその哀しみの表情は、見る見る激しい憎悪の顔へと変わっていった。それが暖炉の火に照らされ怪しく揺らめいていた。松平と真衣は、ジョルノが一瞬だけ見せた涙の理由がわからなかった。なぜジョルノは、憎悪の中に哀しみを見せたのだろうか。
「……あんた、これからどうするんだ?」松平は生唾を飲み込んで言いかけた。ジョルノはその言葉には何も返さずしばらく沈黙していたが、やがて目をつむり、一度深く深呼吸をして気持ちを落ち着けると、松平に向き直って口を開いた。
「いずれにしても、これは私自身の問題だ。あんた方をこれ以上巻き込むわけにはいかない。もう十分危険な目に遭わせてしまったからな。私は明日の朝一番にエマを連れてホテルを出る。そしてあんた方は、私とは一切関わりはなかった。それで終わりだ。あんた方を悪いようにしたくない。だから今日のことは、他言無用だ。」ジョルノはソファーから立ち上がり、松平夫妻を見下ろしてそう言った。
「……だが、あんた方への恩は、一生忘れない。あんた方が乗せてくれなかったら、あの後やって来た連中に、私とエマは殺されていただろう。」ジョルノは最後に、穏やかな表情で笑みを見せた。
 
 翌日の朝、松平が暖炉のソファーで目を覚ますと、すでにジョルノ・フェレーラとエマの親子はホテルを去った後だった。真衣はまだ松平の隣で毛布にくるまり、静かに寝息を立てていた。そこへ、ホテルに着く前から眠っていて何も知らない慶喜が、目を擦りながら寝室から出てきた。
「……あれ?あの髭のおじさんは?」慶喜は眠そうな声で父親に尋ねた。
「もう家に帰ってしまったよ。さあ、母さんを起こして朝食にありつこう。ここの朝食は地中海で獲れた海の幸がいっぱいで、朝から豪勢らしいぞ。」松平は慶喜の寝癖のついた頭をぐしゃぐしゃと手でわしづかみにしながら、にこやかにそう言った。息子があの恐ろしい話をまったく聞いていなかったことが救いだった。

   

 現在、日本・静岡県静岡市・マツダイラ本社───
 突然本社を訪れたエマを会議室に案内した松平は、部屋の中に設置されている自動販売機の中からコーヒーの入った紙コップを取り出すと、それをエマが座っている机に置き、自分も向かいの椅子に腰掛けた。
「エマ、ずいぶん大きくなったな。サローネって言うから誰かと思ったよ。」
「サローネはママの名前。だから私のフルネームはエマ・サローネ・フェレーラよ。」エマは目鼻立ちがはっきりとした彫りの深い顔立ちに笑みを浮かべた。
「ケンもしばらく会わないうちに、英語が上達したようね。初めて会った時はマイに通訳してもらっていたのにね!」エマは無邪気に笑った。
「これから海外で仕事をすることになるからな。英会話を習ったんだよ。」
「私なんて、イタリア語、フランス語、英語が喋れるもんね!」
「すげえ……3カ国語かよ……」松平は顔を引きつらせた。
「マイとヨシノブは元気?2人とも子どもの頃に一度会ったきりだけど。」エマはシャギーのかかったブロンドの髪と顔の間に手の平を差し入れて頬杖をついた。その仕草は、まだあどけなさが残っていた。
「慶喜は元気でやっているよ。確かエマと同い年だったな。あいつはもうオレの元を離れて自立している。だが、女房とはちょっともめていてな。今は別居中だ。」松平はコーヒーを飲みながら淡々と答えた。
「まあ!別居ですって?あんなに素敵な奥さんなのに!」エマは目を丸くした。
「……まあ、色々と大人の事情があるんだよ。」松平は苦笑した。
「他に愛人ができたの?」エマは無頓着に聞き返した。
「まさか。愛人なんていないさ。ただ、オレの仕事が忙しすぎて、お互いすれ違いが続いていたんだ。女房はそれに耐えきれなくなったんだ。」
「ケン、あなた贅沢すぎるわ。私のパパは、ママを大事にしたくてもできないのよ。もうこの世にはいないんだから、ずっと愛し続けることはできても、ママには何もしてあげられないのよ。それに比べたら、あなたはよっぽど恵まれているわ。」エマは真顔で松平を見つめた。
「……ここへは、何しに来たんだ?まさかオレに説教をするためにわざわざイタリアから来たわけじゃあるまい。」松平は話をはぐらかすようにエマに尋ねた。その問いに、エマは急に顔を曇らせる。
「……あのねケン……パパが、パパが行方不明なのよ。」
「……ジョルノが……?」
 
「……あのナポリでの事件の後、私とパパはイタリアを離れて、モンテール・カルロスの息がかからないニースに移り住んだの。パパはそこで小さな貿易会社を営み、私は店の仕事を手伝いながら学校に通い、平和な生活を送っていたわ。」
「南フランス、コート・ダジュールか……いいところだ。まさにエルミタージュ(フランス語で“隠者の庵”の意)だな。」
「……でも、私が20歳になった日の夜、パパは私に言ったの。パパはどうしてもやらなければならない仕事があるって。そして、もしパパがひと月経っても帰って来なかったら、パパはもう戻ってこないかもしれない。だから、お前はお前の人生を送りなさいって。その時のパパは、とても思い詰めたような表情だったわ。」
「……やらなければならない仕事……?」松平は眉をひそめた。
「……私には何も言ってくれなかったけど、パパは私が高校を卒業して成人するまでは、ニースで静かに暮らそうと思っていたのよ。私のために、本心を無理矢理心の奥に押し込んだままね。そして、私が成人して一人でも生きていけるようになった今、パパは私を残してニースから去っていったの……ダンに復讐するために……。」
「……復讐だって……?」松平は言葉に詰まった。
「ええ、そうよ。」
「ジョルノは今更復讐しようと考えているというのか?10年も前のことだし、今まで幸せに暮らしてきたじゃないか。」松平は困惑した表情で言った。
「……ケン、あなたは知らなかったと思うけど、私のママは……」
「……ん?」
「……ううん、なんでもない。」エマは首を横に振って無理に笑顔を作ったが、その表情は深い哀しみに満ちているようだった。
 
「……それで、ジョルノの手がかりを探すために、オレの元を訪ねてきたのか?残念だがオレは何も知らないよ。」松平はタバコに火をつけると、背もたれに寄りかかった。
「ケン、あなた以前、パパと会ってるでしょう。あの時、いったい何を話したの?」エマは松平にすがるように、逆に問いただした。
「去年の話か?」
「そう!ケンがフランスに来た時の話よ!」
「……あのときか……」松平は苦虫を噛みつぶしたような渋い表情を見せ、胃の痛みを気にするように腹に手を当てた。そして鼻から息を大きく吸い込むと、ゆっくりと口を開いた。
「……昨年の初めぐらいから、仕事の関係で何度かフランスに行っていたんだが、そこで偶然、ジョルノと再会したんだよ。しかもマニクールのサーキットでね。」
「マニクールですって?それは初耳だわ。パパは商品の買い付けだと言って色々なところに出かけていたけど、マニクールの話は聞かなかったわ。」
「ああ、オレは今レース関係の仕事をしているんだが、彼もレース関係者らに混じっていた。それもグランプリではなく、ただのテスト走行の時期にね。少なくともマニクール・サーキットは、そんな時期に小さな貿易会社を営んでいる人間が来るところではないよ。」
「それで?」
「その夜、オレとジョルノは久しぶりの再会を祝って飲み明かした。そこで彼は、オレに魅力的な話を聞かせたんだ。」
「……魅力的な話?」エマはずいと身を乗り出した。
「ああ、オレがF1グランプリ業界に進出しようと画策していることを話したら、ジョルノは、あるF1トップチームの極秘情報が手に入るという話をし始めたんだ。それも現在選手権をリードし続けているウィリアムズというチームの、当時開発中だった新型マシンの設計図さ。ちょうどその頃、うちはマシン開発で技術的な壁にぶち当たっていた時期でね。まだF1技術に関するノウハウがほとんどなくて手探り状態だったから、その話を聞いたときは、喉から手が出るほど欲しかったよ。まさに最高のひな形だからね。」
「……パパは、何でそんな情報を……」
「……さあな、オレがジョルノから聞いたのは、ただ、ウィリアムズのエンジニアが最新のマシン設計図を持ち逃げするという話だけさ。なぜジョルノがそんなことを知っていたのかはわからない。」
「それでパパは、あなたに協力したのね。」
「ああ、オレも無理を言って何とかその設計図が手に入らないか頼み込んだからな。あの頃はオレも必死で、何も見えていなかった。」
「パパはあなたに恩を感じているからね。あなたの頼みじゃ断れないわ。」
「……だが、そのこととジョルノの失踪が、何か関係あるのか?」
「……パパは、日本に来たのよ。」
「……え?そうなのか?」松平は驚きの表情を見せた。
「……うん。パパがいなくなってから、私は必死でパパの行方を捜したわ。そして最後の手がかりは、パパがいつも利用している小さな旅行代理店で、パパが日本行きの航空券を購入したと言うことだけ。そして私が知る限り、日本とパパを繋ぐのは、ケン、あなただけだったのよ。」エマは落胆した表情でつぶやくように言った。
「……なあ、それっていつ頃の話だ?」松平は尋ねた。
「……1ヶ月ほど前よ。」エマは答えた。
(……マッコイ・ナックが狙撃された頃じゃないか……)松平は直感した。

   

 静岡市・井川山中・マツダイラテストコース『K−6』───ここは、これまでマツダイラF1プロジェクトの唯一の拠点だったが、いよいよプロジェクトは海を渡り、数日後から始まるF1合同テストで初めて他のF1チームと肩を並べることとなる。その最初の舞台はイギリスのシルバーストーン・サーキットで、今日のK−6でのテストは渡英前の最後のテストだ。
 マツダイラのF1プロジェクトは今後、国内に残り引き続きこのK−6でテストを継続する『ジャパン・ユニット』と、海外で他のF1との合同テストに参加し、F1グランプリにデビューしてからはグランプリを転戦する『グランプリ・ユニット』に分けられることとなった。現在グランプリ・ユニットはイギリス・コッツウォルズにあるファクトリー『マツダイラ・ユーロ』が製作したニューマシン『MS−P2』がシルバーストーンに向かっていて、現地での新車発表とシェイクダウン(試運転)待ちとなっている。マツダイラF1の監督に就任した松平とレース戦略を担うテクニカル・ディレクターである神宮は、今日のK−6でのテストを終えた後、明日日本を発ち、グランプリ・ユニットと合流する。
 そして今日K−6を走行しているのは現行型マシン『MS−P1改』で、それにマツダイラ製のブレーキシステムとサスペンションが装着され、パーツ単位の耐久テストが行われていた。すでにこれまでMS−P1改で培われたテストの成果は、数日後にシルバーストーンで発表されるMS−P2に反映されており、旧型となるMS−P1改は今後しばらく、ジャパン・ユニットによる国内での新開発のパーツテストに利用されることとなる。そしてK−6でゴーサインが出されたパーツは空輸され、グランプリ・ユニットに送られるのだ。
 
 松平が自分のクルマでK−6に遅れて到着したのは、正午を少し回った頃だった。当然のことながら、朝には着いていた神宮とスタッフたちによって、すでにテスト走行は開始されていた。松平はいそいそとピットレーンに入ってくると、ホームストレートのウォール沿いに設置されたオペレーションブースに収まった。
「おう、遅かったな。」ブースに座っていた神宮は、松平のために座る位置をずらした。
「すまん、急な来客があってね。」松平はそう言いながらヘッドフォンマイクを装着した。
「今のところは問題はないよ。エンジンをセーブしながらブレーキを酷使させる走行を続けているが、120周以上ぶっ通しで走り続けてようやく変化が見られてきたところだ。」神宮は目の前の複数のモニターを見守ったまま松平に現状を報告した。
「120周か。K−6はコース全長が短いから、実際のレースディスタンスに換算したら、だいたいちょうど1レース分ぐらいだな。」松平は何度かうなずきながら答えた。その時、2人が装着しているヘッドフォンに、マシンに乗ってコース上で走行を続けているテストドライバーのミハエル・カッズ・クーンからの無線が入った。
「ブレーキはまだだいぶ持ちそうだけど、タイヤの方がブリスターがいくつもできていて持ちそうにない。ピットインを要求する。」カッズが熱心な声で状況を説明した。
「了解。ペースを緩めて安全にピットに戻ってこい。ランチにしよう。」神宮は答えた。
 ブリスターとはタイヤに生じる気泡のことである。F1でのタイヤのゴムは原料ゴムとカーボン、硫黄、薬品を混ぜたもので、骨格であるカーカス、ベルトを巻き、ビードワイヤー束のリングを両側にはめ、外周のトレッドを貼り付け、熱処理して製造される。そしてグリップ力を生み出すタイヤと路面の接地するトレッド面のゴム質をコンパウンドと呼ぶが、このコンパウンドの加熱によって熱が上がりすぎると、タイヤの表面に泡状のものが生じる。ブリスターが発生すると、タイヤのグリップ力は大きく低下してしまうのだ。
 
「サスペンションの方はどうだい?」松平は神宮に尋ねた。
「ああ、92周目に給油に入った時点では特に問題はなかった。ただまあ、エンジンを壊さないようにセーブして走っているから、信用できるデータではないな。」神宮は答えた。
「……まあねえ。しかもK−6はフラットなコースだからね。」
「ああ、サスペンションはバンピー(起伏が多い)なコースでその真価が問われるからな。実際にそういうサーキットで走ってみないことには何とも言えねえな。」
「……でも、来週から合流するシルバーストーンも、フラットなんだよね……。」
「まあ、フラットなここでトラブルが出なかっただけでも良かったんじゃないか?」
「そりゃそうだね。」
「サスとスタビライザー、それに車高のバランスがバンピーなコースでうまくマッチしてくれるといいのだが……」神宮は拳を口元にあてて唸った。
「実は、サス担当だった福島を復帰させようと思っているんだ。」松平は笑みを浮かべた。
「おお、あいつか。」
「正式な返事はまだだが、グランプリ・ユニットに加えたいと思っている。」
「福島だったら、MSの足回りはかなり把握しているから、セッティングを見いだす効率は格段に上がるだろうな。……でも、いいのか?あれだけえらい剣幕でプロジェクトから外したのはお前だぞ。」神宮はニヤリと笑みを浮かべながら松平に皮肉を言う。
「……まあ、あのミスはあってはならないミスだったからな。だが、そのミスの重大さやそれによって引き起こされる危険性は、あいつもよくわかっただろう。オレは一度大きなミスを犯した人間は、そのことを肝に銘じて、二度と同じミスを犯さないと信じている。それにあいつは、仕事に前向きで真面目な人間だからな。大丈夫だろ。」松平はそう言い残すと、ヘッドフォンマイクを外して一足先にブースから降りてしまった。
 
 K−6のピット裏に建つ、まるで飛行場の管制塔のような打ちっ放しの建物の1階には広い食堂にがあり、松平や神宮、それにテストドライバーのカッズ・クーンを含めた20人ほどのスタッフたちが、昼食を摂るためぞろぞろと押し掛けてきた。厨房では給食センターの調理師たちが割烹着姿で動き回っており、カウンターでスタッフ一人一人に昼食を配給している。
 松平と神宮は、窓際の一番厨房に近い席に向かい合って座りながら食べていた。
「ここでの隠匿活動も、今日で終わりだな。」神宮はカツ丼をほおばりながら言った。
「ははは、隠匿活動ね。ここもある意味エルミタージュか……。」松平は笑った。
「……エルミタージュ?」神宮はきょとんとした。
「……いや、何でもないよ。それより、ショーさんはイタリアには詳しい?」
「イタリア?詳しいってのは?モンツァのことか?それとも観光スポットのこと?」唐突な質問に、神宮は箸を止めた。
「……いや、ショーさんは今までいろんな国でモータースポーツに携わってきたから、一度は耳にしたことがあるんじゃないかと思ってさ……」松平は歯切れ悪く続ける。
「……何を……」松平のもったいぶった言い方に、神宮は少し苛立った。
「……モンテール・カルロスって名前をさ。」松平は思い切って口に出した。
「……ああ、知ってるよ。マフィアだろ?」神宮は平然と即答した。
「おお!さすがショーさん!伊達に世界を股に掛けてないね!」松平は本気で感心した。
「……なんだそりゃ。まあ、オレも“パドックの噂”として耳にしただけだけどな。」
「……パドックの……?」
「ああ。どっかのグランプリで聞いたんだが、真意のほどはわからんが、F1のフェラーリがイタリアン・マフィアと繋がりがあるっていうもっぱらの噂でね。そのイタリアン・マフィアってのが、モンテール・カルロスらしいのさ。まあ、フェラーリは唯一1950年の初開催からF1に参戦している名門チームで、イタリアを中心に各国にフェラーリ信者がいる特別なチームだからな。マフィアと連んでいたとしても不思議じゃない。」
「フェラーリとモンテール・カルロスが繋がってる?」松平は驚きの表情で聞き返した。
「いや、あくまで噂だぜ?こういう話はパドックではまことしやかに囁かれていることが多いからな。その半分は信憑性のないガセネタだよ。」神宮は慌てて付け加える。
「でもさ、フェラーリが仮にマフィアと繋がっているとして、いったいどんなメリットが?」
「……パドックの話じゃ、トップチームのメカニックを買収してスパイに仕立て上げ、その技術を横流しさせてフェラーリのマシン開発に利用するとかな。フェラーリはもう何年もタイトルから遠ざかっているから、名門チームとしての威厳を取り戻すために、水面下で動いているって話だ。あり得ない話じゃないが、まあにわかには信じがたい話だわな。」
「……ふうん。」松平は口を尖らせながらつぶやいた。
「で、モンテール・カルロスがどうかしたのか?」神宮は再びカツ丼をほおばった。
「……いや、ちょいと小耳に挟んだものでね。」そう言って松平もうどんをすすった。

   


 翌日の早朝───松平と神宮、そしてテストドライバーのカッズ・クーンは、東京行きの新幹線の中にいた。彼らはこのまま羽田空港に向かい、そこからF1の合同テストが行われるシルバーストーン・サーキットがある、イギリスのノーサンプトンへと向かう。
 3人はグリーン車の同じ車両に乗っていたが、カッズは少し離れた2人掛けのシートに1人で座り、まだ乗り込んだ直後だというのに、もうポータブルCDプレイヤーのイヤホンを耳に入れて腕を組み、目をつぶって眠る用意をし始めていた。松平と神宮の2人は隣り合って座っている。そして新幹線が動き出すと、神宮が口を開いた。
「あの2台の市販車もシルバーストーンに持ち込むのか。」
「『イエヤス』と『タケチヨ』ね。初回生産の500台ずつはすべて終わったから、そろそろ販売に向けて動き出さないとね。何と言っても高価なクルマだし、特に『イエヤス』はかなりデカいセダンだから、国内ではそう売れないだろうからね。欧米での販売も見据えて、アピールしておかないと。とりあえず今回は各1台ずつシルバーストーンに持ち込むんだよ。すでにイギリスに送ってある。」松平は缶コーヒーを飲みながら答えた。
 スーパーセダン『イエヤス』とコンパクトスポーツカー『タケチヨ』は、マツダイラ・モータースが開発して、昨年の冬に国内で市販化の認可を受けたオリジナルカーだ。デトロイドで行われたモーターショーにも出品され、その個性的で斬新なデザインが来場者や関係者の注目を集め、話題を呼んだ。マツダイラはこの2車種をそれそれ500台ずつ生産し、限定車として販売しようとしていたのだった。生産はすでに終わっており、あとはマーケティング戦略を駆使して市場に送り出すだけの状態となっている。
「英語圏で、そのネーミングで果たして売れるのか?」
「一応販売するときは、『イエヤス』は『M101』、『タケチヨ』は『M201』として売り出す予定だよ。だから『イエヤス』や『タケチヨ』といった名前は俗名的な感覚にしようと思っているんだ。」
「……フェラーリで言う『スパイダー』とか『モデナ』みたいなもんか。」
「そうそう。それで、売れ行きが好調だったら、いずれは『M102』とか『M202』とか、シリーズで作っていこうかな〜なんて漠然と考えているんだけどね。」
「……で、シルバーストーンに持ち込んで、どうしようってんだ?」
「……そうだな、とりあえずはフォトセッションでもして、その後はMS−P2と一緒にシェイクダウンでもしてみるか?」松平は楽しげに笑った。
「ばーか。そんなことしたら他のチームからクレームが来るぞ。」神宮は吐き捨てた。
「……やっぱり?まあ、うちは新参者だしね。」松平は苦笑した。
「……いや、そう言う問題じゃなくて。F1の合同テストだし。」神宮は呆れた。
「しょうがないなあ、じゃあ、駐車場借りてデモランでもするか。」
「……誰がやるんだよ。」
「オレがやるよ。オレのドリフト、すごいんだぜぇ?」松平は得意げにそう言った。
「……言ってろ。」神宮はそう言って新聞を広げた。
 
 その後は特にこれと言って話すこともなく、それぞれコーヒーを飲んだり新聞を読んだりしながら沈黙が続いていた。新幹線が新富士駅に差し掛かり、頂上付近に白い雪化粧を施した初冬の富士山が見え始めた頃、松平は窓際の席から流れる風景を眺めていた。そこへ、神宮がおもむろに話しかける。
「……結局、奥さんとは何も話さなかったのか。」
「……ああ。一応昨日も小田原の実家に電話はしてみたんだが、話すことなどないの一点張りみたいで電話にも出てくれなかったよ。まあ、帰国したらまた考えるさ。」松平は気のない返事で答えた。
「帰国したらってお前、3週間後だぞ。そんなに長い間放っておいたら、帰ってきた時にはすでに手遅れになっちまうぜ……。」神宮はぼやいた。
「……ここまで来たら、なるようにしかならんよ。」松平は窓の外を見つめたまま答えたが、急にビクッとしてもぞもぞと背広の内ポケットから携帯を取り出した。
「すまん、ちょっと電話。」松平は慌てて席を立って神宮の前を通り、デッキに出た。
 
 
「はい、もしもし」
「ケン、私よ。もう空港に向かってるの?」その声はエマだった。念のため番号を教えておいたのだが、松平はすぐに日本を離れて通じなくなってしまうので、あまり意味はなかった。
「ああ、今新幹線の中だよ。昨日はよく眠れたかい?」
「ええ、おかげさまで。いいホテルを取ってくれてありがとう。」
「いやいや、まあせっかく日本に来たんだから、ゆっくりしていけよ。」
「……ううん、何も手がかりはないし、あなたも日本にいないから、明日ぐらいにニースへ帰るわ。パパがまだ日本にいるのかどうかもわからないし。」
「……そうか。力になれなくてすまなかったな。」
「……ううん、いいの。それより……」エマは電話の向こうで少しためらった。
「……ん?」
「……マイのこと、大事にしてあげて。昨日も言ったけど、お互い嫌いになっちゃったんだったら仕方がないけど、ただすれ違いだけで別れてしまうなんて、やっぱりだめよ。」
「……またその話か……」松平は苦笑しながら答えた。
「私はまだ結婚してないから夫婦のことはよくわからないけど、パパは今までママのことを愛し続けて、ママが生きている頃にしてあげられなかったことやしてしまったことを、ずっと後悔し続けてきたわ。だからケン、あなたにはパパと同じ思いをして欲しくないの。マイは生きていて今はまだ夫婦なんだから、後悔する前にできることはいくらでもあると思うわ。」
「……オレも、色々考えているんだ。でも、今は……」松平がそう言いかけると、通話が突然切れてしまった。携帯電話の電波が途絶えてしまったようだ。
 松平は掛け直そうとしたが、携帯電話の表示が圏外になっていたのを見て、諦めて背広の内ポケットにしまい込んだ。そしてそのまま搭乗口のドアに近づき、小窓から見える外の景色を眺めた。ちょうど新幹線は、妻の実家のある小田原のあたりを通過していた。
 松平は流れる景色を見ながら、色々な思いを頭の中で巡らせた。神宮に言われたこと、エマに言われたこと、そして息子である慶喜になじられた言葉。そしておもむろに大きく息を吐き出し、何かを決意したように口をぐっと結んだ。
 
 松平が席に戻ると、通路側に座っていた神宮が松平を通そうと身を縮めた。しかし、松平は窓際の席に座ろうとはせず、通路に立ったまま苦笑いで口を開いた。
「……ショーさん、すげーワガママ言ってもいい?」
「……あん?いきなりどうした?」松平の顔を見上げ、眉をひそめた。
「オレ、次の駅で降りるわ。」松平は立ったままそう告げた。
「……はあ?」神宮は呆れて口をぽっかりと開けた。
「すまんショーさん。先に行って新車発表とシェイクダウンを進めててくれないか?」松平は申し訳なさそうに言った。
「……先に行ってって……シルバーストーンにか?」神宮は目を丸くした。
「現地にはプロモーターも行っているし、ボーン博士もいるし、進行はユーロの連中がすべて把握しているから問題ないよ。」松平はそう言いながら頭上の棚から手荷物を降ろし、コートを羽織って降りる準備をし始めた。
「ちょ、ちょっと待てよ、お前はいつ来れるんだ?」神宮は慌てて聞き返す。
「3日目までには必ずシルバーストーンに行くから。」松平はすっかり降りる準備を終えた。その表情は、なぜか清々しさに満ち溢れていた。神宮はそれを見て松平の決心を悟り、苦笑しながらやれやれと両手を挙げた。
「……わかったよ。任せておけ。そっちもしっかりな。シルバーストーンで待ってるぞ。」
「すまん。」松平は申し訳なさそうに笑った。
「大事な忘れ物か?」神宮は白々しく聞いた。
「……ああ。」松平は照れくさそうに答えると、そのままキャリア付きの大きな旅行カバンを引いてデッキへと去っていった。
「もう少し早く気付けよな……。」神宮は呆れ笑いで松平の後ろ姿を見送った。

 
 
(つづく)


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