CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5
※この物語はフィクションです。


 オーストラリア・アデレード───オーストラリア大陸の中央南部に位置する南オーストラリア州の州都。人口は約105万人。オーストラリアで5番目に大きい都市で、19世紀にヨ−ロッパ各地からユ−トピアを求めて移住した自由移民によって建設された、理想郷だ。
 街並みは、入植の始まった1836年にウィリアム・ライト大佐の都市計画に基づいて設計され、ヴィクトリア広場を中心に整然とした道が碁盤の目のように通じている。1.6km四方の街並みを緑あふれる公園が取り囲むコンパクトで洗練された都市で、わかりやすく歩き易い街並みであるため迷う事なく、徒歩で主要観光スポットを見てまわることができる。また、近郊のワインの郷やビ−チ、丘陵地へも市内からわずか20分で到着できるのが魅力だ。アデレ−ドの空港が市内から約10分、わずか7kmのところにあるため、州都の空港としては非常に交通至便の場所にある。
 現在では「文化」と「芸術」の都として知られ、たくさんの古い教会と、カラフルな花で色どられた庭のある家、どこを歩いてもつきあたる美しい緑の公園、近代的なビルと歴史ある建物が調和した緑の町だ。偶数年に開催されるアデレ−ド芸術祭は、国際的なイベントとして世界各国の注目を集めている。
 
 11月中旬、F1グランプリの最終戦である第16戦オーストラリアグランプリは、ここアデレードの市街地コースで開幕した。アデレードでのグランプリは1985年に初開催され、以来F1グランプリの締めくくりとしての地位を守り続けてきた。市街地コースといってもモナコのような完全な市街地ではなく、コースの一部はヴィクトリア公園を使用しており、スタートラインとピット、それにパドックはグランプリのために毎年特別に設営される。半公道コースという性格上、レイアウトはかなり複雑で、道幅が極端に狭くなっている箇所も多い。また、このコースでしかお目にかかれないレッド、イエロー、ブルーのカラフルな縁石がコースに彩りを添えている。コーナー数が多い割にアベレージスピードは高く、タイプとしては中高速サーキットといえる。コース名物のとても長いストレートでは最高時速300km/hを超えるが、その直後にはタイトなヘアピンが待ち受けている。コース全長は3.780km。81周で争われる。
 今年のオーストラリアグランプリは、ミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)とデーモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)の、わずか1ポイント差のタイトル決定戦を観ようと、例年まれに見る盛り上がりを見せていた。今週末のレースで、歴代24人目となる、F1第45代ワールドチャンピオンが決定するのだ。
 
アデレード市街地コース

 シューマッハとヒルの今シーズンを振り返ると、春から夏にかけてのシューマッハ快進撃によって、第7戦終了時点では実に37ポイントも点差が広がった。6度の優勝と2位1回のシューマッハ(66ポイント)に対し、ヒルはわずか1勝を挙げただけで、あとは2位3回と6位1回(29ポイント)だけだった。それは誰の目にも逆転不可能な差に見えた。その時点で残りのレース数は9レース、37ポイント差を詰めて行くには、ヒルが毎戦4ポイントずつ追い上げなくてはならない計算になり、ヒルの逆転タイトルの可能性はほとんどないに等しかった。
 ところが、それまで独走を続けていたシューマッハに、シーズン中盤に思わぬ展開が待ちかまえていた。シューマッハは強制的にフィールドからつまみ出され、2戦の失格と2戦の欠場を余儀なくされてしまったのだ。
 毎年、チャンピオンシップの山場は7月から8月にかけてのヨーロッパラウンドであると相場が決まっている。ここでどれだけたたみかけてしまうか、そしてその勢いに乗って9月を守りの展開、すなわちポイント優先のレースに切り替えてどう乗り切るか、これがチャンピオンになるための方程式であるといえる。しかし、この大事な時期のシューマッハ脱落によって、ヒルは7月、8月、9月と一気に追い上げ、ここぞというところで勝利を挙げて勝負強さを見せ、史上初めてといえる1ポイント差での最終戦対決に持ち込んだのだった。
 シューマッハとヒル、どちらにとっても初めてのワールドチャンピオンに向け、F1第16戦オーストラリアグランプリは、盛大に幕を開けた───。
 
 
 雨の激闘の果てにヒルがシューマッハに1ポイント差と迫った日本グランプリの5日後、オーストラリアグランプリは、金曜午前のフリープラクティスを迎えた。オーストラリアは南半球にあるため、日本と季節が逆転しており、前日まで強烈な真夏の日差しが注ぎ込んでいた。ところが、この日太陽は空いっぱいに広がる雲に遮られて姿を消し、いつもは激しく焼ける路面がヒートアップしなかったため、絶好のコンディションとなった。
 しかしそんな中、ポイントリーダーのシューマッハは思わぬ苦戦を強いられた。思うようにタイムが出せず、1分16秒751のトップタイムをマークしたライバルのヒルに、コンマ143秒後れをとってしまったのだ。そしてシューマッハのみならず、同じマシンに乗るジョニー・ハーバートも、マシンの挙動が著しく乱れていた。アデレード市街地コースは非常に路面がほこりっぽい上にいくつものバンプがあることで有名だが、ベネトンの2台のマシンは、揃ってそのバンプでひどく跳ね、スローコーナーでアンダーステアを発生させてしまっていたのだ。
 
 午後に入り、セッションは予選1回目へと突入した。最初に1分16秒台のトップタイムを出したのは、伏兵ナイジェル・マンセル(ウィリアムズ・ルノー)だった。逆転タイトルを狙うチームメイトのヒルが、僅差でこれに続いた。その後シューマッハがいいセッティングを見いだしたのか、マンセルのタイムを軽々と破ってトップに躍り出るが、ヒルはタイムアップを果たすことができず、3位に甘んじていた。そしてセッション後半には、波乱の決勝を予感させるようなドラマが待っていた。
 マンセルが果敢に攻めて、再びシューマッハを破りトップに返り咲くと、すかさずシューマッハもアタックを開始し逆転を狙った。ところが、シューマッハは気負いすぎたのか、1コーナーのセナ・シケインをオーバースピードで進入してしまい、ひとつ目のコーナーの縁石に乗ってフロント部をぶつけコントロールを失い、そのままふたつ目のコーナーを曲がりきれずに、リアエンドからタイヤバリアに激突してしまったのだ。この事故でシューマッハの身体は無事だったものの、マシンは激しく大破してしまった。ミスがほとんどないシューマッハとしては、実に珍しいクラッシュだった。
 
 そして翌日の土曜日、状況は急転した。
 午前中からぽつりぽつりと雨が降り出し、フリーセッションの途中までは何とかドライタイヤで走れるコンディションだったが、それから一気に雨が強さを増し、午後の予選2回目までには、完全なウェットコンディションとなってしまった。まさに最終戦オーストラリアグランプリの予選は、前戦日本グランプリと同じパターンとなってしまったのだった。
 この結果、昨日マシンを大破させてしまったシューマッハのために、ベネトンのクルーたちが新しいモノコックを使って一晩のうちにレースカーを仕上げ、しかもそれが午前のセッションでクラッシュ前と変わらぬポテンシャルを見せつけたにもかかわらず、シューマッハを含む今日のタイムアップにかけていたすべてのドライバーたちの思惑は、落胆に変わった。
 明日の決勝でのスターティンググリッドは昨日の予選結果が反映されることとなり、暫定ポールシッターのナイジェル・マンセルが92年最終戦アデレード以来2年ぶり、通算32回目のポールポジションを確定させた。そしてタイトルを争う2人の主役たちは、シューマッハが2番手、ヒルが3番手からそれぞれレースをスタートさせることとなった。
 
「昨日の予選はうまくいったよ。日本では雨のレースを期待していなかったけど、今回は雨になってもいいよ。いずれにせよ、マシンはドライでもまったく問題ないから、明日の天候がどうなろうと僕は大丈夫だ。チームはとても素晴らしい仕事をしてくれた。満足しているよ。」シューマッハは予選後の公式記者会見の席で、いつものように強気のコメントをした。
「晴れて欲しかった。しかし、現実はまだミハエルが僕の前にいる。僕にとってはミハエルの前に出られるかどうかだけが重要だ。ナイジェルが独りで突っ走っても何の関係もない。ミハエルとのレースだけが重要なんだ。」ヒルは自分自身の複雑な心境を臆すことなく、厳しい表情で淡々とそう述べた。
「今朝は昨日と同じぐらいのタイムが出たので午後も行けると思ったのに、この天気だよ。これがオーストラリアさ。明日は晴れて欲しいね。二人のドライバーがチャンピオンを争っているんだから、オレはその邪魔をするつもりはない。最高のドライバーが最高のレースをして最高の勝利を得る、そんなレースになるといいね。」ポールシッターのマンセルはそう言いながら、内心実に上機嫌な様子だった。

 

 
ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング代表フランク・ウィリアムズは、車椅子を自らの両腕で動かしてピットガレージを後にした。自身のチームのドライバーであるマンセルがポールポジションを獲得し、ヒルも3番手をものにしたにもかかわらず、その表情は決して穏やかとは言えないものだった。とはいえ、彼の彫りが深く細身の顔立ちは、普段から神経質そうな印象を周囲に与えている。彼は52歳という年齢のわりに顔のしわがほとんどなく、肌もとても艶やかなため、眉間にだけ入ったしわがことさら際だっているのだ。しかし、今の彼の表情は、そのことを踏まえてなお、明らかに険しい表情だった。
 今シーズン当初、ウィリアムズは3度のタイトルを獲得しているアイルトン・セナを擁し、一昨年のナイジェル・マンセル、昨年のアラン・プロストに続いてドライバーズタイトル3連覇を目論んでいた。フランクは、「ウィリアムズが強いのは、ドライバーではなくマシンが優れているからだ」ということを証明するため、3年間で違うドライバーを擁してドライバーズタイトルを獲得しようとしていた。無論、前2年でタイトルを獲得したマンセルとプロストは共に非常に優れたドライバーだが、ドライバーがどんなに優れていようと、マシンが優れていない限りチャンピオンになることはできないというのが、彼の主張だった。そして、ウィリアムズこそが最強のマシンなのだと言うことを、この3年間で世界に知らしめようとしているのだ。つまり、その3年目である今年のドライバーズタイトルは、ウィリアムズにとって絶対に落とせなかった。
 事実、前2年は間違いなくウィリアムズが最強だった。しかし、今シーズンは大きなレギュレーション改定により、思わぬ誤算を知ることとなった。マシンは確かに速さを維持しているが、その挙動は著しくナーバスになり、第3戦サンマリノで、セナを失ってしまったのだ。
 その後フランクの野望は、思いがけずエースドライバーに昇格したデーモン・ヒルに託されることとなった。一時はシューマッハに絶望的な点差をつけられ、フランクの野望は潰えたかに思われたが、その後のヒルの追い上げによって、今週の最終戦までに、シューマッハにわずか1ポイント差まで詰め寄った。フランクの野望実現が、まさに目前に迫っているのだ。
 それ故、頼みの綱であるヒルが予選で3番手に終わったという結果は、フランクにとっては決して満足できるものではなかった。フランクは、静かな野心家なのだ。
 フランク・ウィリアムズは1942年4月16日生まれのイギリス人。元F3ドライバーだったが、中古レーシングマシンの販売で成功し、67年にウィリアムズ・レーシングを設立してチームオーナーに転身した。69年には1年落ちのブラバムを購入し、友人のピアズ・カレッジをドライバーに起用してグランプリ・デビューを果たした。イギリスの小さな草レース野郎が、大いなる野望を持ってF1チームを立ち上げたのだ。
 
 フランクがパドックへと抜ける廊下を進んでいると、後方からがっちりとした体つきをした、団子鼻のこれまたしかめっ面をした男が追いかけてきた。同じくウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングのテクニカルディレクター、パトリック・ヘッドだった。彼はフランクに追いつくと、フランクの車椅子に手をかけ、押し始めた。
「……すまんなパット。」フランクはパトリックを見上げ、無理に笑顔を作った。
「……降られちまったな。」パトリックはしゃがれた声でそう言うと、持っていた傘を差し、フランクを濡らさないよう注意しながらパドックへ出た。
 パドックには、各チームの巨大なモーターホームが1cmの狂いもなくきれいに整列しており、その各チームのチームカラーがカラフルにパドックを彩っていた。その中でも特に大きく鮮やかなネイビーブルーのモーターホームが、ウィリアムズのものだ。それはトップチームのモーターホームにふさわしい、とても大規模で立派なものだった。
 フランクのためにバリアフリー設計になっているウィリアムズのモーターホームは、車椅子のフランクをスムーズにミーティングルームへと運ぶことができた。パトリックは備え付けのポットから紙コップに紅茶を注ぐと、1つをフランクに手渡し、自分も椅子に腰掛けた。
 
「パット、どう見る……。」フランクは紙コップに口を付けると、パトリックに顔を向けて、渋い表情で問いかけた。
「……厳しいレースになるだろう。」パトリックは答えた。
「ナイジェルにチーププレイを期待するのは無理だ。もはやデーモン自身にすべてがかかっているわけだが、マイケル(シューマッハ)に見事に頭を捕られたな。」
「ああ、タイムテーブルだけを見ると、勢いはデーモンよりマイケルにあると言わざるを得ないだろう。……だが、我々に勝機が全くないわけではないよ。」
「……何かあるのか?」フランクはズイと身体をかがめて顔を寄せた。
「気になるのは、ベネトンの挙動だ。昨日の予選でもそうだったが、マイケルもジョニーも、バンプでひどく跳ね上がっているように見えた。マイケルのクラッシュもそのせいだろう。速いには速いが、レース中にちょいと油断すれば、バンプに足を取られて挙動を乱す可能性も大いにあり得る。勝機があるとすればそのときだろう。一瞬の隙をついて前に出るしかない。」
「デーモンには、それまで意地でも食らいついてもらわんといかんな。」
「もちろんだ。抜けないまでも、常にマイケルのテールにしがみついていてもらわにゃ、隙ができても届かんよ。」
「デーモンが戻ってきたら、そのことを頭にたたき込ませておいてくれ。」
「わかった。……それで、ナイジェルはどうする?」
「……好きなようにさせるさ。」
「やつはスタート時のホイールスピンが激しいからな。やつの真後ろはデーモンだ、やつのせいでデーモンが押さえ込まれ、その隙にマイケルにトップを奪われるなんてことにならないことだけを祈るよ。」パトリックは唸るような声でぼやいた。
「……ああ、それだけが心配だな。」フランクは苦笑した。
 
 彼らの付き合いは20年以上と実に長い。ウィリアムズ・レーシングは、デビューシーズンの69年に2度の2位入賞などをマークし、初年度としては望外の成功を収めた。しかし、初のオリジナルマシン、デ・トマゾ505で参戦した70年にドライバーのピアズ・カレッジが事故死、以後数年間低迷を余儀なくされた。その後チームは77年に倒産に追い込まれてしまうが、TAGなどアラブ系の資本が資金を援助し、この年にパトリック・ヘッドも役員として加わり、ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングとして再出発してからは一気にチームが向上したのだ。
 79年のイギリスグランプリで初優勝を果たし、80年にはアラン・ジョーンズをチャンピオンの座につけるとともにコンストラクターズタイトルも獲得した。81年にもコンストラクターズタイトルを連取し、82年にはケケ・ロズベルクをチャンピオンに導いた。さらに83年終盤からはホンダ・ターボを獲得し、85年から87年までコンストラクターズタイトルを独占した。89年からはルノーと結び、アクティヴサスペンション、セミATなどのハイテクをいち早く取り入れ、昨年、一昨年と圧倒的な強さを見せつけた。
 フランクは82年に不慮の事故で半身不随の身となってしまうが、それでもグランプリにかける熱い情熱は衰えることなく、「車椅子の闘将」として数々の波を乗り越え、自らのチームをトップコンデンターに押し上げた。そしてパトリックはチームの役員として、また現在はデザイン部門のマネージング責任者として、フランクを長きに渡って支え続けているのだ。彼らの信頼関係には、もはやチーム内の誰も入り込む余地はないといっても過言ではない。

   

 
日本・静岡県静岡市───ここに拠点を置いている全日本F3選手権のコンストラクター、チーム・トリコロールは、市内のホテルで打ち上げパーティーを開いていた。チーム・トリコロールは今年から全日本F3にエントリーした新参チームで、デビューシーズンである今シーズンは、昨年のドイツF3チャンピオンのミハエル・カッズ・クーン、そして今年全日本カート選手権から全日本F3に転向した松平慶喜と若いドライバーを起用したが、マシンのポテンシャルはまだまだライバルに遠く及ばず、そればかりかマシントラブルで幾度となくリタイヤを喫し、最終結果は散々たるものだった。それでも最終戦の鈴鹿ではカッズ・クーンが予選2番手、慶喜も予選3番手をマークし、最後の最後で手応えを感じさせる速さを見せた。
 チームは、すでに来シーズンのカッズと慶喜のチーム残留を内定しており、今シーズンのチーム関係者全員の働きをねぎらうとともに、来シーズンの飛躍のためにチームをさらに一致団結させる目的で、今回のパーティを開いた。パーティーにはカッズと慶喜の両ドライバーはもちろんのこと、チームスタッフ、エンジン供給を受けているホンダ、タイヤ供給を受けているブリヂストン、シャシーを受け持つダラーラなどの各関係者、さらにはスポンサーやチームと契約しているレースクイーンまで出席するという、実に大規模なものだった。パーティーは立食形式で、出席者はホテルのシェフが腕によりをかけて作った料理やワインなどを口にしながら、チーム首脳陣などの挨拶を聞いたり、ビンゴゲームやカラオケ大会まで催されたりと、さながらサーキットイベントのような盛り上がりを見せていた。
 
 そんな中、チームの顔とも言うべきドライバーの1人、松平慶喜は独り会場の隅の方で壁に寄りかかり、ジントニックを飲んでぼんやりとしていた。時折チームスタッフの何人かが彼に声をかけて一言二言話を交わすが、すぐにまた独りになって、決してその場所から動くことはなかった。正直なところ彼にとっては、レースでほとんど完走することができず、チーム内で肩身の狭い思いをしているせいか、あまり居心地がいいものではなかったのだ。それに比べてチームメイトのカッズ・クーンは、慶喜と同じ20歳ながらドイツF3チャンピオンだけあって、お世辞にも速いとは言えないチーム・トリコロールのマシンで、そこそこの結果を残してきた。さらに背も高く見た目もハンサムで目立っていたため、出席者の関心はカッズ・クーンにばかり集まっていたのだった。
 しかし、慶喜にとっては返ってその方が気が楽だった。元々慶喜は外向的ではなく、口数も少ない上に話題もなく、あまり人と接するのが得意ではないからだ。とはいえ仮にもチームの明日を担うドライバー故に、このパーティーを欠席するわけにはいかなかった。慶喜は、早くこのパーティーが終わってくれることを願いつつ、ジントニックを飲み干した。だが、慶喜が早くこのパーティーを抜け出したがっているのには、他にも理由があった。
 
「おかわり、いる?」1人の女性が、慶喜にグラスを差し出した。ターコイズブルーの明るいパンツスーツに身を包んだ、目鼻立ちがハッキリとした美人だった。
「……おお、さっちゃんか。サンキュー。」慶喜はそう言ってグラスを受け取った。
「私とノリちゃん、来年もトリコロールと契約することになったよ。」
「そうらしいね。来年もグリッド上でさっちゃんのお尻が見られて嬉しいよ。」
「……バシッ!」幸恵はそう言って笑いながら慶喜の顔をげんこつで殴る仕草をした。
「レースクイーンも大変だよなあ。真冬でも水着姿だろ?風邪引かねえか?」
「気をつけないと引いちゃうよ。だからいつも健康管理には気を遣ってる。」
「仕事にならねえもんな。」慶喜は、言葉とは裏腹に気力のない声だった。
「ねえ、その後ノリちゃんとはどうなのよ。」幸恵は慶喜と同じように壁に寄りかかった。
「どうって……口も聞いてねえよ。やめた方がいいって言ったのはさっちゃんじゃん。」
「だって、ノリちゃん他にも何人か付き合っている男の人がいるみたいだったから。それに慶喜君の話聞いてたら、何だかすごく振り回されてるみたいだったしね。これ以上ノリちゃんと付き合ってたら、慶喜君がどんどん辛くなっちゃうんじゃないかなって思って……。」
「実際、そうだと思うよ。範子も他の男と付き合ってること認めたし。どの程度の関係なのかは知らんけど、彼女としてはオレだけじゃなく複数の男と付き合って、誰が一番いいか選びたかったんじゃねえか?だからあのまま関係を続けていたら、もっと傷は深くなってたと思う。だから、傷が浅いうちに別れて正解だったと思う。」
「……ノリちゃんにね、以前私の恋愛の相談をしたことがあるの。相手は学生さんでね、貧乏なんだけど、夢があって、その夢に向かって一生懸命頑張っている人だったのよ。」
「へえ〜、そうなんだ。」
「そのときノリちゃんに、男の人は慎重に選んだ方がいいよって言われたの。男の人はよりいい方がいいんだからって。」
「はん、範子らしいな。オレさ、アイツと3ヶ月ぐらい付き合ったけど、結局その間、好きって言われたことは一度もなかったよ。オレのこと好きか?って聞いたら、私は恋愛的に好きって思えるようになるのに時間がかかるって言われたよ。」
「つまりは、そういうことなんだろうね。」
「とにかく、もうアイツのことは考えたくねえんだ。」
「……なんだか、ノリちゃんと慶喜君の友達2人に板挟み状態で、私も辛いよ……。私がノリちゃんを紹介しなかったら、こんなことにはならなかったのにね。」
「いや、さっちゃんのせいじゃねえよ。これはオレたち2人の問題だ。さっちゃんには感謝してるよ。いい勉強になったしな。」
「そっか、そう言ってもらえると私も安心するよ。それはそうと、2次会には行くの?」
「……いんや、ここがお開きになったら帰るよ。」
「そっか。ノリちゃんもいるしね……。」そう言って幸恵は、会場の奥の方に目をやった。奥では幸恵と同じレースクイーンの、そして慶喜の元彼女である八嶋範子が、ピンク色の華やかなドレスに身を包んで、出席者たちに愛想を振りまいていた。
 
 
 慶喜はホテルでのパーティーが終わると、2次会に出席することなく、しばらく近くのコンビニで雑誌を立ち読みした後、そのまま徒歩で自宅へと向かっていた。歩きながら、彼はふと思い立って、携帯を取り出した。親指でジョグダイヤルを回し、慶喜は「蒼井美香」という名前を探し出し、発信ボタンを押した。蒼井美香は慶喜と実家が真向かいの幼なじみで、ほんの数日前に名古屋で中学卒業以来の再会を果たし、そのときに電話番号を交換したのだった。しかし2人で飲んでいるところへ、チームメイトのカッズ・クーンを連れ立って店に入ってくる範子と出くわしてしまい、慶喜は蒼井美香を残して店を出てしまったのだ。慶喜は蒼井美香にそのときのことを謝りたかったのだが、残念ながら電話は留守番電話だった。
「……あー、松平だけど、名古屋ではスマンかった。またかけるよ。」慶喜はぶっきらぼうにそう言い残して電話を切った。慶喜は最近になって携帯電話を持つようになったが、どうも留守番電話というものに慣れなかった。元々口下手というのもあるが、返事のない留守番電話に向かって話しかけ、しかもそれが録音されるということに違和感を持ってしまうのだ。そして
蒼井美香が、いつ自分のメッセージを聞くのだろうか、メッセージを聞いたら向こうから電話をかけてきてくれるだろうかと考えた。「またかける」とは言ったものの、メッセージを聞いたら向こうから電話をしてくることもあるだろう。もし向こうから電話がかかってこなかったら、きっと蒼井は、あのときのことを怒っているのだろう……。
 
 そんなことを考えながら、慶喜は自宅のマンションへと辿り着いた。彼はエレベーターに乗り、ぼんやりと階が上がっていくのを見ながら、明日はどこにも出かけないで、テレビでのんびりF1観戦でもしようと決めた。
 しかし、彼が自分の階でエレベーターを降りると、思いもよらぬ光景が待ち受けていた。彼の部屋の前で、真っ白なコートに身を包んだ八嶋範子が、独りしゃがみ込んでいたのだった。
「……範……ちゃん……」慶喜は声を漏らした。実は慶喜は、範子本人の前では一度も呼び捨てにしたことがなかった。というかできなかった。範子が呼び捨てされることを嫌がったからだ。範子の嫌がることを、慶喜はあえてしたくなかったのだ。
「あー、おかえり〜。」範子は慶喜に気付くと、顔を上げてニコッと愛らしい笑顔を見せた。
(くっそ〜、やっぱ可愛いな……)慶喜は密かにそう思いつつ、「何やってんだよ」と範子の手を引っ張って立たせた。
「さっきのパーティで疲れちゃってさ。近くだし、ちょっと寄ってこうかなと思って。」範子はそう言いながら、猫のように慶喜になすりついてきた。
「しょうがねえなあ……」慶喜はそう言いつつ、内心心臓をどきどきさせながら、部屋の鍵を開けた。範子の身体が密着し、久しぶりに彼女の甘い香りを嗅いだ。
 
「2次会へ行ったんじゃないのかよ」慶喜は範子のコートを脱がせてそれをハンガーにかけると、彼女の好きなアールグレーを入れる準備をしながらそう言った。
「行こうと思ったんだけどさぁ、松平君がいなかったから、ノリちゃんもやめちゃった!」範子はだらしなくソファーに寝そべると、けだるそうな声で答えた。範子の方は、慶喜のことを下の名前で呼んだことが一度もなかった。慶喜にはそれが、付き合っていたときからある一定の距離を置かれ、本命として見られてなかったのかと思えてならなかった。
「……クーンがいるじゃねえか。」慶喜は一瞬ためらったが、あの一件に触れた。
「……あ、やっぱ私って気付いてた?」範子の反応にも、一瞬の間があった。
「別にどうでもいいけどね。」慶喜は冷めた口調で言い添えた。
「やあだあ!あの時はたまたま名古屋駅でばったり会っただけだよ!あの晩はハーティ・サーティで飲んでバイバイしたよ。それに、カッズも今日の2次会に行かなかったみたいよ。」
(……オレは『松平君』で、クーンは『カッズ』かよ……)
「だから、別に言い訳しなくてもいいよ。君が誰と遊ぼうがオレには関係ない。」慶喜のその言葉に、範子の表情が少し曇った。
「……『君』って言うのやめてよ。何か他人行儀……。」それを聞いた慶喜は一瞬あっけにとられ、(……だってオレたち、もう他人じゃん……)と思ったが、言葉には決して出せなかった。あまりにも決定的過ぎる言葉だからだ。それを言ったことで、完全に範子と終わってしまうことを恐れて、彼は何も言葉を返すことができなかった。そして、そんなふうに考えてしまうということ自体、まだ自分が範子に未練タラタラなのだということを、痛烈に実感した。
 
「ほらよ、アールグレー。」慶喜はティーカップを範子の前に置くと、意識的にソファーに寝そべる範子の隣ではなく、別の椅子に座った。
「わあ!ありがと!……それにしても、ここに来たの久しぶりだわ〜!相変わらず片づいているのねえ。」範子はそう言いながら起きあがり、ティーカップに口を付けた。
 その様子を見ていた慶喜は、まだ範子に何の疑問を抱かずに恋人として付き合っていた頃を思い出し、無性に切ない気持ちになってしまった。範子があの頃と同じように、こうしてここにいて紅茶を飲んでいるというのに、範子がとても遠い存在に思えてならなかったからだ。
「……その服、似合ってるな。」慶喜の口から、無意識にそんな言葉が出た。
「あ!ありがと!可愛いっしょ?」範子は無邪気に喜んだ。
「ノリちゃん、ほんとピンク好きだよな。」慶喜には、薄いピンク色のドレスを着て目の前で無防備にだらけている範子の姿が、まるで夢の中のことのように、非現実的に感じられた。
「そうなの、私、ピンクのもので身を包むと、すごく落ち着くのよ。」よくわからない答えだったが、それは慶喜が以前聞いたのと、まったく同じ答えだった。
 
「……あーもう帰るのめんどくさくなっちゃったよ。」範子はそう言って再び寝そべった。
「悪いが今夜は送っていけねえからな。オレ酒入ってるし。」
「ねえ、今晩泊めてよ。」範子は寝そべったまま唐突にそう言った。
「え?マジで……?」慶喜は、思いも寄らない範子の言葉にうろたえた。
「だって、もう終電終わっちゃったもん。」
「……いや、それはちょっとマズイだろ……いくら何でも……」慶喜は慌てた。
「えー何でー?」範子は平然とそう聞き返した。
「だってなあ……付き合っている頃ならともかく……オレたちはもう……」慶喜がそう言いかけると、範子はおもむろにソファーから起きあがり、ゆっくりと立ち上がって慶喜の座っている椅子に歩み寄る。彼女は慶喜の膝の上にまたがり、そのまま慶喜の首に手を回し、慶喜の目を見つめながら、半ば意地悪そうな顔を近づけた。
「……ねえ、エッチしようか。」
「……な、何言ってんだ……」慶喜がそう言い終わらないうちに、範子は慶喜と唇を重ね合わせた。慶喜は範子の唇の感触と甘い香りによって、すっかりと理性を失ってしまった。

   

 オーストラリア・アデレード、F1オーストラリアグランプリ・決勝当日───昨日の雨は明け方にはすっかり上がり、午前中のフリープラクティスから路面は完全にドライ・コンディションとなった。午前中にトップタイムをマークしたのは、金曜日からずっと好調を維持しているマンセルだった。2番手にジャン・アレジ(フェラーリ)が続き、ポイントリーダーのミハエル・シューマッハは3番手のタイムを叩き出した。しかしシューマッハのマシンは相変わらずバンプで不安定らしく、ターン5と呼ばれる直角の左コーナーでコースオフするというシーンも見せた。そしてもう一人のチャンピオン候補であるデーモン・ヒルは、シューマッハとコンマ5秒差の6番手に甘んじていた。しかしヒルは最良のセッティングを見いだしていたようで、午前の結果を特に気にしている様子はなかった。
 
 午後、F1グランプリ最終戦オーストラリアグランプリは、いよいよ決勝スタートの瞬間を迎えようとしていた。すでに26台のマシンたちがスターティンググリッドに整列しており、各マシンをメカニックたちが取り囲んで最終チェックを行ったり、ジャーナリストや各国のテレビクルーたちが、レース直前のドライバーたちを取材しようと群がったりしていた。
 そして午後2時ちょうど、フロントロー(グリッド最前列)の前方にあるシグナルがすべて消え、26台のマシンたちは耳をつんざくようなエギゾーストノートを響かせながら、順番にグリッドを離れ、1周のフォーメーションラップへと入った。コース両側でそれを見送ったメカニックたちは、速やかに機材を運びながら動き始め、聖域であるコース上から退出した。
 スターティンググリッドとスタートラインを見下ろすウォールには各チームのピットブースが設営されており、その後ろにはそれぞれのチームのピットガレージがある。ピットクルーたちはガレージで、チーム首脳陣たちはピットブースで、モニターでフォーメーションラップを見守りながら、緊張のスタートの瞬間を待ち続けていた。
 ウィリアムズ・ルノーのピットブースでは、チーム代表のフランク・ウィリアムズとテクニカル・ディレクターのパトリック・ヘッドが、厳しい表情でモニターを見つめていた。
「デーモン、問題はないか?」パトリックは無線でコース上フォーメーションラップ中のヒルに話しかけた。
「ノープロブレム。エンジンの調子も良さそうだし、ハンドリングも良くなっている。」ヒルの声が返ってきた。
「とりあえず現段階では、特に言うことは何もない。思いきって行け!」
「了解。」
 
 マシンたちは1周のフォーメーションラップを終えてメインストレートに戻ってくると、タイヤを温めるために蛇行や意図的なホイールスピンを繰り返しながら、最前列から順番に自分のグリッドに整列し始めた。すべてのマシンがそれぞれのグリッドへの着点を完了すると、グリッド前方の5つの赤いシグナルが点灯した。そのシグナルが順番に消灯し始めると、マシンたちはエンジンの回転数を一定に上げる。そして最後のシグナルが消灯した瞬間、マシンたちは一斉に動き出した。
 ポールポジションのマンセルはその瞬間右方向に進路をとり、右斜め後ろ2番手のシューマッハを牽制する動きを見せたが、フランクとパトリックが危惧したとおり、マンセルはタイヤスモークが上がるほどの派手なホイールスピンをしでかして出遅れ、1コーナーのセナ・シケインまでにシューマッハ、ヒルに抜かれて3位に後退してしてしまった。
「あの下手くそッ!」パトリックは、思わずしゃがれた声で悪態をついた。
「……まったく、思った通りだ。デーモンがうまくスタートを切れたのは幸いだった。」フランクはため息混じりにそう漏らした。
「ナイジェル、現在3位だ!そのままポジションをキープだ!デーモン、マイケルに離されるな!意地でも食らいついて行け!」パトリックは2人のドライバーに最初の檄を飛ばした。
「了解!」ヒルは答えた。
「……くそっ!」マンセルは叫び声を返してきた。モニターには、マンセルが縁石に乗り上げる映像が映し出された。マンセルはミカ・ハッキネンとルーベンス・バリチェロにかわされ、1周目で一気に5位にまで順位を落としてしまった。パトリックはそれを見て頭を抱え、フランクは再びため息をついた。
「ナイジェル!なにやってんだ!」パトリックは怒鳴った。
「そうわめくなって!ちょっとはみ出しちまっただけだ、問題ない。」マンセルは答えた。
「大ありだ!オープニングラップで4台に抜かれてるんだぞ!」
「わかってるさ!まだゲームは始まったばかりだ!まあ見てろって!」
「………………」大口を叩くマンセルに、フランクもパトリックもただ呆れるばかりだった。
 
 マンセルがスタートでのシューマッハ封じに失敗したため、レースは序盤からシューマッハとヒルの一騎打ちとなった。タイトルコンデンターの2人がワンツーで優勝を争うという展開に、観客たちの興奮はもはや最高潮に達していた。2人のペースは異次元的なもので、3位のハッキネン以下を毎周2秒ずつ引き離していくほどだった。シューマッハとヒルのペースが1分17秒台なのに対し、その他のドライバーは1分19秒台でしか走れていないのだ。
 レースは15周目に入るも、シューマッハとヒルとの差は2秒以上開くことはなかった。ヒルはチームに言われたとおり、順調にシューマッハに食らいついていた。
「いいぞ、作戦通りだ!」パトリックは何度も頷きながら満足げに唸った。
「なかなかやってくれるな。」フランクも笑みを浮かべてモニターを見つめ続けていた。
「あとはどこかで、マイケルが隙を見せてくれるのを待つだけだ。勢いはむしろヒルの方が上だ、チャンスがあればいつでも抜けるぞ!」
「マイケルは今朝のウォームアップでもターン6でコースオフしているからな。」
「ああ、今日のマイケルはいつも通り速いが、完全ではない。チャンスは必ず訪れる!」
 事実、いつもならシューマッハが圧倒的にリードするのだが、今日はヒルが必死にシューマッハを追っていると言うよりは、むしろ引き離したと思ってもすぐにヒルに追いつかれてしまうシューマッハの方が、防戦に苦慮しているかのように見えた。そして16周を過ぎると、2人の差は1秒と離れなくなるまでに接近した。
 マンセルも15周目にバリチェロをようやく抜き返し、3位を行くハッキネンとの差を詰め始めた。ペースは明らかにハッキネンよりも勝っていた。
「ナイジェルも、大口を叩くだけのことはあるな。」フランクはマンセルのパッシングシーンを見て苦笑した。
「ああ、スタートからそうしてくれりゃこっちの気も楽なんだがな。ほんとにやつぁスロースターターだよまったく……」パトリックもニヤリと口をゆがめた。
「よし、デーモン!次のラップでピットインだ!」パトリックは指示した。
「了解、次のラップでピットインする。」ヒルは復唱した。
 
 18周目の終わり、トップの2台が引き寄せ合うようにぴたりと縦走したまま最終コーナーを通過した。そして2台は、揃ってピットレーンに進入してきた。それを見たパトリックは、後ろを振り返り、スタンバイしているピットクルーたちに叫んだ。
「マイケルも入ってきたぞ!だが焦るな!我々は我々のストラテジーを確実にこなせばいい!ただし、ミスだけはするな!」
 前のシューマッハのマシンはピットレーンでウィリアムズよりも2つ手前のベネトンのピットに収まった。それを通り過ぎ、ヒルもウィリアムズのピットに入ってきた。それぞれのピットクルーたちは共に手際よいピット作業をこなしていく。先にピットに収まったシューマッハのマシンが動き出した。シューマッハがピットイン中のヒルの横を通り過ぎたと同時に、ヒルも動き出す。ピットの作業時間も、両者全くの互角だった。そして2人が再びコースに戻ったとき、その差は1秒を切っていた。
「いいぞ!作戦通りだ!」パトリックは口癖のようにそう言った。
「見ろ!ナイジェルもやったぞ!」フランクは半ば興奮した声でモニターを指さした。ハッキネンを追撃してプレッシャーをかけ続けていたマンセルが、まんまとハッキネンのミスを誘って前に出て、3位に返り咲いたのだ。
「グレイト!やってくれるじゃねえかナイジェル!」パトリックはマンセルに言った。
「だから言っただろ!」マンセルは得意げにそう答えた。
「調子に乗るなよナイジェル!そのペースを維持しろ!」パトリックは釘を刺す。
「パッド、奴らは今どの辺だ?」マンセルが聞き返した。
「ヒルとマイケルは、18秒以上先にいる。」パトリックは答えた。
「やれやれ、今回は優勝は無理そうだな。」マンセルはぼやいた。
 しかし、レースはこの後、誰も予想だにしなかった展開を迎えることとなった。
 
 トップのシューマッハがヒルに1.9秒差をつけて36周目に入ったときだった。シューマッハはターン6手前の直角左コーナー、ターン5で、突然コースアウトした。彼が今朝のウォームアップでもコースアウトした、まさにその地点だった。バンプに乗って跳ねたシューマッハのマシンは、一瞬コントロールを失ってグリーンゾーンに出てしまい、右前輪をコンクリートウォールにヒットしてしまった。しかし彼は体制を立て直し、何とかコースに戻ることができた。そのシーンをモニターで見ていたフランクとパトリックは、思わず声を挙げた。
「デーモン!」パトリックはヒルにそれを伝えようとした。しかし、シューマッハがコースに戻ったところへやって来たヒルは、シューマッハがコースアウトしたシーンを見ていなかったのだ。そしてそれがほんの2秒足らずの出来事で、パトリックは指示する間がなかった。ヒルはシューマッハが変な動きをしていて、しかもスピードを落としているのを見て、迷わずターン6の直角右コーナーでシューマッハのインに飛び込んだ。ところが、シューマッハもレーシングラインをキープしたままコーナーにターンインしてきたのだ。
 シューマッハの右サイドポンツーンにヒルの左前輪が接触し、シューマッハのマシンは真横に飛び上がった。そしてシューマッハは着地した後アウト側のタイヤバリアに激突してしまったのだった。この瞬間、シューマッハの自力チャンピオンはなくなり、もう1台のベネトンに乗るハーバートもすでにリタイヤしていたため、ウィリアムズのコンストラクターズタイトルが確定した。だが、それよりも問題だったのは、ヒルの方だった。
「デーモン!大丈夫か!」パトリックはヒルに叫んだ。
「だめだ!振動が激しい!」ヒルは無線の向こうから悲痛な叫び声を挙げた。
「落ち着けデーモン!状況を説明しろ!」パトリックは聞き返した。
「アッパーアームだ!左フロントのアッパーアームが曲がったらしい!」ヒルは答えた。
「デーモン!すぐに戻ってこい!」パトリックはそう言うとヘッドフォンを外し、戻ってくるヒルを迎えるため、ピットガレージへと降り立った。
「デーモンが戻ってくる!緊急ピットインだ!急いでスタンバイしろ!」

   

「……デーモンと僕の間には、激しい戦いがあった。」シューマッハは語り始めた。
「僕たちは本当に互角だったと思う。一時は彼との差を広げることができたけど、バックマーカー(周回遅れ)に引っかかってまた差を縮められてしまった。マシンはオーバーステアがひどく、ドライブしづらかった。でも何とかデーモンを抑え、少し差を広げることができた。その後、バンプに乗ってマシンが跳ね、スライドしてしまった。僕は白線に乗ってしまい、ランオフエリアを通過してグリーンに飛び出してしまった。ウォールには当たったけど、何とかコースに戻ることができた。それから、コーナーの進入で、突然デーモンが隣りにいるのが見えて、当たってしまったんだ。マシンが空中に跳ね上がったときには、ひっくり返るんじゃないかと心配だったよ。タイヤウォールの後ろで、デーモンがまだ走っているのを見るのは最悪だった。その後、デーモンがトラブルを抱えたことを場内アナウンスで知ったんだ。彼がどんなトラブルを抱えたのか、僕にはわからなかった。でもその後、デーモンが戻ってこないのを見て……それで……わかったんだ。」
「……ずっとミハエルをプッシュし続けた。」ヒルは、静かに口を開いた。
「ものすごいペースだったけど、今言えるのは、終わったと言うことだ。今は頭の中は空っぽだ。でも、彼を苦しめることはできた。彼がコースオフしたのは、僕からのプレッシャーを感じたからだ。あそこがチャンスだった。飛び込んでいくしかなかったんだ。これがモータースポーツというものさ。ウィリアムズのみんなに感謝したい。」
「ここ2戦のデーモンは素晴らしかった。過小評価したことを謝る。今シーズンで最も思い出深いレースは、セナに勝ったブラジルグランプリ。この王座はセナに捧げる。」新王者は、ライバルを称え、最後は涙声でセナを偲んだ。
 
 デーモン・ヒルは、シューマッハと接触して左フロントのアッパーアームを曲げてしまい、スロー走行で何とかピットガレージにたどり着いた。しかし、マシンは明らかにこれ以上レースを続けることが不可能な状態だった。ヒルはあきらめ切れぬ思いを強く抱きながら、失意の表情でコックピットを離れるしかなかった。これにより、午後2時53分33秒、先にリタイヤしたミハエル・シューマッハが、ドイツ人初のF1ワールドチャンピオンの座に就いた。
 ヒルは、無理にシューマッハを抜こうとする必要は全くなかったのだ。しかし、彼がとっさにシューマッハのインに飛び込んだのも無理はない。なぜなら、不運なヒルはレース後にテレビのリプレイで、初めてターン5でシューマッハがコースオフした事実を知ったのだ。
 マンセルのスタート失敗でトップ2人と3位以下は完全に分断されてしまい、シューマッハとヒルは誰にも邪魔されるとなく、思う存分2人だけの戦いに没頭することができた。何しろこの2人のラップタイムは他のドライバーよりも2秒近く速く、まさにどちらが勝っても王者にふさわしいと思わせるスピードを誇示したのだ。
 そして、逃げるシューマッハと追いつめるヒルの争いは、ヒルの意地の走りによる猛チャージが、シューマッハのミスを誘い出すことに成功した。だが、勝負というものは実にわからないものだ。ミスを出した方のシューマッハが、結果的にタイトルを握ることになったわけだ。一瞬の死角が勝者と敗者を隔ててしまう、これこそがグランプリの非情で不可思議な力なのかもしれない。
 
 そして2人の主役が消えたレースを制したのは、ポールポジションを獲得したにもかかわらずオープニングラップで5位にまで順位を落とした、ナイジェル・マンセルだった。彼は15周目にバリチェロ、18周目にハッキネンを抜き返して3位に返り咲き、シューマッハとヒルのトップ2台がリタイヤしたことで、それまでトップから53秒も離されていたのに、突然トップに祭り上げられた。その後まだレースは50周近く残っており、そこからはマンセルとフェラーリのゲルハルト・ベルガーとの激しいマッチレースを繰り広げ、観客を沸かせた。ベルガーが2ピット作戦を敢行していたことでマンセルは一度は首位を奪われたものの、その後ベルガーがミスを喫し、再びマンセルがトップに立ってそのままチェッカーまで走りきった。ウィリアムズのコンストラクターズタイトル獲得に花を添える、復帰後初勝利だった。
「……最初に、デーモンには素晴らしい仕事をしたと言いたい。チャンピオンシップを生き返らせ、勝つべきレースをものにした。オレもそうだが、イギリス中が彼を誇りに思っているはずだ。オープニングラップで壁にヒットしてからは、トップになったり2位になったり、ずっと戦っていた。この優勝で85年以来毎年何かのレースで勝っていることになる。チームに感謝したいよ。ここで起きたことは別にして、勝てたということは素晴らしいことだ。」マンセルはレース後、実に晴れ晴れとした表情でそう語った。
 
 パドックへと続く廊下には、独り車椅子で引き上げる、フランク・ウィリアムズの姿があった。チームはコンストラクターズタイトルを決めたが、彼が目指した、違うドライバーによる3年連続のドライバーズタイトル獲得という野望は、寸前のところで砕け散ってしまった。
 いや、彼にとって、もはや個人的な野望云々はどうでも良かったのかもしれない。ただサンマリノグランプリで命を落としたアイルトン・セナのために、どうしてもドライバーズタイトルをものにしたかった。だが、その彼の思いもむなしく、タイトルは序盤のセナを苦しめたミハエル・シューマッハの手に渡った。そもそも、セナを失った時点で、すでにこの結末は決まっていたのかもしれない。今の彼に渡来しているものは、失望感以外のなにものでもなかった。
 フランク・ウィリアムズは、セナに思いを馳ながら、静かにサーキットを後にした───。
 
 
(つづく)


000 0 000