CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5
※この物語はフィクションです。


 三重県・鈴鹿サーキット、F1第15戦日本グランプリ・予選2日目───サーキットの上空に広がる空は、昨日の快晴とは打って変わり、今にも雨がぽつりと来そうな灰色の分厚い雲で覆われていた。スタンドを埋め尽くす観客たちは、昨日に比べて遙かに低い気温に身震いし、両手を擦り合わせたり温かい飲み物を飲みながら、セッションのスタートを今か今かと待ち続けていた。そして多くの者は空を見上げ、雨が降り出さないことを密かに願っていた。観客にとってこの時期の雨ほど厳しいものはない。スタンドの屋根が届かない席に座っている観客の中には、すでにレインコートを防寒着がわりに羽織っている者もちらほらと見られた。11月初旬に開催される今年のF1日本グランプリは、例年にも増して寒いグランプリとなった。決勝が行われる明日日曜日は確実に雨となり、予報では降水確率50%だった。しかし今日は何とか雨にならないのではと言われていた。
 
 昨日の予選初日で1分37秒209の好タイムをマークしたミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)にコンマ5秒差を付けられてしまったデーモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)は、そのギャップを少しでも埋めるべく、予選前のフリーセッションに向け、エンジニアと念密な打ち合わせをしていた。同じくチームメイトであるナイジェル・マンセルもまた、彼のエンジニアと戦略を立てていたが、ヒルとマンセルはチームメイト同士でありながら、全く目を合わせることなくこのレースウィークを過ごしていた。
 タイトル争いをしているデーモン・ヒルに対し、本来ならナイジェル・マンセルはヒルのサポートに徹するのが道理だが、マンセルにはその意志はなく、あわよくばヒルを差し置いて得意の鈴鹿で勝利をものにし、その存在感をアピールして来シーズンからのF1のレギュラーシート獲得を企てていた。ヒルもそのことを知っているため、2人は自分の手の内を悟られぬよう、お互いのセッティングや戦略、タイヤのチョイスからテレメトリーに至るまで、全てのデータを秘密にしていたのだ。ドライバーの関係はチームによって異なるが、今回のウィリアムズの場合、チームメイトでありながら2人のドライバーは、同じマシンに乗るライバル同士として対峙しているのである。特に予選においては単純に速さを競うセッションだけに、ドライバーとしてのプライドを賭けて、お互い一歩も譲らない姿勢を貫いていた。
 しかし、その最終予選を控えた午前中のフリー走行は、鈴鹿を覆い尽くした分厚い雲が冷えた空気と冷たい路面をもたらし、絶好の路面コンディションを作りだした。そしてこの最高の条件下で前日のタイムを大幅に更新したのは、タイトル争いを演じるミハエル・シューマッハでもデーモン・ヒルでもなく、昨日の予選初日で不本意な4番手に終わっていたナイジェル・マンセルだった。彼は予選を睨んだアタックラップで、1分36秒852というこのセッションでのベストタイムを叩き出したのだ。しかもそのタイムは彼自身の前日のタイムを約コンマ9秒短縮するばかりでなく、昨日の予選初日でシューマッハが叩き出した暫定ポールタイムよりも、コンマ5秒速いものだった。2位はシューマッハ、3位がヒルでともに1分37秒台、マンセルに大きく水を開けられる結果となった。このフリーセッションでのタイムは決勝でのスターティング・グリッドの順番に影響を及ぼすものではないが、驚異的なタイムと思われていたシューマッハの予選タイムを軽く上回ってしまったマンセルに対し、後がないヒルは無意識のうちに脅威を抱いていた。
「マシンのセットアップがスムーズに進んで、バランスが見違えるほどよくなったんだよ。午後も同じコンディションなら、ポールポジションは堅いだろう。」マンセルは予選セッションを前に、余裕綽々のコメントを残していた。
 
 しかし、鈴鹿の空は、マンセルの期待を大きく裏切る結果となってしまった。午後の最終予選セッションが始まる1時間前、予想よりもずっと早く雨が鈴鹿にやってきて、路面を完全にウェットコンディションへと変貌させてしまったのだった。言うまでもなくこんな状況ではタイムアップどころではなく、結局昨日の予選初日の結果がそのまま決勝でのスターティンググリッドとなった。
 このセッションでベストタイムを出したのはマクラーレン・プジョーのマーティン・ブランドルで1分56秒台、これに僅差でザウバー・メルセデスのハインツ・ハロルト・フレンツェンが続いた。シューマッハ、ヒル、それにジョーダン・ハートのエディー・アーバインも好タイムも出すものの、マンセルはセッション終了前に早々にガレージに切り上げ、エンジンの換装作業に入ってしまった。
 欲求不満が残ったまま最終予選は終了し、初のタイトルに大手をかけたミハエル・シューマッハが今シーズン6回目のポールポジションを獲得し、2番グリッドのデーモン・ヒルとの直接対決を迎えることとなる。
「ポールポジションを獲得できて嬉しいよ。午後は雨だったけどセッティングはいい感じだ。明日は勝つ自信がある。ウィリアムズ2台に大きく差を付けることができたからね。」シューマッハはセッション終了後、そう語った。また天候に裏切られてしまったマンセルは「この雨は残念だった。朝はすごくいいセットアップを見つけたから、晴れていれば結果を出せたはずだ。明日は晴れることを願うよ。」とあからさまに意気消沈した様子を見せた。

 

 JR名古屋駅ビルの中にあるCDショップで、CDの試聴に没頭していたミハエル・カッズ・クーンは、ヘッドフォンを外してふと店内を見回し、いつの間にか自分以外の客がほとんどいなくなっていることに気付いた。彼はハッとして腕時計に目をやり、店が閉店する時間であることを知った。
 雨の予選を観戦した後、電車で名古屋駅まで戻ってきたカッズ・クーンは、そのまままっすぐホテルに帰っても暇をもてあますだけだったので、駅ビルで時間を潰していたのだ。しかし日本語がほとんどわからない彼の楽しめる場所は限られている。もう日本に来て1年になるので単独行動は平気だが、街中で見るものといえば、もっぱら衣類や雑貨、それに音楽CDぐらいしかないのだ。そういう意味では駅ビルは、だいたいそういった店が揃っているので退屈することはないが、その駅ビルが閉店してしまったので、いよいよ彼は時間を潰す術をなくしてしまった。かといって名古屋駅を一歩外へ出てブラブラしようにも外は相変わらずの雨、しかも土地勘のないカッズは右も左もわからない。しかたがないので彼はエスカレーターで下りながら、このままタクシーに乗っておとなしくホテルに帰ろうと決めた。こんなことなら神宮庄之助と共に行動し、夜の名古屋駅周辺でも案内してもらえばよかったと、カッズは後悔した。
 
「カッズ!」背後から彼を呼ぶ声が聞こえ、彼は振り返った。見ると薄いピンク色のワンピースを着たロングヘアの女性が、ハイヒールの音を響かせていそいそとエスカレーターに乗り込んできた。彼女はカッズ・クーンに追いつくと、滑らかに流れるストレートの髪をなびかせてにこっと笑顔を見せた。その瞬間、甘い香りがふわりと漂う。
「ああ、君は確かレースクイーンの……」カッズは彼女の顔を見て思い出した。彼女はカッズが今年参戦したF3チームが雇っている、レースクイーンだったのだ。
「こんなところで会えるなんて奇遇ね!あたし八嶋範子、ノリコ・ヤシマよ!覚えてね!」
「ノリコ・ヤシマね、うん、わかった。覚えておくよ。」
「ねえ、名古屋で何してるの?あ、わかった!鈴鹿の帰りね?」範子は思いがけずにカッズ・クーンと会えたことで舞い上がっているのか、次から次へと言葉が飛び出してきた。
「そう。これからホテルに帰るところ。」範子の勢い半ば圧倒されながら、カッズは答えた。
「そうなの?じゃあさ、せっかくだから、これから2人で飲みに行かない?いい店知ってるのよ!」間髪入れずに範子が言った。
「え?これから?」カッズは突然の誘いに一瞬ためらう。
「だめ?」範子は甘えるように口を尖らせ、おねだりするように上目遣いでカッズを見た。
「……まあ、まだ早いから別にいいけど……。」
「やったーッ!カッズとデートできるなんて夢みたい!あたしね、あなたの大ファンなのよ!だってカッコイイもん!あとでサインも頂戴ね!」範子は大はしゃぎで両手を挙げた。
「あ、ああ、はい……。」カッズはちょっと照れながらそう答えた。
 

 
 JR名古屋駅周辺、飲み屋や風俗店などが立ち並ぶ夜の繁華街の一画にあるショットバー「ハーティ・サーティ」は、大通りから1本入った小路にある、知る人ぞ知る穴場的スポットとして存在する。鈴鹿サーキットでレースが行われる週にはレース関係者もよく立ち寄るが、ビルの地下に降りていくので、土地勘のない外国人関係者が立ち寄ることはほとんどないに等しい。だが、日本に馴染みの深いレーシングドライバーなどが訪れたこともあり、間接照明で明かりを抑えたシックな雰囲気の店内の一画には、この店に訪れた名ドライバーたちの写真やサインなどが飾られており、モータースポーツファンも多く訪れることで知られている。
 バーテンダーの喜市は、どこかでこちらにオーダーの合図をしていないかと、ぐるりと客で賑わう店内を見回してみた。入りはだいたい20人といったところか。今夜来ている客の多くは、喜市の見覚えのある顔だった。今週は鈴鹿サーキットでF1グランプリが開催されているため、その多くはレース関係者であるということはすぐにわかった。今年ももうそんな季節か……と思いつつ、喜市はシンクについていた水滴を布巾で拭った。
 店のドアが開き、店員たちが「いらっしゃいませ」と声を張り上げて新たな来客を告げた。入ってきたのは、髪を茶色に脱色して短く切り揃え、整髪料でツンツンと尖らせた1人の若い青年だった。そして彼もまた、喜市の見覚えのある顔だった。彼は過去に3回ほどこの店に来ているが、その3回ともカウンター席の一番中央に座った。青年は入口で店員に上着を預けると、今日も喜市の記憶通り、ぽっかりと空いていたカウンター席の中央に黙って腰を下ろした。彼は少々落ち着かなげに後ろの客たちを気にしていたが、喜市が彼の前にコースターと火の灯ったキャンドルを置くと、カウンターに向き直った。
「ジントニックを。」慶喜はドリンクリストには目もくれず、喜市にオーダーを出した。
「かしこまりました。」喜市はオーダーを受け、速やかにタンブラーに氷を4つ入れ、さらにドライジンを注ぎ込んだ。それにトニックウォーターでタンブラーを満たして慣れた手つきで軽くステアし、最後にスライスしたライムを1枚飾って、カウンター越しにその透明の飲み物を彼の前に出した。
 
「いつも1杯目はジン・トニックですよね。」喜市は何気なく慶喜に話しかけた。
「え?」唐突に話しかけられ、慶喜は少し驚いた表情を見せた。
「すごいな、覚えてるんですか?」
「ええ、お客さんいつもこの席にお座りになるので。」喜市はニコリと笑みを見せた。
「うん、真ん中がいつも空いているから、独りで来ると座りやすいんですよ。」慶喜は静かにそう言ってジン・トニックに口を付けた。
「うちはカップルのお客様が結構多くて、なぜかカウンター席は隅の方から埋まっていくんですよ。照明が届かなくて薄暗いからですかね。」
「へえ、そうなんですか。なるほどね。」慶喜はそう答えたが、まるで喜市の話など上の空で、あまりこういった世間話には興味がないといった淡々とした様子だった。むしろ必要以上の会話を避け、自分だけの時間に浸りたがっているかのようにも思えた。喜市は、短い会話の中でそれを理解し、それ以上彼に語りかけるのは控えることにして、自分の周りの仕事に取りかかろうとした。ところが、そんな喜市の気遣いをよそに、後ろのテーブル席から、1人の若い女性が自分の飲んでいたグラスを持ってカウンターへとやってきた。髪はショートカットでやや茶色、顔の輪郭がシャープで目が少しつり上がった、ボーイッシュな女性だった。パーティーか何かの帰りなのか、若そうなわりにきっちりと化粧をし、グレーのフォーマルスーツを着こなしていた。そして彼女は、おもむろに慶喜の隣の席に腰を下ろした。
 彼女は慶喜の隣に座るやいなや、目の座ったような表情でじっと慶喜の横顔を見つめた。慶喜は横から視線を感じ、真横で自分の顔をまじまじと見つめている女性を見てぎょっとした。
「な、何か?」慶喜は女性に問いかけた。
「……やっぱそうだ、ヨッシーでしょ。」彼女はぶしつけにそう答えた。「お店に入ってきたのを見て、そうじゃないかな〜って思ったのよ!」慶喜はそれを聞いて、反射的にその馴れ馴れしい態度に眉をひそめた。
「……お前、誰?」慶喜は露骨にムッとした表情で彼女に問いかけた。
「あのねえ、お前誰はないでしょうが!あたしよあたし!覚えてないの?」彼女は慶喜の威嚇的な態度にまったく動じることなく、むしろムスッとして慶喜に食ってかかった。それを聞いた慶喜の顔は少し緩み、今度はいぶかしげな表情で記憶を探り、彼女の顔を思い出した。
「……あ!お前!……もしかして蒼井美香か?」
「そうよ!何で忘れるのよ!お向かいさんじゃないの!」美香は不機嫌そうにそう答えると、ようやく姿勢を正してグラスの中のカクテルを飲み干した。
「マスター!これおかわりね!」美香はグラスを挙げて喜市に言った。喜市はこの2人が知り合いであることにホッとしながら、彼女が飲んでいた飲み物は何だったか思い出した。
「ジンリッキーでしたよね。」喜市が美香に確認すると、美香はにこっと笑顔で答えた。

 

「化粧してるからわかんなかったよ、何でお前こんなところにいるんだ?」慶喜は心底驚いた様子で美香の顔を改めて観察した。
「知り合いの結婚式があって、名古屋に住んでる友達の家に泊めてもらってるのよ。」
「へえ、そうなんだ。しかし奇遇だなあ、まさかこんな場所で会うとは……」慶喜は思わぬ場所での幼なじみとの再会に、未だに戸惑いを隠せないでいた。
「ヨッシー、ちょっと太った?そんなに首太かったっけ?」
「鍛えたんだよ。お前も化粧なんかして、何だかお母さんにそっくりになってきたな。」
「あはは!よく言われる!」美香はアルコールのせいもあり、すっかり上機嫌になっていた。
「名古屋へは、仕事で?」
「オレ?……まあ、仕事というかプライベートというか……。」
「仕事、何してるの?」
「レーサーだよ。」
「……レーサー?……それって、走り屋ってこと?」美香はきょとんとした。
「ちげーよ、一応プロのレーサーだよ、サーキットで走ったりする……」
「うそ!ほんと?」
「ほんとだって。」
「うっそ〜!信じられない!ヨッシーがレーサー?」
「どういう意味だよ……」慶喜は苦笑した。
「そういえばおじさんもクルマ関係の仕事しているんだっけね。その関係で?」
「……いや、親父とは全然関係ないよ。」慶喜は無意識にやや声を強めた。
「そうなんだ。おじさんとおばさんにはよく会うよ、あたし今もまだ実家に住んでるから。でもヨッシーとは中学卒業してから、全然会わなくなっちゃったね、お向かいさんなのに。高校どこへ行ったんだっけ?」
「……高校には行ってないよ、オレ中卒だからよ。一旦就職して社員寮に移ったんだよ。」
「へえ、そうなんだ……そういえば中学時代から結構グレてたもんね。」美香は楽しそうにケラケラと笑いながら慶喜をからかった。
「カンケーねえじゃん。お前だってヤンキーだったじゃんか。」慶喜は思わず無気になった。
「失礼ね!あたしはヤンキーじゃないわよ!そりゃ結構気は強いけどさ!」
「そうだっけ?」慶喜は、美香がムスッとする顔を見てクックと笑った。
「……何かさ、お向かいさんだから小さい頃から知ってるのに、よく考えてみたらヨッシーとこうやって2人でゆっくり話をするのって、初めてじゃない?」
「そういわれてみればそうだな。同じクラスになったことないしな。」
「一緒に登校したこともなかったもんね。」
「オレ、結構遅刻してたからなあ。」
「……それもそうだけど、特に中学の頃は、結構近寄りがたい感じだったよ。」
「……オレも、結構お前には話しかけづらかったよ。」
「え?なんで?お向かいさんだから?それとも、密かに意識してたとか?」
「……いや……何か……怖そうだったし。」
「ちょっとぉ!何であたしが怖いのよ!失礼ねほんとに!」美香は慶喜の背中を叩くと、また口をすぼめてムスッとした表情を作るが、すぐにまた楽しそうに笑顔を見せた。
「……お前、オレとこんなに話してていいのかよ。連れがいるんじゃないのか?彼氏とか。」
「やあねえ、彼氏なんていないわよ。一緒に来たのは女子大の友達よ。向こうは向こうで盛り上がってるからいいのいいの!」
「へえ、そうなのか。てっきり彼氏の1人や2人いるのかと思っていたよ。」
「……1人や2人って……モテないわよそんなに。ほら、あたし結構気が強いからさ。」美香のあっけらかんとした答えに、慶喜は密かに頷いていた。(一応自分で自覚してるんだ……)
「そういうあんたはどうなのよ、彼女いないの?」
「……ああ、いたけど、フラれた。」慶喜は溜息混じりで答えた。
「あらあら。何、どうなったの?」美香は頬杖をついて意地悪そうな笑みを見せた。
「……何でお前にオレの身の上話をしなくちゃならねえんだよ!」慶喜はわざと眉間にしわを寄せて美香を睨んだ。
「いいじゃない、幼なじみなんだからさあ、それにお酒の席だし!……で?何があったの?」美香は興味津々といった感じで目を爛々とさせていた。
「お前、楽しんでるだろ……」美香の嬉しそうな様子を見て慶喜は呟いた。
「早く!」美香は有無を言わさずせかす。
「……しょうがねえなあ……」
 
「……彼女は、現役のレースクイーンなんだよ。」慶喜は渋々話を始めた。
「レースクイーンって、あのレース場とかで水着着て日傘持っている人でしょ?」
「そうそう。」
「じゃあすごく美人なんじゃないの?」美香は目を丸くした。
「ああ、美人だよ。スタイルもいいし。」慶喜は淡々と答えた。
「ちょっとヨッシー!あんたなかなかやるじゃない!」
「……彼女はうちのレーシングチームが契約しているレースクイーンで、オレの方から告白して、今年の3月ぐらいから付き合い始めたんだ。で、初めてのデートで来たのがこのお店だったんだよ。その時も席がここしか空いてなくて、今のオレとお前と同じ席に座ったんだ。」
「へえ、じゃあここは思い出のお店なんだ。」
「そう、彼女が教えてくれてね。そんな感じで、最初のうちはいい感じで付き合ってたんだけどな、だんだんと向こうが素っ気なくなってきて、そのうちろくに連絡も取れないような状態になっちまって……。レースの時にはもちろんサーキットで顔を合わせていたんだが、向こうは向こうの仕事があったし、元々レースの時はオレもレースに集中していたから話しかけられなかったんだ。それで、一度ゆっくり話をしようって言ったら、急にオレと別れたいって言い出してきたんだよ。」
「そりゃまたえらく突然ねえ……」
「だろ〜?……で、理由を聞いたんだよ。そしたら……」
「……そしたら?」
「価値観が違うんだとさ。」
「…………」
「わけわかんねえだろ?」慶喜は首を傾げながら美香に同意を求めた。
「……うん、確かに。」美香は答えた。
「要するに、価値観が違うというのは単なる口実で、オレのことが飽きたってことなんじゃねえのかな?彼女は人気あるから、他にも言い寄ってくる男はいくらでもいるだろうし。要するに、ふるいにかけられて落とされたのさ。」慶喜はまるで人事のように平然と語った。
「……うーん、なんだろうねえ……」美香も困り果てた顔を見せた。
「ま、そんな感じで、何だかよくわからないうちにフラれちまったってわけさ。」慶喜はそう言ってジン・トニックを飲み干した。
「それからもサーキットでは見かけるんだけど、もう一切話なんてしてないよ。1ヶ月も前の話だから、オレもいい加減吹っ切れてきたけどな。美人となんて付き合うもんじゃねえよ。ああいう女はいつもちやほやされてるから、高飛車になってるんだよ。最近じゃアイツの顔を見るたびに、何だかムカつくんだよ。だから顔を合わさないようにしてるんだ。」
「……たまたまそういう相手だっただけなんじゃない?」
「……どうだろうねえ……」
「美人は嫌か……じゃあ、私もダメじゃん。」
「……おい……」
 

 また新しい客が入ってきたのか、店員たちが「いらっしゃいませ!」と声を張り上げて対応する。美香は何気なく入口のドアに目をやり、背の高い若い外国人が入ってきたのを見て、ふと顔を上げた。「あ、ガイジンだ!背が高〜い!」美香の言葉に入口に目を向けた慶喜は、思わずハッとした。入ってきたのは、慶喜がやたらと対抗意識を燃やしているF3のチームメイト、ミハエル・カッズ・クーンだったのだ。慶喜は(よりによってアイツと鉢合わせかよ!何でアイツがこの店を知っているんだ?)と思いつつ、舌打ちをして顔を背けようとした。ところが、その後に入ってきた女性を見るやいなや、慶喜は急にをこわばらせた。
「一緒にいる女の人もきれいな人ねえ。脚がすらっと長くてスタイルも良さそうだし。」美香はカッズ・クーンと連れだって入ってきた女性を見てそう漏らした。しかし慶喜は、その女性がカッズ・クーンと腕を組んで仲むつまじくしている様子を、鋭い眼孔で睨みつけていた。
(……なるほど……そういうことかよ……)
「やっぱりいいオトコにはいいオンナが付いてくるのねえ。」美香はけだるそうに呟いた。
「……蒼井、悪いけどオレ帰るわ。」慶喜は突然立ち上がると、美香にそう告げてそのまま早足でレジの方へと歩き始めた。
「……え?ちょっと、どうしたのよ急に……」美香は慌てて慶喜の後を追いかけた。
 店員に上着を預けたカッズ・クーンは、F3でチームメイトでありながら、なぜか反りが合わなくて苦手な松平慶喜を思いがけず見かけて、思わずぎょっとした。(ヨシノブも日本グランプリを見に来ていたのか。僕が入ってきたのを見て、気に入らないから店を出ようとしているのだろうか……)と彼は思った。
「……やば!」範子は慶喜の姿を見て、急に顔をこわばらせてカッズの背後に隠れた。慶喜は店員から自分の上着を受け取ると、2人を無視するように目の前を通り過ぎ、店員の開けたドアからさっさと出ていってしまった。さらにその後を美香が慌てて追いかけていく。それを見送ったカッズは、範子の様子を見て首を傾げた。
「え?何?どうしたの?」
「今の、松平君でしょ?同じチームの……」範子は声を押し殺すようにそう言った。
「ああ、そうみたいね。彼も鈴鹿に来ていたのかな。」
「……実はね、松平君とは、少し前まで付き合っていたのよ。」範子はカッズの腕をぎゅっと掴んでそう答えた。「まずいところを見られちゃったな……気付かれたかな……」それを聞いたカッズは、自分の身体からサーッと血の気が引いていくのを感じた。
「……そ、それホントなの……?」カッズは口元を引きつらせながら聞き返した。
「ええ、そうよ。あの人に言い寄られて、レーサーだし、初めのうちはカッコイイかも〜って思ってたんだけど、あの人レースで全然パッとしなかったでしょ?それに何だかサーキットでは目つきが悪くてヤなカンジだし。すぐに冷めちゃってさ、だから私からフッちゃったの。」範子はあっけらかんとした表情でそう言ったが、カッズはそれを聞いて呆然とした。
「ね、どこに座ろうか?テーブル?それともカウンター?」範子はのんきにカッズの手を引いて店の奥に入っていく。
(……それってすごくまずいよ……ただでさえ彼によく思われていないのに、ますます因縁を付けられそうだ……どうすりゃいいんだよ……)カッズは範子に手を引かれながら、力なくよろよろと店の奥へと引きずられていった。

 

 三重県・鈴鹿サーキット、F1第15戦日本グランプリ・決勝当日───午前8時半から開始されたウォームアップランは、セミウェットのコンディションの中行われた。スタンドを埋め尽くす観客たちは、11月の冷たい雨に凍えながらも、シューマッハとヒルのタイトルを懸けた世紀の直接対決を見逃すまいと、決勝スタートに向けて熱気に溢れていた。
 ウォームアップは雨が降ったり止んだりと予測できない状況ではあったが、昨夜の予選で雨の中トップタイムをマークしたマクラーレン・プジョーのマーティン・ブランドルが、今回も1分57秒837のトップタイムで好調さを見せつけた。そしてそのブランドルに極めて近いタイムをマークしたのは、彼と同じイギリス人ドライバーにして元ワールドチャンピオン、ナイジェル・マンセルだった。彼はまだセッションの残り時間が余っているうちに余裕綽々と早々に走行を切り上げてマシンを降りた。今回のレースで一番リラックスしているのは、このマンセルかもしれない。鈴鹿は現役ドライバーでは誰よりも得意としており、何と言ってもヒルのサポート役として途中から加わった彼にとって、失うものが何もないのだ。
 ブランドル、マンセルに続いたのはこちらもウェットで好調のフレンツェンに、ティレル・ヤマハのマーク・ブランデル。ヒルは1分59秒台で彼らの後ろ5番手に甘んじていた。ヒルはこの混沌とした天候の中で相当のプレッシャーを感じていたのだ。そして驚くべきことに、大本命であるはずのシューマッハが、そのさらに2台後方の7番手と低迷していた。しかも彼は2コーナーの立ち上がりでスピンを演じてヒルとのバトルを期待している観客をひやりとさせた。セミオートマチックギアが正常に作動しなかったためにシフトアップができなかったとはいえ、名手シューマッハのこういったミスは、とても珍しいことだった。
 それでもマシンにダメージはなく、シューマッハもそれほど動揺しているようには感じられなかった。午後の決勝で天気が回復に向かっても、逆にヘビーウェットコンディションになっても、シューマッハの優位に揺るぎはないように思われた。むしろもっと雨が降れば、水煙によって視界が著しく奪われるため、スタートはポールポジションのシューマッハが断然有利だと言えるだろう。
 
 
 ピットロード付近で傘を差しながらウォームアップを観戦していたマツダイラの神宮庄之助とミハエル・カッズ・クーンは、決勝はコントロールタワーの中にあるプレスルームで観戦しようと決めていた。この雨の中では外で観戦していても、ほとんどレースの詳細を把握することはできない。それよりもジャーナリストたちと共に暖かい屋内で、プレスルームに設置されているタイミングモニターを見ながら窓の外から様子を見下ろした方が、遙かにレースの状況を把握しやすいだろう。
「……しかしよく降るなあ、ドライバーはよくこんな雨の中レースをしようと思うよな。しかも屋根のないフォーミュラマシンでよ。いくらメットとレーシングスーツがあるとはいえ、下手すりゃ風邪ひいちまうよ……」神宮の言葉にカッズ・クーンは上の空で、ミハエル・シューマッハが所属するベネトンチームのモーターホームを、ぼんやりと見つめていた。
「どうした?」神宮はカッズに声をかけた。
「……いえ、何でもありません。」カッズはそう言いながら、午前中のセッションでのシューマッハのスピンアウトが気になっていた。同じドイツ人ドライバーとして、カッズ・クーンが最も憧れているシューマッハを、彼は密かに応援していたのだ。もちろん彼がテストドライバーとして所属しているマツダイラではデーモン・ヒルの獲得を狙っているため、神宮にはとてもそのことは言えないが、やはりカッズとしては、ヒルよりもシューマッハに、このレースで勝って欲しかった。そしてシューマッハに、ドイツ人初のワールドチャンピオンになって欲しいと願っていた。(……シューマッハのマシンは大丈夫だったのだろうか……決勝レースで悪影響を及ぼさなければいいが……)
「カッズ!行くぞ!いつまでもこんなところにいたら、オレたちが風邪ひいちまう!」神宮は少し苛立つようにカッズを呼んだ。
「あ、はい!先に行ってて下さい、トイレに寄ってから行きますから。」
「おう、じゃあ、上でな。」神宮はそう言って軽く手を挙げると、水たまりを避けるようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、コントロールタワーへと去っていった。
 
 パドックの脇に設置されているトイレで傘を閉じ、それを入口の壁に立てかけてトイレの中に入ろうとしたカッズは、手洗い場で鏡に向かっていた1人のレーシングスーツを着た男に気付いてハッとした。彼は鮮やかな青いレーシングスーツに身を包んでいたが、雨のせいでそれは実際の色よりもかなり濃く見えた。そしてその彼の脇には、白地に赤と黄色の模様、そしててっぺんには紺色のベースに星がちりばめられたヘルメットが置かれていた。カッズはそれを目にして、まさか……と目を丸くした。カッズの気配に気付いて、レーシングスーツの男は振り返った。それは紛れもなく、カッズ・クーンが憧れるドイツ期待のF1ドライバー、ミハエル・シューマッハその人だったのだ。シューマッハはカッズを見て、にこりと微笑んだ。カッズはあまりの衝撃に一瞬呆然とその場に立ちつくしてしまったが、勇気を振り絞って彼に歩み寄ると、恐る恐る右手を差し出した。
「あ……あの、握手、してもらえませんか?」カッズは震えるような声でそう言った。
「ああ、いいとも。」シューマッハは穏やかな表情でカッズの右手を握った。
「君はひょっとして、ドイツ人かい?」シューマッハはカッズを見て尋ねた。
「は、はい、ケルン出身です。」
「へえ、ケルンか。大聖堂とカーニバルの街だね。君の名前は?」
「ミハエル……カッズ・クーンといいます。」
「ミハエル・カッズ・クーンだって?」シューマッハはカッズの名を聞いて思わず笑った。
「そりゃあいい!ドイツF3チャンピオンと同じ名前じゃないか。君は将来レーサーになれるかもしれないよ。」シューマッハはそう言って気さくな笑顔を見せた。
「……はい、昨年ドイツF3で、タイトルを獲得しました。」カッズは半ば興奮したようなうわずった声でそう答えた。
「え?じゃあ、君がドイツF3チャンピオンの、ミハエル・カッズ・クーン?」シューマッハはそう言って目を丸くした。
「はい、そうです……なぜご存じなんですか?」カッズは聞き返した。
「そりゃあ、自分がかつて戦っていた場所だもの、後輩の名前は気になるものだよ。」シューマッハは笑ってそう答えた。
「でも驚いたな、その若き後輩とこんなところで巡り会うとはね。」
「ええ、僕も驚きました……まさかこんなところであなたに会えるなんて……」
「今は日本でレースを?」
「はい、全日本F3にエントリーしながら、再来年からF1に参戦するマツダイラというチームで、F1マシンのテストドライバーを努めています。」カッズは少し緊張がほぐれたのか、冷静さを取り戻して憧れのドライバーに説明した。シューマッハはそれを聞いて、ほんの一瞬眉をひそめた。「マツダイラ……聞いたこともないな……」
「日本の小さな自動車会社なんです。」カッズは答えた。
「へえ、それじゃあ、いずれは君と、コース上で戦うことになるかも知れないな。」
「そうなることを目標にしています。」
「楽しみに待っているよ。」シューマッハは、カッズをまっすぐに見据えてそう言った。
「あ、あの、僕応援していますから!今日のレース、勝って下さい!」カッズはつんのめるような勢いでシューマッハに言った。
「ああ、もちろんだとも。今週末はずっといい感じなんだ。期待に応えられると思うよ。」シューマッハはそう言ってカッズの肩を軽く叩くと、自分のヘルメットを持って、そのままトイレを出ていった。
 
 カッズは、シューマッハが去った後もその余韻で呆然としていたが、ふと自分が何のためにここへ来たのかを思い出し、慌てて用を済ませて手を洗った。そして彼は、すぐに追いかければもう一度シューマッハの姿を見られるかもしれないと思い、急いでトイレを出ようとした。そのトイレの出口で、カッズは今度は別の思いがけない人間と遭遇する羽目になり、思わず「ギャッ!」と悲鳴を挙げて愕然とした。そこには、昨日の夜名古屋のショットバーで気まずいことになってしまった、松平慶喜が傘を差して立っていたのだった。
「ヨ、ヨシノブ、やっぱり来てたのか……」カッズはその慶喜の得も言われぬ威圧感に圧倒され、思わず後ずさりをした。
「神宮さんに聞いたら、ここだと教えられたんだ。クーン、お前に聞きたいことがある。」驚いたことに、慶喜の口からはとても滑らかな英語が飛び出してきたのだ。それはカッズが1年間同じチームに所属して、初めてまともに聞いた慶喜の言葉だった。慶喜が英語を話すとは、カッズ・クーンにとってはとても意外なことだった。
「……き、聞きたいことって……」慶喜に英語が通じることがわかったカッズは英語で聞き返そうとして、ふいに昨夜の出来事が脳裏を横切った。(そうか、彼は僕があのノリコとかいう娘と一緒にいたことを怒っているんだ!)カッズは直感的にそう感じた。
「いや、違うんだ、誤解しないで欲しいんだけど、あの娘とは全然何でもないんだよ……。名古屋駅で声を掛けられて、あの店でちょっとだけ飲んだ後、すぐに彼女とは別れたんだよ……だからその……君が疑うようなことは何もないんだ……」カッズは必至で弁明した。慶喜はそれを聞き、露骨に怪訝な表情を露わにしたが、軽く溜息をついてカッズに言った。
「……オレが聞きたいのは、そんなくだらないことじゃない。」慶喜はカッズの動揺をよそに、静かに言った。「オレが聞きたいのは、F3の最終戦でのことだ。」
「……F3の最終戦……?」カッズは慶喜の予想外の言葉に眉をひそめた。
「鈴鹿の、1コーナーでの出来事のことだ。」慶喜はカッズを厳しい表情で見つめたまま、そう答えた。それは1ヶ月前に同じ鈴鹿サーキットで行われた、全日本F3選手権の最終戦のことだった。スタートからわずか数秒でカッズ・クーンは、後ろから慶喜に追突されて初優勝のチャンスを逸してしまったのだ。2人のチーム内での確執を象徴するような出来事だった。
「何でそんなこと今頃……」
「チームの事情聴取で、あの事故は単なるレースアクシデントだと言ったそうじゃないか。」
「ああ、そうだけど……」
「映像を見れば一目瞭然だ、あの事故はオレが突っ込みすぎたのが原因だった。故意にぶつけたとは言わないが、オレはあの1コーナーでお前をぶち抜いて前に出ようと無理をしたんだ。だからあの事故はオレに否がある。なのにお前は、なぜそう言わなかったんだ。成績が上げられずチーム内で肩身の狭いオレに、同情でもしたつもりなのか?」
「……そんなことはないよ。そりゃあ確かに、君の突っ込みは無謀だったと思うよ。でも、僕だって前を行くウォレンがインを閉めてしまったから、通常より早いタイミングでブレーキを踏まざるを得なかった。君だけに否があったとは言えないよ。」
「あのレースは、オレにもお前にも優勝のチャンスがあった。もちろんあのままレースが続いていれば、オレが勝っていただろうけどな。いずれにしても、お前はオレに追突されてコース外にはじき出されたことで、勝てたかも知れないレースをフイにされたんだぞ!オレに腹が立たねえのかよ!」慶喜はカッズを睨みつけたまま言葉を強めた。
「何言ってるんだよ!レースなんてそんなもんだろ?誰だってギリギリのところで前を目指して戦ってるんじゃないか、ガッカリな結果だったけど、あれはレースアクシデントだよ。」カッズは声を荒立てて慶喜に言い返した。慶喜はそれを聞いて、無言のままカッズを見つめていた。慶喜はやがて彼から目をそらすと、やれやれといった様子で首を振り溜息をついた。
「優等生ヅラしてんじゃねえよ!オレはなあ、お前のそういうところが気に入らねんだよ!」慶喜はそうカッズに言い放つと、そのままくるりと背を向けて歩き去ってしまった。後に残されたカッズは、その場に立ちつくして途方に暮れてしまった。
(……何なんだ一体……わけがわかんないよ……)

 

 午後1時───決勝スタート前のフォーメーションラップが開始される時間になっても、雨が止むことはなかった。それどころか雨はさらに激しさを増し、サーキットは完全に水浸しの状態と化した。新しい世代のワールドチャンピオンを決定する頂上対決は、今シーズン初めてのヘビーウェットコンディションでのレースとなった。
 雨がサーキットをぼんやりとぼやけさせる中、その水のカーテンの向こうからゆっくりと1周のフォーメーションラップを終えて戻ってきたマシンたちが、続々とそれぞれのスターティンググリッドに就いた。やがて全車が無事にグリッド上に就き、野太いエグゾーストノートを唸らせながら、前方のレッドシグナルがブルーに変わる瞬間を今か今かと待ちわびていた。シグナルが点灯し始め、それまで断続的だったエグゾーストノートが継続音に変わった。彼らは回転数を一定に保ったままスタートに備えた。
 
 ブルーシグナルが灯り、25台のマシンが一斉に動き出した。たちまち激しい水煙が立ち上がり、観客たちの視界を否応なしに奪った。ポールからスタートしたシューマッハはアウト側から速やかにコースの中央にラインを変え、後続の行く手を遮ったまま1コーナーに1番に飛び込んでいった。2番手スタートのヒルはすぐ後ろのフレンツェンを牽制しながら、シューマッハの挙げる水煙を避けるようにラインを変え、何とかそのポジションを守ったまま1コーナーに続いた。4番手スタートのマンセルはスタートで7番手まで後退してしまった。
 トップをキープしたシューマッハに対し、2位のヒルが1秒以内で続くが、2周目に入る頃にはすでに3位との差は3秒以上にまで広がっていた。ヒルは視界が全く見えない状況下で、前を行くシューマッハのテールランプ(雨天の時には追突を避けるために点灯を義務づけられている)の明かりだけを頼りに懸命に追いすがっていた。だが3周目に入ると、雨はさらに激しさを増し、まるで大粒の雹でも降っているかにような状況と化した。
 3周目の終わりに、セーフティーカー導入を告げる2本のイエローフラッグがコース脇に待機しているコースマーシャルたちによって振られた。激しい雨や事故などによってコース上が危険な状態になったときには、コース上にセーフティーカーと呼ばれるスローペースを維持する車輌が出てレースを先導する。レース中のマシンたちは危険が回避されてレースが続行可能になるまでこのセーフティーカーに先導され、その間の追い抜きは禁止となる。
 すでに序盤の時点で2台のマシンがスピンを喫し、3台のマシンがリタイヤを余儀なくされた。この度セーフティーカーによる先導は10周目まで続き、それがピットロードへと退いた11周目から、再びレースは17台によって再開された。
 ところが、レースは14周目が終わったところで突然フィニッシュラインにレッドフラッグが提示され、中断を余儀なくされた。14周目のダンロップ・コーナーで8位走行中のジャンニ・モルビデリがクラッシュし、それをコースマーシャルが排除している最中に6位を走行中だったブランドルが突っ込み、マーシャルの1人をはねてしまったのだった。
 
 もはや勝敗の行方は誰にもわからないほどの大混乱となってしまったレースは、13周目までのタイムとポジションを基に、残り37周のレースを行い計50周のレースとすることが決定された。ただ、スタートはセーフティーカー先導による1列縦隊でのローリングスタートという形になった。
 各車がセーフティーカーに先導されて1周を周り再びレースが再開されると、またもやシューマッハがヒルを引き離しにかかり、その差はわずか数周で10秒近くまで開いてしまった。その後シューマッハは19周目に最初のピットストップを行い、見かけ上の順位は8位、しかし赤旗中断前のタイムを換算した実際の順位ではヒルに18秒遅れの2位というポジションでコースに戻った。
 レース折り返し地点の25周目、トップをひた走るヒルがピットストップに入った。彼はこのピット作業で残りのレースを走りきれるだけの燃料を補給され、このまま最後まで走りきる作戦を採った。残り20周の時点で、トップを行くヒルは2位シューマッハに対して5.4秒の差を付けていた。シューマッハはヒルがピットインした際にヒルを逆転することができなかったのだ。
 しかしシューマッハはその後も鬼神の走りでヒルとの差をじわじわと縮めて追いすがり、遂に16周目にはその差がコンマ5秒まで縮まった。ヒルが先行し2位のシューマッハが僅差でこれを追う見かけ上の順位とは逆に、実際のタイムではシューマッハがヒルに4秒近い差を付けていたのだ。
 
 ところが、残り周回数が10周という場面で、何と2位(実際には首位)のシューマッハが、突如としてピットレーンへと入ってきた。彼のマシンはピットで燃料補給とタイヤ交換を済ませ、実際の順位でも2位に後退してしまった。これでシューマッハは、残りの9周で再びヒルを猛追して首位奪回を試みることとなった。シューマッハの陣営はタイヤが最後まで保たないと判断し、タイヤを新しいものに替えてハイペースで追い上げるという賭けに出たのだ。
 ピットを後にしたシューマッハは、路面を確実にグリップするあたらしいタイヤの恩恵を受けて、首位を走るもののタイヤが限界に近いヒルに対して3秒も速い驚異的なペースで最後の追い上げを開始した。タイヤを相当酷使しもうほとんど路面を捉えてくれなくなったヒルのマシンは、コーナーの立ち上がりで激しくスライドしながら苦しい走行を強いられていた。そのヒルに恐ろしいほどの速さで、シューマッハが刻一刻と迫っていく。2人のタイム差は見る見るうちに縮まり、ファイナルラップに突入した時点で見かけ上の差はわずか2.5秒にまで縮まってしまった。ヒルは苦しみながらもその猛追を振り切って、真っ先にチェッカーフラッグが振られるフィニッシュラインに飛び込んだ。その直後にシューマッハのマシンも遅れてゴールする。2人の勝敗の行方は、見かけ上のタイム差と第1ヒートのタイムを合計した結果で判断されるため、その判定待ちとなった。
 
 両者の差は、3.365秒と掲示された。ヒルが辛くも、シューマッハの追い上げを振り切り、雨のレースを制したのだ。この結果ランキング首位のシューマッハと2位ヒルとのポイント差は再び1ポイント差となり、タイトル決定は来週の最終戦オーストラリアグランプリへと持ち越されることになった。ヒルはこの日本グランプリでシューマッハのプレッシャーに最後まで耐え切り、自らの力でタイトル争いに踏みとどまった。ヒルは表彰台の中央で、2位シューマッハと3位に入ったフェラーリのジャン・アレジを従え、力強く腕を突き上げて見せた。彼にとって最後の最後まで力を振り絞って掴み取った、充実感に溢れた勝利だった。シューマッハが依然として首位を守っているが、その差はわずか1点、ヒルにも逆転のチャンスは十分に残されている。果たして1週間後の最終戦で、勝利の女神が微笑むのはどちらか。
 
「……レースが進むにつれて、もしかしたら勝てるかもしれないという思いに駆られたけど、すぐにそれを打ち消して、もっと冷静になれと自分に言い聞かせたよ。ミハエルを打ち負かすのが自分の使命なんだ。彼は今シーズン常にずば抜けた強さを見せていたからね。でも僕が今日セーフティーカーや赤旗中断、それにピットストップの回数が1回少なかったことで助けられたと思われるのは心外だ。今日はとてもエキサイティングなレースだった。」ヒルは表彰式の後の記者会見の席上で、シューマッハとアレジの間に座り、勝利者インタビューに答えた。
「レース前に、日本でとても人気のあったアイルトンの追悼セレモニーが行われたよね。チームの中でもアイルトンの思い出は全く薄れていないんだ。今日の勝利を、アイルトンと彼の家族と、ここに来てくれたみんなに捧げたい。」ヒルはセナに哀悼の意を示して締めくくった。
「……もちろん、ここでタイトルを決めることができたら素晴らしかったと思う。でも今日はうまくいかなかったよ。」ヒルの横に座るシューマッハも口を開いた。
「今日のようなコンディションの中では、最後まで走り切ることが最も重要だった。この週末はずっと自信があったから、普通の状況だったら勝てていたと思う。でもコンディションが異常なものだったから、赤旗によるレース中断は妥当だったと思うよ。僕たちが採ったピット戦略にはそれなりの理由があった。でも大きなリスクを背負うことになり、結果的に失敗だったということだね。今日勝てなかったのは色々な意味で残念だよ。選手権は別としても、このレースはフォードにとっては400回目のグランプリだったからね。」シューマッハはそう言って、最後に穏やかな笑顔を見せた。
 
 
(つづく)


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