CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4
※この物語はフィクションです。


 イギリス・コッツウォルズ地方───風光明媚な田園地帯が広がるイングランド中央部のチェルトナム、オックスフォード、ストラトフォード・アポン・エイヴォン、バース、ブリストルに囲まれた一帯を差し、イングランドでも屈指の美しさを誇るカントリーサイドだ。鉄道や車などでコッツウォルズを走ると、淡い緑の中で点々と白い羊たちが草を食す、のどかな風景が続く。コッツウォルズの町を彩るのは、この地方で採れるライムストーンと呼ばれる石灰岩だ。町のほとんどの家屋がこのライムストーンで造られており、北東部ではハチミツ色をしているが、中部では黄金色となり、さらに南西へ下るにしたがって真珠のようなやわらかい白色へと変化していく。
 ロンドン・パディントン駅からオックスフォード行きの列車に乗って1時間40分ほどで、コッツウォルズの交通の要所、モートン・イン・マーシュに辿り着く。モートン・イン・マーシュは13世紀以来商業の町として発達してきた町で、毎週火曜日にはコッツウォルズで最大級の青空市場が開かれることで有名だ。人口3250人ほどの比較的小さな町だが、宿が多いのとローカルバスが発着しているのとで、コッツウォルズ北部を周遊する起点の町として利用されることが多い。町の中心であるハイ・ストリートには高級感のあるホテルが建ち並び、B&B(ベッド&ブレックファースト)の安いホテルは、このハイ・ストリートからストウ・ロードにかけてと、東のロンドン・ロードに集中している。
 
 
 米『モーターワールド』誌の編集者マキシ・レッドフォードは、太陽が一番高い位置に昇る頃にモートン・イン・マーシュ駅に降り立ち、キャリア付きの大きなトランクを地面に置き、ベージュのコートの内ポケットから小さなメモ用紙に描かれた地図を取り出した。彼はその地図と実際の風景とを照らし合わせて自分が向かうべき道を確認すると、再びトランクを引いて通りを歩き始める。
 駅からおよそ5分ほど歩いて車の往来が比較的多いハイ・ストリートへ出ると、マキシはすぐに自分が宿泊するホテル「ホワイト・ハート・ロイヤル」を見つけることができた。大通りに面した、バス停がすぐ目の前にある石造りのホテルだ。このホテルはかの清教徒革命の5年前、王党派と議会派が争っていた1644年に、時の国王チャールズ1世も身を潜めていたという由緒あるホテルで、当時の建物が今も使われている。コッツォルズでも5本の指に入る高級ホテルとしても有名だ。
 
 マキシは3階の部屋に入ると、木でできた観音開きの窓から青々とした空を眺めた。11月中旬のコッツウォルズは静岡よりも3℃ほど気温が低いが、今日は天気が良く、太陽が窓から差し込むため部屋の中は少し肌寒い程度だった。彼はコートを脱いで無造作にソファーの背もたれにかけると、ホテルのベルボーイが運んできたトランクを引きずって椅子に腰掛け、トランクの中から資料の入ったファイルフォルダーを取り出した。
「お客様、お食事はどうされますか?」ベルボーイがベッドカバーを外して丁寧にたたみながら、マキシに尋ねた。
「ああ、そうだな、軽く何か食べようかな。」マキシは顔を上げて答えた。
「併設のレストランがございますので、よろしければそちらでどうぞ。」
「ああ、そうするよ、ありがとう。」マキシはそう言ってベルボーイにチップを手渡した。
「他に何かございましたら、何なりとお申し付け下さい。」ベルボーイはお辞儀をすると、静かに部屋から退出した。マキシもそれを見送った後、トランクの中からファイルやカメラ、ボールペンが挟まれている手帳、財布、それにレインコートなどの必要なものだけをショルダーバッグに詰め、それを肩に掛けてそのまま部屋を出た。
 このホテルに併設しているレストランは、ワインの品揃えが充実しているので評判がいいことで知られている。この町には多くの観光客が訪れるため、ランチタイムのこの時間はかなりの席が埋まっていた。マキシは運良く窓際の席を見つけて座ると、フィッシュ&チップス(白身魚のフライにポテトフライを付け合わせたイギリスの代表的な料理)を注文し、ショルダーバッグからファイルを取り出して広げ始めた。
 
 マキシがコッツウォルズにやってきたのは、彼が昨年の暮れから約1年がかりで取材を続けてきた、再来年からF1にコンストラクターズとして参戦する日本の自動車会社、マツダイラの新たな情報を得たからだった。マツダイラは元々空力パーツの製造を得意とするパーツメーカーで、昨年のル・マン24時間耐久レースにプライベーターとして初参戦した「チーム・スワロー」というレーシングチームに、空力部門として参加していた。その際、マツダイラはこのコッツウォルズに「マツダイラ・ユーロ」という名の子会社を設立し、そのファクトリーでル・マン用マシンの開発を行なっていたというのだ。
 ル・マン24時間耐久レースといえば、フランスのサルテ県ル・マン市で毎年6月に行われる、世界三大レースの一つに数えられているイベントだ。だが、マツダイラがフランスで年1回しか行われないレースのためだけに、それもフランスではなくイギリスにファクトリーを建設したのが、マキシにはどうしても腑に落ちなかった。そこでマキシは、いくつかの大胆な仮説を立てたのだった。マツダイラがル・マンで空力部門として参加したのは、F1に参戦するための単なる布石に過ぎなかったのではないか。すでにル・マンに参戦するかなり以前から、マツダイラのF1参戦プロジェクトは着々と進行していたのではないか……。
 昨年のル・マンでマツダイラは、プライベーターとして初参戦したチーム・スワローと共に総合4位という快挙を成し遂げた。そしてその直後にF1を統括するFIAにF1参戦の申請をして認可されたのだ。マツダイラはそれまでのF1プロジェクトの集大成として、ル・マンという大きなレースでレースウィークの一連の流れ、そしてレース中の戦略、チーム運営などの予行演習を行い、その結果を踏まえてF1参戦を最終決断したのではないだろうか。そしてそのチーム・スワローのオーナーで戦略家、ショーノスケ・ジングウをマツダイラF1の戦略の要とし、またこのコッツウォルズにあるマツダイラ・ユーロをF1活動の本拠地として構えるつもりなのではなかろうか……。
 この仮説の最大の根拠は、このイギリスという国にあった。1950年にイングランド中部のシルバーストーンでF1が初めて開催され、イギリスはF1発祥の地として知られている。シルバーストーンは今現在でもイギリスグランプリの舞台となっており、さらにオフシーズンのテストでも使用されるため、ウィリアムズ、マクラーレン、ベネトン、ティレル、ロータスなどといった多くのF1チームがイギリスを拠点としているのだ。それ故イギリスにはF1チームやF1ドライバーを支援するスポンサーとなる企業も多く存在しており、F1に初めて参戦する新興チームマツダイラにとっては、全てにおいて最も理想的な拠点だと言える。
 
 マキシは、マツダイラ・ユーロに関する資料をテーブルの上に広げ、時折手帳に何かを記入しながら、くまなく情報を採取していた。取材では、膨大な資料の中からどれを重要な情報としてチョイスするか、そしてどの情報に絞って調査を進めていくかがカギとなる。取材のヒントは資料の至る所に隠されているが、その全てを手当たり次第調査するのでは、とてもじゃないが時間がかかりすぎる。マキシが『モーターワールド』から託されている仕事は、最も貴重な情報にポイントを絞り、その情報から推測できる仮説の裏付けを取材によって見つけ出し、いち早くスクープとしてマンハッタンの本社にレポートを送ることなのだ。
 ウェイトレスが料理を運んでくるが、テーブル全体が資料で埋め尽くされているために料理を置くことができず、困り果ててしまった。マキシは慌てて資料をかき集めてテーブルを開けようとするが、ふとその手を止め、考え直した。マキシは料理を待つ間に一通りの資料に目を通し、一刻も早くマツダイラ・ユーロへ赴きたいという衝動に駆られてしまったのだった。
「すまないが、テイク・アウトにしてくれないかな……」マキシは小声で申し訳なさそうにウェイトレスに言った。
「テイク・アウェイですか?」ウェイトレスは両手で料理を持ったまま聞き返した。
「そう、テイク・アウェイだった。頼むよ。」マキシは言い直した。
「かしこまりました。では今すぐご用意いたしますので、少々お待ち下さい。」ウェイトレスはそう言うと、料理を持ったまま再び厨房へと戻っていった。アメリカでは持ち帰りのことを「テイク・アウト」というが、イギリスでは「テイク・アウェイ」という。ちなみにスコットランドでは「キャリー・アウト」というところもある。

 

 
日本・静岡県静岡市───静岡市郊外の小高い丘の上にある、マツダイラ・モータース本社の会議室では、社長の松平健、神宮庄之助、そして若いチームコンサルタントの3人が顔を合わせて、重要な話し合いを行っていた。会議室のドアには『立入禁止!』と乱暴な字で書かれた張り紙がされており、他の人間の入室を一切遮断していた。
 神宮とコンサルタントが長テーブルに向かい合って座っているのに対し、社長である松平は1人立ったまま、2人が座っているテーブルに両手をついた。
「……ショーさん、いつになったらヒルと具体的な話をしてくれるのかなあ。」松平は、半ば溜息混じりの声で神宮に言った。神宮は腕を組んだまま、渋い顔をして口を開いた。
「……しょうがねえだろう。ヒルは今、おそらく彼の人生でもっとも重大な局面を迎えているんだぜ?F1での初のワールドタイトル獲得というな。お前も先々週の日本グランプリを見ただろうが。ヒルの勝利で、ポイントリーダーのシューマッハとたった1ポイント差で今週末の最終戦オーストラリアグランプリを迎えることになったんだ、そんなナイーブな状況でうちの話に耳を傾けてくれると思うか?」
「何も今すぐ契約書にサインを貰ってこいと言ってるわけじゃないんだよ。だけど具体的な話を全くできずに帰ってくるなんて、一体何のためにモナコと鈴鹿に行って来たの?」
「……そうせかすなよ。今年はヒルにとって特別な年なんだ。シューマッハと熾烈なタイトル争いをしているのももちろんだが、それ以前にチームメイトのセナが死んでるんだ、今の彼にのしかかっている重圧は、おそらくオレたちが考えているよりも遙かに凄まじいものに違いない。その辺のこともちったあ考慮してくれよな。」神宮は松平の古くからの友人で、元々マツダイラ・モータースとは全く無関係の人間であるため、社長である松平に対しても遠慮というものがまるでない。むしろ松平は、神宮に頼み込んでマツダイラF1の重要なポジションに就いてもらっているため、その立場上、あまり神宮に強いことが言えないのだ。
 しかしながら、マツダイラは再来年のF1参戦に向けて、今シーズンベネトンのミハエル・シューマッハとタイトル争いを繰り広げてきた、ウィリアムズのデーモン・ヒルの獲得を狙っており、その交渉の役目を担った神宮が、モナコと鈴鹿の2度のチャンスで大した成果を上げられなかったことに、正直相当頭を悩ませていたのだった。松平はてっぺんまで禿げ上がった頭を掻くと、まいったなという表情で胸元のポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
 
「わかった、ヒルのことはショーさんに一任しているから、もう何も言わんよ。じゃあ、次にピットクルーの件だが……」松平は口から煙を勢いよく吐き出し、ちらりと神宮の顔を見た。
「……ショーさん、スワローのメンバーを、何とか集められないかな」松平のその言葉に、神宮は思わず組んだ手を外して耳を疑った。
「おいおい、まさかあの出来損ない連中をF1で使おうって言うんじゃないだろうな……。」
「言うまでもなく、うちには実際のレースで迅速なピットワークをこなせる人材なんていないんだよ。もちろんピット作業自体なら問題はないが、時間を掛けて丁寧に点検・整備を行う通常のピット作業と、レース中にわずか数秒間で給油とタイヤ交換、場合によってはその他の作業をこなすのとではわけが違うからな。スワローの連中は、ル・マンの他のチームと比べたらかなりのろまな連中だったが、仮にも世界の大舞台でレース中のピットワークを経験しているんだから、まったく経験のない人間を集めて訓練するよりは、遙かにマシなんじゃないか?」
「……まじかよ、まさかあいつらを起用するなんて思っても見なかったぜ……」神宮はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。
「とにかく、なるべく早い段階からテストに同行させてピットワークの訓練をしていきたいんだ、レースシミュレーションも含めてね。だから合間を見て招集して欲しい。」松平は神宮の苦悩をよそに、淡々と話を続けた。
「ああ……まあ……連絡を取ってみるけどさ……」神宮は溜息混じりでそう答えた。
 
「ところで社長、肝心のポストが、まだ未定のままなんですが……」ようやく話す機会を与えられた若いコンサルタントが、縁なしの眼鏡を中指でくいっと押し上げながら口を開いた。彼はマツダイラF1全体におけるチーム運営のコンサルティングを担っているため、マツダイラF1に関する全ての決定事項を把握している必要があった。
「それは、チーム監督のことだな。オレもその話はまだ全く聞いてないぜ。」神宮もそのことに関してはずっと気になっていた。マツダイラはそもそも技術者集団の企業なので、社内にF1のチーム運営をこなしていけるような人材がいるとは思えなかったからだ。F1は世界最高峰のモータースポーツであると同時に、巨額のマネーが動く国際的なビッグビジネスでもある。多くのスポンサーと交渉して資金を手に入れ、その資金を元にエンジンやドライバーと契約する。さらにはマシンのシステムを考え、開発やテストによってマシンを熟成させ仕上げていく。そして世界各国を転戦するグランプリシーズンが始まれば、レースの戦略を考え、チームやドライバーに的確な指示を与えていく。そういったチーム運営の全ての決断を下し指揮していくチーム監督は、最も重大なポストであり、多くの知識と経験を必要とするのだ。
 しかしだからといって、松平がまったく外部の人間をマツダイラF1のメンバーに、しかもその最も責任重大な地位に迎え入れるというのも考えにくいことだった。なぜなら、このマツダイラF1プロジェクト自体、企業のプロジェクトという建前を利用した、松平自身の大いなる個人的野望といった印象が強いからだ。チーム監督には誰がなるのかという疑問は、神宮のみならず、プロジェクト関係者の誰もが抱いていた。
 
「チーム監督に関しては、全く問題ないよ。」松平の口から、思わぬ言葉が出てきた。
「何?じゃあ、もう監督は決まっているのか?」神宮は目を丸くした。
「ああ、もちろんだよ。そのことも今から話すよ。ちょっと待ってね。」松平はそう言うと壁に設置されている電話機に手を掛け、内線ボタンを押した。
「……ああ、松平だけど、伊達専務を呼んでくれないかな。」
「ちょ!ちょっと待て!まさか伊達さんをチーム監督にする気なのか?」神宮が驚いてわめき散らすのを見て、松平は電話をしながら手振りで神宮をなだめた。
 程なくして、会議室に1人の中年男性が入ってきた。背が高くスマートで眼光の鋭い男なのだが、なぜか右目に白い眼帯をつけていて、少し間が抜けていた。
「ああ、伊達さん、忙しいところ悪いね。右目、どうしたの?」
「はあ、ちょっと物貰いができてしまいまして。しょっちゅうできるので独眼竜なんてあだ名までつけられてしまいましたよ。」伊達は貫禄のある顔とは裏腹に、控えめな口調で答えた。
「後で女子社員にお菓子でももらうといいよ。まあそれはさておき、伊達さん、急で悪いんだけど、頼みがあるんだ。」松平の言葉に、神宮は信じられないと言った様子で口を挟む。
「おいおい、冗談だろ?いくら伊達さんでもF1のチーム監督というのは……」
「まあまあ、いいからショーさんはちょっと待ってて。」松平は苦笑しながら神宮を黙らせ、伊達はその2人の様子を見ながら困惑した表情を見せた。
「F1の……チーム監督……わたしがですか?」伊達は恐る恐る聞き返した。
「いやいや、そうじゃないよ。そんなわけないじゃない。」松平は慌てて否定した。
「はあ、そうですよね。あーびっくりした。」伊達はそれを聞き、ホッと胸をなで下ろす。
「……伊達さんには、社長代理になってもらいたいんだよ。」
「……は?」伊達は、思わず口をぽっかりと開けた。
「……お前今、何て言った?」神宮も声を挙げた。
「だから、社長職を、代わってくれないか?」松平はにこにこと笑いながら言い直した。
「社長を交代するって、まさか……」神宮は絶句した。伊達とコンサルタントも呆然とする。
「マツダイラF1は、オレが直接指揮を執ることにしたよ。」

   

 
モートン・イン・マーシュからバスでボートン・オン・ザ・ウォーター、サイレンセスターと乗り継ぎ、約1時間の所にある小さな村バイブリー。芸術家であり思想家でもあったウィリアム・モリスはこのバイブリーに住み着き、「イングランドで最も美しい村」と評した。その魅力は今もなお変わらず、休日になると多くの人々がバイブリーを訪れる。バイブリーは、昔の美しい姿をとどめた、コッツウォルズ屈指の観光スポットなのだ。
 マキシを乗せたバスは、17〜18世紀に建てられた石造りの素朴な家並みを過ぎ、豊かな自然に恵まれた牧草地を過ぎ、やがて森へと入っていく。その森の中程にある別荘地の入口で、マキシはバスを降りた。彼はそこからしばらく道沿いを歩き、やがて道の脇に立てられた「マツダイラ・ユーロ入口」という看板を発見した。その看板の横には、車がやっと1台通ることのできるぐらいの細い砂利道が、森の奥へと伸びている。マキシは思わずニヤリと笑みを見せると、肩にかけたショルダーバッグを背負い直して、その道へと入っていった。
 森に続く道は緩やかなカーブを描き、100メートルほどで開けた川岸へと出る。バイブリーを流れる、清冽な水をたたえるコルン川だ。川には丸太橋が架けられており、その向こうの川のほとりに、全面ガラス張りの近代的な3階建てビルが建っていた。さらにその奥には巨大なドーム型の白い建造物が隠れており、周りを木々が取り囲んでいる。
 丸太橋を渡った敷地の入口には、特に来訪者を遮断する塀もなければ、門もない。ただ川沿いに100平方メートルほどの石灰岩敷きの駐車場があり、その奥の芝生がこんもりと盛り上がった敷地の上に、ガラス張りのビルはあった。森や花々に囲まれ、川のせせらぎや鳥のさえずりが穏やかに聞こえる、とても美しいファクトリーだった。
 
 駐車場には、巨大なトレーラーがビルを背にして駐車されていた。そしてその後ろの長い荷台から、いくつかの機材のようなものが数人の従業員らによって運び出されていた。マキシはふと、そのトレーラーが一体どこから入ってきたのか不思議に思った。まさか今マキシが歩いてきた細い小道をこのトレーラーが通り、さらに丸太橋を渡って入ってきたとはとても考えられない。どこか別に道が設けられているのだろうかと考えを巡らしたが、その疑問はすぐにどこかへ消え失せてしまった。トレーラーはF1マシンを輸送するトランスポーターと遜色ないほどの規模で、マキシは、もしやマツダイラのF1マシンがこの中に格納されているのではないかという期待を抱いてしまったからだ。
 だが、マキシがさりげなくトレーラーに近づくと、残念ながら従業員たちが運び出していたそれらはF1マシンではなく、黒いカーボン製のラックにコンポーネントされた、何かの機材であることがわかった。機材はいくつかのラックに分けられているが、そのすべてにマツダイラのロゴマークとエンブレム、そして『E・D・O』という文字が印刷されていた。
 ロゴマークはやや太めの真っ赤なガラモンド系書体で描かれていて、「MAZDAIRA」の「Z」の中央に1本棒が入っているのが特長だ。そしてロゴマークの左側に添えられているのが、『トライハーツ』と呼ばれるマツダイラのエンブレムである。3つの「M」を組み合わせて構成されているのだが、そのMがハートマークに見えることからそう呼ばれている。3つのMはそれぞれ「マツダイラ」「モータースポーツ」「メカニクス」の意味を持つ。気になるのは、それらとは別に表記されている『E・D・O』という文字だ。
「……エド……?」マキシは無意識に声に出して、小さく呟いた。

【資料】マツダイラのエンブレム「トライハーツ」とロゴ

「イー・ディー・オーじゃよ。」不意に背後から声がして、マキシは思わずびくっとして後ろを振り返った。そこには、いつの間にか白衣を着た白髪交じりの小柄な老人が立っていた。老人は後ろで手を組んで、背の高いマキシをしげしげと見上げた。2人が並ぶと、老人はまるで小人のように小さかった。
「見かけない顔じゃな。」老人は不思議そうにマキシに話しかけた。
「ああ、失礼しました。私はレッドフォードと言います。雑誌の取材で来ました。」マキシは老人にお辞儀をして名を名乗った。
「ドクター・ハイド・ボーンじゃ。よろしく。」老人はスッと右手を差し出した。マキシはハイド・ボーンと名乗る老人と握手を交わすと、再び機材に目をやり、彼に訊ねた。
「この機材は、何に使う機材なんですか?」
「E・D・O、イージー・データ・オーガナイザーの略じゃよ。ま、簡単に言うと色々なデータを蓄積し解析して、それを元に製品を開発するための機械じゃな。」
「製品の開発……ですか?」マキシはいぶかしげな表情で聞き返した。
「……あんた、アメリカ人じゃろ。」ボーンは唐突に話の骨を折った。
「……ええ、そうです。私はアメリカの『モーターワールド』という雑誌社の者です。」
「ほう。それで、アメリカの雑誌記者がこんなところに何の用だね?」
「実は、ずっと日本でマツダイラの取材をしていまして……」
「おお、そうかいそうかい、あんたも日本から来たのか。わしも先週まで日本に滞在しておってな。ほれ、そのE・D・Oの研修を受けてきたんじゃよ。だがこういう難しい機械は、わしにはさっぱり理解できなくてな。だから機械の操作は、若い連中に任せてしまおうと思っておるのだよ。わしには機械の操作を覚えることより、もっと大事な仕事があるからの。」ボーンの話を聞きながら、唐突に話題を変えて警戒しているのかと思いきや、今度は聞いてもいないことを自分からぺらぺらと話し出したり……おかしな老人だな、とマキシは思った。
「失礼ですが、あなたはこのマツダイラ・ユーロにお勤めですか?」マキシのその問いに、ボーンは高らかと大笑いした。
「ほっほっほっほ、お勤めも何も、わしはこのファクトリーの責任者じゃよ。」マキシはそれを聞いて「Oh!」と驚きの声を挙げた。
「それは失礼しました。白衣を着ていらっしゃるし、ドクターとおっしゃられたので医療関係の方かと……」マキシはばつの悪そうに言い訳をした。
「まあ無理もないのう。わしは航空力学と物理学の博士号を持っておるんじゃよ。」
「……航空力学……」その言葉に、マキシはぴーんと何かを感じた。
「ここは一体、何を作っているところなのですか?」マキシは一気に核心に迫った。
「あんたは、それを知っていてここに取材に来たんじゃないのかね?」ボーンの問いに、マキシはとっさにカマをかけてみることを思いついた。
「……F1マシン……ですよね?」マキシはボーンの顔色をうかがった。
「もちろんじゃよ。他に何を作ると言うんだね?」ボーンは平然とそう答えた。
 
 やはりこのマツダイラ・ユーロは、F1マシンを開発するためのファクトリーだったのだ。昨年のル・マン24時間耐久レースのために建設されたと思われていたこのファクトリーは、実はF1プロジェクトのためのものだったのである。マツダイラは、このコッツウォルズをF1プロジェクトの活動本拠地にするつもりなのだ。マキシの予想は見事に的中した。
 それがわかれば、後は何とかしてこのファクトリーに潜入して中の様子を探る術を考えなくては、とマキシは考えた。しかし、当然ファクトリーの内部は企業秘密が多いだろうから警備も厳しいに違いない。外から様子を探ろうにも、ガラス張りの建物はロビーや受付窓口、それにエスカレーターぐらいしか確認することはできず、奥のドーム型の建物には逆に窓が全くないため、大した収穫を得ることはとてもできそうにない。
「ファクトリーを、見学するかね?」ボーンは、なぜか嬉しそうに目を輝かせていた。
「え?……構わないのですか?」思わぬ言葉に、マキシはうわずった声を挙げた。
「そのために、はるばる日本からやってきたんじゃろ?」
 願ってもないチャンスだった。

   

 マキシはボーンに案内され、マツダイラのガラスの砦に足を踏み入れた。正面入口を入ると3階部分まで吹き抜けの広いロビーが広がり、ラウンジでは数人の人間が雑談をしていた。床は全面大理石調に仕上げられており、正面受付カウンターの背後にあるメタリックの巨大な壁には、マツダイラ・ユーロのロゴパネルが掛けられている。
 マツダイラ・ユーロのロゴは、ガラモンド書体だけでシンプルにデザインされた親会社マツダイラのロゴとは異なり、かなり趣向を凝らしたデザインだった。帯の上下に太めの青いラインが引かれ、中央部分のヘアラインのストライプが入ったグレーの部分に、長体のかかったヘルベチカ書体で「MAZDAIRA」とエンボス調に表現されている。その左側には筆文字書体で「euro」と添えられ、逆側には手書き風の「m」と「e」が組み合わされたシンボルマークが描かれている。さらにそれらを含む帯全体の両端には、天使の羽根を象ったイラストが付けられていた。
 
【資料】マツダイラ・ユーロのロゴ

 ロビーの脇にあるエスカレーターで2階に上がると、壁はマットな白い壁に変わった。白衣をした従業員たちが行き来する広い廊下を進み、一番奥の扉に辿り着くと、ボーンは背伸びをして壁に設置された横長の機械に顔を近づけた。するとピーッという電子音と共に、その上に設置されている液晶画面に「認証、ハイド・ボーン」という文字が表示され、ドアの電子ロックが解除された。
「どうじゃ、すごいじゃろう?」ボーンはマキシを見上げて自慢げに笑った。
「眼紋認識式のセキュリティーですか……」マキシは興味津々でその機械を見つめた。
「眼紋は、指紋と同じで一人一人個別のものじゃからな。わしの身長に合わせて、どこのものも少し低めに設置してもらっておるんじゃよ。だから他の連中は、かなりかがまないとチェックができなくて大変じゃろうな。」ボーンはそういって分厚い扉をスライドし、マキシを中に招き入れた。中に入ったところで、2人の警備員がマキシを取り囲んだ。
「すまんが、手荷物とコートはここで預けてもらうぞ。カメラやボイスレコーダーを中に持ち込まれるのは困るのでな。」ボーンはそう言って、警備員にマキシのチェックを促す。マキシは素直にそれに従いながら、さすがに撮影までは無理か、と諦めた。
 これより先は、本来関係者しか立ち入ることの許されない、マツダイラ・モータースのファクトリーだ。宇宙ステーションのような真っ白な壁の廊下からは、様々な部屋がガラス張りの窓によって外から見学できるようになっていた。マキシはボーンに続いて廊下を進みながら、こんなに簡単に部外者を内部に入れてしまって問題はないのだろうかと、疑問に思った。
 
「一番最初の部屋は、設計室じゃな。主にわしはこの部屋で仕事をしていることが多い。」設計室では、数台のコンピューターに向かってオペレーターたちがCADデータを作成している様子を見ることができる。
「CADによって設計図を製作している部屋ですね。」マキシは答えた。
「そう、基本的にはCADを使っておるが、わしはコンピューターにはまったく疎いのでな。ほれ、あの一番奥にドラフティングテーブル(定規スライド式角度可変型製図台)があるじゃろ、あそこでわしは、紙と鉛筆でマシンを設計しているのじゃよ。それを各パーツごとの設計図に分けてトレースしてCADデータを作成し、そのデータは隣の機械室に送られる。」
 さらに廊下を進むと、設計室の隣にある機械室が見えてきた。機械室は設計室の倍以上の広さがあり、無人の部屋の中で作業用ロボットが動き、コンピューターの指示で木製の「型」が製造されている。ロボットは休むことなく、正確に木を切り削っては次へ送るという単純作業をひたすら繰り返していた。マキシの見る限り、それらのパーツは空力パーツのようだった。
「ほとんどのパーツはこの機械室で加工されるのじゃが、エグゾースト・マニホールド(排気管)だけは排気効率の関係上、構造がとても精密なのでハンドメイドで作られるのじゃ。」
「1本のパイプでも、部分によって厚さなどが微妙に違いますからね。わずかでもそれがずれると、エンジン性能を十分に活かせなくなってしまいますよね。」マキシは答えた。
「ほう、あんたなかなか詳しいんじゃな。記者とはいえ感心なことじゃ。」
「いえ、一応仕事ですから、基本的なことは把握している必要がありますので。」
「では、次の行程は何かわかるかね?」ボーンはマキシを見上げてニッと笑う。ボーンの彫りの深い目尻には無数のしわができた。
「……そうですね、オートクレープでしょうか?」マキシは、比較的すぐに答えを出した。
「おほ!よくオートクレープなんて言葉を知っておるな。その通りじゃ。ボディ部分は別のセクションで作られておるのじゃが、そのボディ部分の木型に、1枚の薄いカーボンファイバー(炭素繊維)を何層も貼り合わせて型にしていき、オートクレープ(巨大な加圧室)で高温状態にして固めていくのじゃな。」
 
「ここには、風洞設備も完備されているのですか?」マキシは、最も知りたかったことを聞いてみた。その質問にボーンは、唸るような声で答えた。
「残念ながら、さすがに風洞までは予算的に無理じゃったよ。」
 現在のF1がエアロダイナミクス、いわゆる空力なくして語れないのは周知の事実である。しかしF1のエアロダイナミクスは、航空機のように理論から生まれ出た技術として確立されていてデータが解析されているものと違い、路面を走る以上どうしても多くの要素が絡んでくるため解析も難しく、まだまだ完璧な理論確立には至っていない。そのためいくつかのF1チームは、それぞれの予算に応じて風洞と呼ばれる実験施設を建設し、その中に実際のF1マシンの1/2サイズの模型を設置して実際に風を送り、空気がマシンのどの部分をどのようにして通っていくのかを分析しているのである。F1におけるマシンデザインは常にエアロダイナミクスが中枢にあり、F1マシンの全てはエアロダイナミクスに負う率が高いのだ。
「確かに風洞実験ができれば、よりエアロダイナミクスを究極まで追求していくことができるじゃろうが、あんたも知っての通り、風洞設備を建築するのには少なくとも1500万ポンド(約30億円)以上はかかるからの。だからマツダイラでは現在CFD(コンピュート・フリュード・ダイナミクス)、つまり演算解析流体力学での空力開発という形を取っておる。」
「コンピューターが数字的に空気の流れと圧力変化を解析して模型のエアロダイナミクスを解析する、いわゆるコンピュータープログラム方式ですね。」
「そうじゃ。もちろんCFDは仮想での解析方法じゃから、風洞実験ほど精密なデータを得ることはできないが、CFDもどんどん進化しておるからな。今では現実とのギャップはわずか数%にまで縮まってきておるのじゃよ。」
「今後、風洞設備を建設する予定はないのですか?」
「それは、今は何とも言えん。なにぶんうちはF1では赤子同然じゃからな。デビュー1年目から順調に行くとはとても思えんから、まあ予算的に考えても2〜3年は無理じゃろう。」
 
 2人が一通りの見学を終えてファクトリーの中央部のラウンジでくつろいでいると、白衣姿の従業員がボーンの元へとやってきた。
「所長、E・D・Oの件で本社からお電話が入っています。」
「おお、そうか。無事に届いたかどうかの確認じゃろう。」ボーンはそう言ってソファーから腰を上げた。伝えに来た従業員はマキシを不思議そうに眺めた。
「こちらの方は?」
「ああ、日本からイギリスへとやってきた、アメリカの方じゃよ。」
「……えーと、日本から……アメリカへ行った……イギリスの……?」従業員は混乱した。
「マツダイラの取材をされている方じゃ。ファクトリーを見学してもらっておったのじゃ。あんた、すぐに戻るからちょっとそこで待っていなされ。」ボーンはマキシにそう言って、従業員と共に席を外した。マキシはボーンと従業員に軽く会釈した。
 従業員はその様子を見て、しばらく歩いたところでボーンの耳に顔を近づけ、囁いた。
「所長!いいんですか?雑誌記者を内部に入れてしまって……。ここはマツダイラの企業秘密だらけのファクトリーなんですよ!」
「なに、構わんじゃろう。実際に組み上げられたマシンを見せたわけじゃないからの。製作中の部分パーツを見せるぐらいどうってことないじゃろう。」ボーンはのんきにそう答えた。
「あのですね、そう言う問題じゃないんですよ!部外者がこのセクションの内部にいること自体が問題なんですよ!所長!もう少しその辺を自覚してもらわないと困ります!」
「まあまあ、そう硬いこと言うでない。第2セクションまでは入れたりせんから。」ボーンの答えを聞いた従業員は、この人のウンチク癖を何とかしなければ、と密かに思っていた。
 
「ボーンじゃ。」彼は受話器を取り、電話の相手に名乗った。
「松平です。E・D・Oは無事に届きましたか?」相手は片言の英語で話した。
「問題ない。今英語版のOSをインストールしておるところじゃ。あんたも少しは英語が上達したようじゃな。」ボーンは意地悪そうにクックと笑いながら松平をからかった。
「……今後は国際社会に出ていくわけですからね、いつまでも日本語で貫き通すわけには行かないでしょう。」受話器の奥から松平の苦笑が聞こえる。
「システムチェックにはもうしばらくかかるよ。どうせ新型機が組み上がるのは来週じゃからな、その間に余裕を持ってやっておくよ。」
「その件ですが博士、くれぐれも新型機の情報は外部に漏らさないようお願いしますよ。ファクトリーから移動する際にも細心の注意を払って下さい。トレーラーの運転手の身元確認から搬出時の周辺確認に至るまでね。」
「わかっておる、わかっておるわい。そう神経質にならんでも問題はないよ。要は、完成品を晒さなければええんじゃろ?」ボーンはうっとおしそうに声を荒げた。
「……設計図もです。」松平は付け加えた。
「わかっとるよ。用件はそれだけか?今接客中じゃから、あとは現場に聞いてくれ。」
「そうだ、接客で思い出しましたが……」
「まだ何かあるのか……」ボーンは苛立たしげに答えた。
「ケビン・コスナー似のアメリカ人には気を付けて下さい。その男は雑誌の記者で、うちのことを色々と嗅ぎ回っているんですよ。いずれマツダイラ・ユーロの存在も突き止めて、近々そちらにやって来るかもしれませんから。」松平の言葉に、ボーンは目をぱちくりとさせた。
「……ケビン・コスナーはよう知らんが、レッドフォードとかいうアメリカ人なら来たぞ。」
「……な、なんですって?その男ですよ!どこにいるんですか?」松平の口調が変わった。その様子を聞いて、ボーンは一瞬考えた。
「……ああ、なに、心配せんでも、門前払いにしてやったわい。」ボーンは答えた。
「博士!間違ってもその男をファクトリーに入れないで下さいよ!結構しつこいですからね、また来るかもしれません!いえ、間違いなくまた来るでしょう!」松平は大声で叫んだ。
「わかっておる、任せておけ。じゃあな。」ボーンはそう言って受話器を置いた。そして一瞬の間の後、くしゃくしゃの白髪頭をボリボリと掻き、溜息をついて考え込んだ。
「……はてさて、どうしたもんかの。まったく、そういうことはもちっと早く言ってくれんと困るんじゃよ……。」ボーンは今置いたばかりの受話器に向かって、独りそう呟いた。

 
 
(つづく)


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