CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5
※この物語はフィクションです。


 
F1世界選手権は、スペイン・へレスで行われた第14戦ヨーロッパグランプリ終了時点で、ランキング首位のミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)と2位デーモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)が5ポイント差で迫っており、第15戦日本グランプリと最終戦オーストラリアグランプリでタイトルを決することになる。しかし、このシューマッハとヒルの5ポイントという差には、数字には見えない歴然とした差があった。
 ヒルは今年のF1で14戦全戦に出場しているのに対し、シューマッハは2戦の出場停止と2度の失格を余儀なくされた。これらの処分はF1のルールに基づいたものだから自業自得ではあるが、シューマッハは、ヒルより4戦少ない10戦分の結果で、ヒルに5ポイントのリードを保っているということになる。しかもシューマッハのいなかった4戦は全てヒルが制している。それでも未だシューマッハに5ポイント及ばないということは、すなわちシューマッハとヒルの、そしてウィリアムズとベネトンの実力の差が大きく開いていることを意味する。
 
 ヒルの乗るウィリアムズ・ルノーというパッケージは、一昨年はマンセルの初タイトル、昨年はプロストの4度目のタイトルを実現し、昨年までは間違いなく最強のパッケージだった。しかし今シーズンからレギュレーションが大幅に変更になったため、ウィリアムズの最大のアドバンテージだったアクティヴ・サスペンションが禁止され、頼みの綱はルノーのエンジンパワーだけとなってしまった。一方のシューマッハが乗るベネトン・フォードは、エンジンパワーこそルノーエンジンに劣るものの、その優れたバランスと耐久性によって軽快なフットワークを実現させているのだ。
 ウィリアムズはルノーV10エンジンを搭載し、エンジンパワーと最高級のエアロダイナミクスで高速サーキットでの強さを誇る。しかし一方で、シャシーのバランスが完成されていないため、最高のセッティングを導き出すのが困難で、エンジニアたちが懸命に努力しても、小さなコーナーではどうしてもアンダーステアが出てしまう。それに対しベネトンは、V8エンジンゆえにパワーで劣る分、ウィリアムズとは全く異なったアプローチでマシンを開発し、それによって優れたバランスを持つシャシーを作り上げ、複合コースや低速コースなど、エンジンパワーが決定的な要素にならないサーキットで素晴らしい結果を残してきたのだ。そしてF1シーズンで転戦するサーキットの多くは、ベネトンマシンの得意とするコースであると言うことも付け加えておこう。
 
 シューマッハとヒルを比較すると、両者は全く正反対のタイプのドライバーであるといっても過言ではないだろう。華やかなシューマッハと地味なヒル、強気なシューマッハと弱腰のヒル。今シーズン、明らかにシューマッハはヒルを見下しており(後に彼はヒルを見下したことに対し謝罪している)、またヒルはシューマッハの強さに脅威を抱いているのだ。まるでシューマッハの挑発にヒルが屈しているかのように。そしてこの性格の違いが、レースの上でも少なからず影響を及ぼしているのは間違いない。
 シューマッハとヒルの実力を比較した場合、卓越したドライビング感覚と天才の感性を併せ持つシューマッハにアドバンテージがあるのは間違いない。一方のヒルは、慎重で計算されたレース運びをするタイプのドライバーだ。それゆえシューマッハの驚くべきドライビングとベネトンの奇想天外な戦略を目にしたとき、ヒルのレース前からなされていた計算は、もろく崩れ去ってしまうのだ。事実、2戦の出場停止処分から復帰した前戦のヨーロッパで、ベネトンは3ピット作戦で1回のピット作業でのロスを最小限に抑えると共に、軽いタンクでラップタイムを稼いでヒルとウィリアムズに圧勝してしまったのだ。マシンとコースレイアウトの相性を見極めた上でベネトンが採った、実にクレバーなレース運びだったと言えるだろう。これによってヒルは、シューマッハのいない2戦で連勝し、ようやく1ポイント差にまで詰め寄ったと思いきや、再び5ポイント差に離されてしまったのだった。
 残る2戦、日本グランプリの鈴鹿サーキットとオーストラリアのアデレードサーキットは、どちらもルノーV10エンジンのパワーが有利に働くサーキットだと言われているが、果たしてデーモン・ヒルに、奇跡の逆転は起こるのだろうか────。
 
■シューマッハとヒル 今シーズンの成績(第14戦終了時点)
 Driver
TOTAL
 M・シューマッハ 10 10 10 10 6 10 10 D R 10 D A A 10
86
 D・ヒル 6 R 1 R 10 6 6 10 R 6 10 10 10 6
81
※1位=10、2位=6、3位=4、4位=3、5位=2、6位=1、リタイヤ=R、失格=D、欠場=A

 
 

 11月初旬、三重県・鈴鹿サーキット────日本におけるグランプリの開催は1976年の富士スピードウェイが初めてとなるが、現在では日本グランプリといえば鈴鹿サーキットで行うものというイメージが定着している。今年は第2戦パシフィックグランプリとして岡山県のTI英田サーキットでもF1グランプリが初めて開催されたが、鈴鹿での日本グランプリは1987年から開催されており、今回で8回目を迎える。
 鈴鹿サーキットはコース全長5.864kmのロングコース、峠道をそのままサーキットにしてしまったかのような個性的なレイアウトで、唯一の立体交差サーキットとしても知られている。オーバーテイクポイントはホームストレートから突っ込んでいく1コーナーと130Rである。過去にここで多くのドラマが生み出されてきた。
 
 予選初日の金曜日は、快晴・微風と絶好のコンディションとなった。ピットガレージの裏、サーキットの内側に広がるF1関係者とジャーナリストたちで賑わうパドックは、1cmの狂いもなく整然と並べられた各チームのモーターホームたちによって、華やかに彩られていた。モーターホームとは巨大なキャンピングカーのようなもので、超大型のトレーラーが、数分で豪華で快適なオフィスビルに様変わりするのだ。モーターホームは、主にチームとドライバーのミーティングの場になったりカフェテラスとして食事をしたりくつろいだりするために設けられており、その規模は財政が潤っているチームとそうでないチームとで多種多様だ。
 サーキットの頭上に広がる空と同じ、鮮やかなスカイブルーで塗られたベネトンのモーターホームの前では、午前中のフリープラクティスを終えたミハエル・シューマッハが、午後から始まる予選を前にスタッフと打ち合わせをしていた。シューマッハは鈴鹿でもずば抜けた速さを見せ、フリープラクティスでは唯一1分38秒を切るトップタイムをマークしていた。前戦ヨーロッパグランプリからF1に復帰した元ワールドチャンピオン、ナイジェル・マンセルがウィリアムズ・ルノーをもってしても、シューマッハのタイムを打ち破る事は叶わず0.6秒もの大差を付けられて2位に甘んじている。
 
「ミハエル、今回も初日から絶好調だね。」運良くモーターホームに入ろうとするシューマッハを捕まえたジャーナリストは、ありきたりの言葉でインタビューを始めた。自身初タイトルを目前にした25歳のドイツ人は、その面長で精悍な顔立ちに満面の笑みを浮かべて、快くインタビューに応じる姿勢を見せた。自分がもっとも強いドライバーであることを自負しているような、自信に満ちた表情だった。
「ああ、コースインして1周目からすでにマシンはほとんど完璧に近い状態だったよ。だからセッティングを進める時間もほんの少しで済んだんだ。」彼は軽快に答えた。
「初めてのワールドタイトル獲得がかかった大事な一戦だけど、プレッシャーはない?」
「確かに僕たちは今、大きなプレッシャーを抱えているよ。でも今日はいいスタートを切ることができた。だから予選も決勝もうまく行くと思うよ。プレッシャーは、誰か別の人のところに行ってしまったんじゃないかな?」彼は冗談っぽく笑いながらそう答えた。別の人、とは言うまでもなく、現在彼とタイトル争いを繰り広げているデーモン・ヒルのことである。ヒルは午前のフリープラクティスで精彩を欠き、シューマッハに迫るどころか、ナイジェル・マンセルの後方3番手に終わっている。
「ウィリアムズはヒルのサポート役として、前戦ヨーロッパグランプリから元ワールドチャンピオンのナイジェル・マンセルを起用したけど、マンセルの存在は気になる?」ジャーナリストはさらに質問を続けた。
「……ナイジェルは確かに偉大なドライバーだけど、ブランクが長すぎたんじゃない?前回の復帰初レースでもうまくいかなかったようだしね。今年のF1マシンは大きく変わった。ナイジェルが操縦していた頃のマシンとはまったく別のマシンになってしまったんだ。彼が現在のマシンに慣れるには、まだ時間がかかるはずだよ。」
 ウィリアムズ陣営は、セナの後任としてイギリス人のルーキー、デビッド・クルサードを起用していたが、タイトル獲得のかかったヒルのサポート役として、アメリカのインディシリーズからナイジェル・マンセルを呼び戻し、前戦ヨーロッパグランプリからクルサードと交代させた。マンセルのF1復帰は、タイトルを獲得した92年の最終戦以来約2年振りとあって話題を呼んだが、決勝ではスタートで不用意なホイールスピンをしでかし、さらには他者と接触してしまい、最後はスピンアウトによるリタイヤに終わって期待外れな結果に終わった。
「でも、今回の鈴鹿はマンセルが得意とするコースだよね。彼自身、今回はいい結果を出せると自信満々だったからね。午前中のセッションを見ても、今回のマンセルは前回より相当手強くなっていると思うけど。」ジャーナリストは言った。
「……それはそれでいいんじゃない?」シューマッハは、余裕綽々といった表情で答えた。
「ナイジェルが強さを取り戻したとしても、むしろそれが僕に有利に働くと思うよ。」シューマッハはそう言って軽く手を挙げると、そそくさとモーターホームの中に入ってしまった。まだもっと大事なことも聞きたかったジャーナリストだったが、意中の人物を取り逃がし、悔しそうに口を結んだ。そしてシューマッハが最後に言い残した言葉を反芻し、苦笑した。
(……ミハエル・シューマッハか……こいつは大物になるな……。)
 
 ナイジェル・マンセルは今年39歳になるイギリス人ドライバーで、80年代半ばからセナやプロスト、それにネルソン・ピケらと一時代を築き上げ、92年にはウィリアムズで圧倒的な強さでタイトルを獲得したベテランだ。しかしそのシーズン途中に、翌年の契約交渉であまりに高い年俸を吹っかけたため、タイトルを持ったままアメリカ行きを余儀なくされ、昨年はCARTに参戦していた。そのため今回のF1復帰では、このチャンスをものにして、再びF1のレギュラーシートを得ようと息巻いているため、彼にヒルのサポートを期待するのは無理というものだ。それどころか、マンセルはヒルに対して激しいライバル意識すら持っているのだ。シューマッハが言い残した言葉もあながち理解できなくもない。
 

 午後1時ちょうど、鈴鹿サーキットのピットレーン端にあるシグナルがレッドからグリーンに変わり、日本グランプリ予選セッションの始まりを告げた。天気は午前のフリーセッションと変わらず快晴、気温とともに路面温度も上昇し、タイムアタックにはもってこいのコンディションとなった。満員の観客席からは歓声とエアホーンの音が鳴り響き、観客たちの興奮が轟音となってサーキットを覆い尽くした。彼らの興味は言うまでもなくミハエル・シューマッハとデーモン・ヒルのタイムアタックだ。予選は今日と明日の2回行われ、そのどちらか速い方のタイム順で決勝でのスターティンググリッドが決定する。制限時間は1時間、その間に各マシンはアウトラップ、アタックラップ、インラップの4セットのアタックをこなし、グリッドの一番先頭、最も1コーナーに近いポールポジションを目指し、限界走行を披露するのだ。決勝レースと違い、予選は純粋な最速タイムを競うセッション、見る側としても、レースとはまた違う醍醐味がある。
 セッション序盤に下位チームのマシンたちが果敢にアタックを繰り返し、コース上のレコードラインの塵やホコリを除去する間に最良のセッティングを編み出したミハエル・シューマッハが、いよいよマシンに乗り込み、ピットレーンからゆっくりとコースに出始めた。それを見た観客たちは一斉に立ち上がり、観客席の至る所からフラッシュがたかれる。
 
 シューマッハの鮮やかなスカイブルーとグリーンのマシンは、アウトラップで時折蛇行運転をして十分にタイヤとブレーキを暖めると、最終シケインを抜けホームストレートに向けて、一気に加速していった。アタックラップに入り、およそ信じられないようなスピードを維持したまま第1コーナーへと進入し、すぐ先の第2コーナーでシフトダウンして滑らかに右へ切り込んでいく。その後2連のS字カーブとその先の逆バンクまでは細かいシフトチェンジとアクセルコントロールでキビキビと走り抜け、Rの異なるデグナーの複合カーブへと差し掛かる。手前の左コーナーを4速で抜けたあとすかさずブレーキ、2速に落として右に切り込み、縁石に深く乗り上げながら通過していく。
 高架をくぐった後のヘアピンでは、フルブレーキングによってスリップ音とともに白いタイヤスモークが上がる。マシンは鋭いRでクリッピングポイントを奥に取り、立ち上がり重視のラインでヘアピンを抜ける。スプーンカーブへと差し掛かると、マシンは4速にシフトダウンしてアウト側から左に舵を取り、イン側の縁石を抜けてアウト側に膨らむとさらに3速にギアを落とした。さらに奥のコーナーでは2速に落とし、この後に鈴鹿で最も長いストレートが続くため、クリッピングポイントを奥に取ってスピードを乗せていく。
 その後、長いバックストレートとその後の鈴鹿名物130Rを、300km/h近いスピードで一気に駆け抜けていくのだが、超高速コーナーである130Rをアクセル全開で抜けられるかどうかでその後のタイムに大きく影響を及ぼす。しかしシューマッハのベネトンはグリップ重視のセッティングが施されているらしく、イン側の縁石をなぞるように、悠々と6速全開で抜けていった。130Rを抜けると、マシンはアウト側に寄り、最終シケインの侵入に備える。早めにブレーキングを開始し、イン側に鋭く切り込みながら1速にシフトダウンして侵入し、右、左と素早くステアリングを切り、左側の縁石に乗り上げながら、マシンはホームストレートの先、コントロールラインに向かって加速していった。
 メインスタンドの観客たちは全員総立ちになってシューマッハのマシンを追った。首を振る間にマシンはコントロールラインを通過する。シューマッハがピットガレージに戻るためのインラップに入ってすぐに、場内放送が彼の叩き出したラップタイムを通知した。タイムは1分37秒209、昨年アラン・プロストがウィリアムズ・ルノーで記録したタイムを、1秒以上も上回る好タイムだった。観客たちはその驚異的なタイムに狂ったように歓声を挙げた。
 
 デーモン・ヒルは、ウィリアムズのピットガレージでマシンに乗り込んだまま、ヘルメット越しにマシン頭上から降ろされたモニターを厳しい目で見つめ、シューマッハの叩き出したタイムに愕然として首を横に振った。一発目からこれほどのタイムを出されてはたまらない。
(……やれやれ……ウンザリするほど速いな……)ヒルは思った。午前中から延々と試行錯誤を繰り返しながらセッティングを煮詰めてはみたものの、このセッティングではたしてシューマッハのタイムに太刀打ちできるのだろうか……。かといって残された時間はあとわずかだ、これ以上セッティングばかりに時間を費やしているわけにもいかない、このセッティングでやれるところまでやってみるしかない。ヒルは決心して両手にレーシンググローブをはめると、メカニックに頭上のモニターをどけるよう頼んだ。
 ヒルの乗った濃紺の艶やかなマシンは、ゆっくりとピットガレージから顔を出した。そのままピットレーンでの速度制限に従って出口まで進むと、マシンは解き放たれたように一気に加速を開始していった。すでに同じマシンに乗るナイジェル・マンセルが1回目のタイムアタックを終えていた。マンセルはスローカーに阻まれ、ザウバー・メルセデスのフレンツェンの後塵を拝して暫定3番手。ヒルとしては最低でもフレンツェンの前につけたいところだ。
 観客たちが固唾を飲んで見守る中、ヒルはアタックラップに入った。幸いスローカーは1台もなく、完全なクリアラップではあったが、3区間に区切られたセクションのうち、早くも第1セクションでシューマッハのタイムに対して後れをとる。その後第2セクションでその差はさらに広がり、結局ヒルは、かろうじて暫定2番手につけるものの、シューマッハにコンマ5秒も遅れてしまった。
 
 その後のセッションでも、誰一人としてシューマッハのタイムを破るものは現れず、結局予選初日は暫定順位に変動がないまま終了した。予選初日はトップのシューマッハから8番手のハッキネンまでコンマ8秒以内にひしめくという珍しい大混戦となったが、シューマッハと2番手のヒルとの差がコンマ5秒なのに対し、ヒルと8番手のハッキネンとの差がコンマ3秒しかないことを見ても、混戦とはいえいかにシューマッハが速いかがわかる。一般的に考えるコンマ5秒差はほんの一瞬であるが、1/1000秒を争うF1の世界におけるコンマ5秒差はかなりの大差であると言える。
 ヒルのシューマッハへの挑戦は、明日の最終予選に持ち越されることとなった。まだチャンスはある、何とか午前中のフリーセッションでもっといいセッティングを見いださなくては。ただ、気がかりだったのはマンセルのアタックだ。彼はスローカーに阻まれてタイムをロスしたが、それがなければ限りなくシューマッハに近いタイムを叩き出していただろう。もしマンセルが予選で自分の前に出たら、レースではシューマッハ以上にやっかいな存在になるだろうとヒルは思った。マンセルに自分のサポートをする意志などないことは、ヒルにはわかっていた。シューマッハはタイトルがかかっているだけに堅実なレース運びをするだろうが、マンセルにとっては失うものは何もない。しかもこの鈴鹿はマンセルにとっては得意のコースだ。シューマッハだけでなく、マンセルとも戦わなくてはならなくなるような事態だけは何としても避けたい。明日の最終予選では是が非でもマンセルに勝たなくてはならない。



 マツダイラの神宮庄之助とテストドライバーのミハエル・カッズ・クーンは、揃ってパドック入りしていた。再来年からマツダイラのライバルとなる各チームの偵察とドライバーとの交渉が目的だったが、カッズ・クーンにF1の世界を学ばせることも兼ねていた。カッズ・クーンは今シーズン全日本F3選手権にフル参戦し、先月この鈴鹿で最終戦を終えたばかりだったが、国内レースであるF3と世界最高峰のF1、同じサーキットで開催されるレースイベントの圧倒的な規模の違いを、肌で感じていた。もちろん彼自身も子供の頃、地元ドイツで行われたF1グランプリを観戦したことは何度もあるので、F1グランプリの雰囲気はよく知っている。だが観客としてではなく、レーサーとして改めてF1のパドックに入ると、その全てにおいて高水準の世界観に、思わず興奮して身震いすら覚えた。マシンの力強さやスピード差もさることながら、それらをバックアップする各チームの態勢、それにパドックをひしめくマスコミやジャーナリスト、観客の数に至るまで、今まで彼が体験してきたF3とはまったく異なるものだったのだ。
 
「カッズ、お前確か20歳だったよな。」おもむろに神宮は、カッズ・クーンに尋ねた。
「……いえ、先月21になりました。」カッズは答えた。
「……そうか、じゃあ彼とは4つ違いだな。」神宮はそう言って、初のF1タイトルを目指すミハエル・シューマッハが所属する、ベネトンチームのピットガレージの方に目を向けた。
「お前と同じドイツ人、同じドイツF3チャンピオン、そしてお前と同じ名前を持つ、現代のF1ではおそらく最強の男だろう。彼には他のドライバーにはない天性の才能とドライビングセンス、それに圧倒的なカリスマがある。」神宮は率直にシューマッハを評した。「お前もよく見ておけよ、おそらくドイツ人初のF1チャンピオンになる男の走りをな。」
「もちろん。僕がもっとも尊敬するドライバーですから。」カッズ・クーンは静かに答えた。
 再来年のシーズンからF1グランプリに参戦する純国産チームマツダイラは、この現代最高のF1ドライバー、ミハエル・シューマッハの獲得を、現時点では考えていない。それは社長でありマツダイラF1プロジェクトの仕掛け人である松平健の意志で、彼らはシューマッハというドライバーに、あえて挑戦する立場を選んだのだ。
 ただ、マツダイラF1のレース戦略を担っていくことになる神宮庄之助個人としては、やはりシューマッハというドライバーは非常に魅力的な存在だった。あのアイルトン・セナをも凌駕する才能を持った彼がマツダイラのマシンに乗ったとしたら、どんなに素晴らしいだろうと彼は考えた。だが、例え仮にマツダイラがシューマッハを求めたとしても、その可能性は限りなくゼロに近いと言わざるを得ない。シューマッハの来シーズンは、ベネトン残留とすでに決まっている。さらに彼は元々ドイツ最大のエンジンメーカー、メルセデス・ベンツの秘蔵っ子としてドイツF3を制しており、そのメルセデスは再来年からの名門マクラーレン・チームとのジョイントを発表しているため、マツダイラがデビューする再来年には、彼はマクラーレン・メルセデスに移籍する可能性が濃厚だからだ。つまり、シューマッハはこの先数年のF1ドライバーとしてのキャリアを、すでに保証されているのだ。今回の鈴鹿でその天才ドライバーの走りを改めて体感した神宮は、彼がのちにマツダイラにとって大いなる壁となるであろうことに、驚異を感じずにはいられなかった。
 マツダイラF1プロジェクトの意志として再来年の獲得を目指しているドライバーは、現在シューマッハとタイトル争いを演じている、デーモン・ヒルだった。神宮はヒルと今年のモナコグランプリの際に接触しているが、その時はアポイントメントすら取れておらず、それまで彼のチームメイトだったセナが事故死した直後のグランプリだったこともあり、ほとんど交渉する余地がなかった。だから今回は何とか事前にアポが取りたかった。できるだけゆっくりと話ができる場を作りたい。神宮は思い立って、モーターホームで彼を待つことにした。
「オレはウィリアムズのモーターホームに行ってくる。ホテルで落ち合おう。」カッズ・クーンにそう告げると、神宮はその場を後にした。
 
 神宮と別れたカッズ・クーンは、ピットロードを見下ろす階段に登り、11月の肌寒い風を感じながら、ピットウォールの先にあるホームストレートから1コーナーにかけてをゆっくりと見渡した。時折目の前を通過するマシンは、F3とはまったく違う、異次元的な速さで瞬く間に1コーナーへと消えていった。それを眺めながら彼はふと、苦い経験を思い出した。
 カッズ・クーンは今シーズン、マツダイラのテストドライバーを努める傍ら全日本F3選手権に参戦していたが、いい結果を残すことができず、極めて不本意な成績に終わった。
 だが彼には、全日本F3で優勝するチャンスが、たった一度だけあった。それは忘れもしない、この鈴鹿で先月行われた最終戦だった。しかしその唯一の優勝のチャンスは、あの1コーナーでいともあっけなく消え失せてしまったのだった。


 

 1ヶ月前、全日本F3選手権最終戦・鈴鹿───同じF3選手権でも、ヨーロッパで行われているイギリス、ドイツ、フランスのシリーズは、F1にステップアップすることが可能なレベルの高いシリーズであるが、全日本F3に限っては、さらにその上に全日本F3000(のちのフォーミュラ・ニッポン)というカテゴリーが国内最高峰として存在するため、厳密に言えばドイツF3を制したカッズ・クーンが全日本F3に出場するのは、キャリア・ダウンと言うことになる。だがそれは、マツダイラがF1テストドライバー契約の条件として全日本F3への参戦を提示してきたためであり、彼としてはマツダイラでF1マシンの開発に携わることで、F1デビューへの足架かりにしようと考えた上での決断だったに過ぎない。
 しかし、カテゴリーとしての国際的レベルは格下であるにせよ、全日本F3も他のF3シリーズ同様、FIA(国際自動車連盟)が定めたレギュレーションによる規制が厳しく、大幅なマシンポテンシャルの差がほとんど無いため、全てのドライバーにとってイーブンな状態であることには変わりない。
 F3選手権で使用されるマシンは、基本的な形状はF1同様オープンホイールのフォーミュラカーで、前後のウイングによってダウンフォースを得て走るが、マシンの両側に長さ3m、直径24mmのエアリストリクターと呼ばれる吸気制限装置が装着されているのが特徴だ。これによってパワーが170〜180馬力と、実に市販車並みに制限されているのだ。
 F3では毎年多少のレギュレーション変更はあるものの、排気量は2000ccまでという規制は74年からまったく変更されておらず、この普遍性こそが、F3を発展させてきた最大の理由といっても過言ではない。シャシーは全車イタリアのダラーラ社製、タイヤもブリヂストンタイヤのワンメイクで、各チームが選択できるのは、トヨタ、無限ホンダ、三菱、それにスピースオペルなどのエンジンのみ。つまりF3は、限りなくイーブンな環境の中で、純粋にドライバーの力量のみで凌ぎを削る、とても過酷なカテゴリーなのである。
 
 F1でリードするミハエル・シューマッハと同じ、ドイツF3王者という肩書きを持って全日本F3に参戦したカッズ・クーンは、シーズン開幕前、大いに注目されていた。しかし実際に開幕してみると、カッズ・クーンにとって苦渋に満ちたシーズンが待ち受けていた。
 少なくとも自分自身のミスは何一つなかったと、彼は自負している。しかし度重なるマシントラブルに泣かされて、9戦中4戦ものリタイヤを余儀なくされ、最終戦を残すだけとなった時点で最高位は4位と、ここまで十分な結果を残すことができなかったのだ。現役維持という名目の全日本F3での思わぬ苦戦、それは、F1に必須であるスーパーライセンスの取得資格を持つ彼にとって、非常に屈辱的なことだった。
 だが、最終戦の鈴鹿で、彼にようやく一筋の光が見えた。カッズ・クーンの所属するエンジンチューナーが、エンジンの一番のトルクバンドを加速重視の中低速域から最高速重視の高速域に変更したのが的中し、予選で2番手という絶好のポジションを獲得したのだ。さらにその後ろ3番グリッドには、カッズ・クーンのチームメイトである、松平慶喜が続いた。
 チームは、予選2・3番手と2台揃って好位置を得た2人のドライバーを称えた。チームとしてもこの予選順位は今季最高位で、メカニックたちも今シーズンの長い低迷から最後の最後に脱したことで、その努力が実を結んだのだ。ピットガレージではクルーたちが、お互いの労をねぎらうために、ささやかな祝杯を用意した。カッズ・クーンも紙コップに入ったビールを受け取ると、乾杯の音頭と共に皆と合わせてそれを頭上に挙げた。
 
 ガレージの片隅では、予選のもう一人の功労者である松平慶喜が、独り壁により掛かってビールに口を付けていた。カッズ・クーンが彼を見つめていると、おもむろに目が合ってしまった。カッズが声をかけようとすると、慶喜はフッと視線を逸らし、そのままガレージの裏へと立ち去ってしまった。
 慶喜は全日本カート選手権でタイトルを獲得し、今年初めて全日本F3にデビューした新人で、年齢もカッズ・クーンと同じだ。だが今シーズンは特に目立った成績は残しておらず、予選の多くは後方からのスタートで、頭に血が上りやすい性格が災いして決勝でもミスが多く、ドライバーとしてはまだまだ未熟だった。それゆえチーム内でもカッズ・クーンを優待する節があり、慶喜は完全なセカンドドライバーとして扱われていた。F1と比べてそれほどチームプレイが重要視されず、基本的に個人技としてのレースが確立されているF3の世界では、珍しいことだった。しかも彼は、ドライバーとしての実力を評価されてこのチームのシートを得たのではなく、チームがドイツF3王者であるカッズ・クーンをマツダイラからレンタルするための、いわば交換条件としてシートを得たのだという噂まで挙がっていた。そう、松平慶喜は、カッズ・クーンがF1のテストドライバーを努める、マツダイラの御曹司なのだ。
 カッズ・クーンは4月の開幕前から彼とチームを共にしているが、実はこの7ヶ月間、ほとんど彼と話をしたことがなかった。彼はことあるごとにナイフのように鋭い視線をカッズ・クーンに向け、まるでカッズ・クーンと会話をすることを拒んでいるかのように思えた。他のスタッフともレースやセッティングのことに関する必要最低限の会話しかしようとせず、普段から寡黙で近寄りがたい存在だったのだ。さらに彼はカッズ・クーンが気に入らないと漏らしていたらしく、カッズ・クーンと慶喜の不仲説は暗黙の事実として周囲に知れ渡っていた。
 
 
 翌日、全日本F3選手権最終戦はいよいよ決勝の時を迎えた。スターティンググリッド上には、ポールシッターのウォレン・ヒューズを先頭に、フォーメーションラップを終えた26台のマシンたちが続々と整列し始めた。
 3番手スタートの慶喜は、自分のグリッドにマシンを停車させると、そのまま全車が揃い、前方頭上に設置されたシグナルが変わる瞬間を、じっと待ち続けた。自分の目の前にはウォレン・ヒューズのマシン、そして右斜め前方には、彼のチームメイトであるカッズ・クーンのマシンが待機しており、その後ろ姿がエンジンの熱による陽炎で、ゆらゆらと揺らめいていた。
 これは大きなチャンスだ、と、慶喜は思った。予選ではヒューズのマシンに先行されたが、今回のエンジンモディファイは間違いなくうちの方が有利だ。決勝ではヒューズよりも速いペースで走ることができるだろう。そして自分と同じマシンに乗るカッズ・クーンは、グリップの弱い偶数グリッド(レコードラインではない位置)からのスタートだ。出足さえミスしなければ、1コーナーまでに前に出ることができるだろう。慶喜はこのレースで、優勝を狙っていた。もちろん全てのドライバーが優勝を目指してレースをしているわけだが、慶喜の優勝への執着は、他のドライバーとは少し異なるものだった。彼はカッズ・クーンに対して、並々ならぬ対抗意識を燃やしていたのだった。
「……ドイツF3の王者だか何だか知らねえが、この勝利はオレがもらった。それでオレの実力は証明され、来季のお前とオレの待遇は逆転するだろう。所詮レースは勝つことが全てなんだ、2位以下はレースに負けたのと同じだ。オレがお前を、打ち負かしてやる!」慶喜はヘルメットの奥でカッズ・クーンのマシンを睨みながら、そう呟いていた。
 
 横に5つ並ぶ赤いシグナルが灯り始めた。低いうなり声を挙げていたマシンたちはみな一斉に、獲物を狙うオオカミのように威嚇し始めた。赤い光が右へ流れ、すべてのシグナルが点灯する。オオカミたちはすでにいつでも飛びかかる体制を整えている。そして一寸の間の後、すべてのシグナルが静かに消えた。その瞬間、エグゾーストノートが響き渡り、視界は瞬く間に放射状に流れ始めた。カッズ・クーンのマシンは、偶数グリッドのグリップ不足をものともせず、絶妙なスタートを見せた。そのままマシンはヒューズの背後にピタリと付け、慶喜の前に立ちはだかった。
「くっそッ!何でそんな加速ができるんだよ!ムカつくぜコイツ!」慶喜は思わず叫んだ。そのままヒューズ、カッズ、慶喜の3台は数珠繋ぎで並んだまま1コーナーに進入していく。前方のカッズ・クーンはトップのヒューズを捉え、すぐ先の2コーナーでインに飛び込もうとしていた。慶喜もカッズ・クーンと同じラインで続くが、アウト側のヒューズが若干前にノーズを出し、カッズ・クーンに被せるようにインに切り込んできた。カッズ・クーンはこのままインに飛び込むのは無理だと瞬時に判断し、即座にブレーキペダルを蹴りつけた。そこに、接近しすぎていた慶喜のマシンがもろに追突した。
 カッズ・クーンのリアウイングと慶喜のフロントウイングがはじけ飛び、カッズ・クーンのマシンは大きく宙に舞い上がった。その後2台は細かい破片を撒き散らしながら、そのままもつれるようにしてコースを外れ、その先のサンドバリアまでなだれ込んでいった。大きく砂煙が上がり、観客席からは大歓声が挙がった。やがて砂煙が収まると、サンドバリア上で激しく大破した2台のマシンが姿を現した。
 コース脇に待機していたマーシャルたちが慌てて2台に駆け寄る。追突した慶喜はシートベルトを外して脱着式のステアリングを放り投げると、淡々とモノコックから立ち上がり、軽くカッズ・クーンのマシンを一瞥し、その場から立ち去ってしまった。一方カッズ・クーンは、自力でモノコックからは脱出したものの、ゆっくりとマシンをまたぎ、右手を首の後ろに当てる仕草を見せた。マーシャルの一人が彼に駆け寄って声をかけるが、彼は反対の手で大丈夫だと合図しながらマシンから離れる。サンドバリアを少し歩いたところで、彼は何が起こったのかを知ろうと改めて後ろを振り返った。そこにはそれぞれ前部と後部を無惨にも半壊した、同じカラーリングの2台のマシンが横たわっていた。それを見て追突したのが慶喜だとわかったカッズは、思わず大きく溜息をついた。まさかチームメイトに追突されるとは、夢にも思っていなかったからだ。カッズ・クーンは首に違和感を感じながら、再び歩き出した。すでに慶喜の姿は、どこにも見あたらなかった。こうしてカッズ・クーンの初勝利は、スタート後わずか十数秒で、砂煙の中に消えていったのだった。

 

「お疲れ、ミスターヒル。覚えているかな?」ウィリアムズのモーターホームでデーモン・ヒルを待ち続けていた神宮は、予選を終えて戻ってきたヒルに声をかけた。ヒルは神宮の顔を見て、一瞬記憶を探り、彼を思いだした。
「ああ、あんたか、もちろん覚えているとも。ミスター……ミスターバンブー」
「……ジングーだよ。」神宮は苦笑しながら訂正した。
「ミスタージングー、わかってるよ。そう言ったつもりだったのだがね。」ヒルはごまかすようにわざとらしい笑顔を見せた。
「予選では一歩及ばなかったね。低速区間でのセッティングがまとまっていないように感じたけど……」神宮は予選でのヒルの走りについて率直な意見を述べた。
「ああ、見た通りだよ。高速区間ではベネトンよりも速いんだけど、S字からヘアピンにかけてはベネトンに差を付けられているようだ。ミハエルの走りは実に素晴らしいね。」ヒルは素直にライバルの走りを賞賛した。「僕たちは、明日の予選に向けてさらにハードに働く必要があるよ。今以上にタイムを縮めるのは正直難しいけど、まだ改良の余地はある。」
「マンセルはさすがに得意のコースだけあって、かなりいい走りだったね。少なくとも彼のサポートは期待できるんじゃないか?」神宮の言葉に、ヒルは苦笑した。
「さあ、それはどうかな?彼は元チャンピオンだからね、そう簡単に道を譲ってくれるとはとても思えないよ。」ヒルははぐらかすことなく、神宮に本音を漏らした。「……それに、僕自身マンセルのサポートを受けるつもりはない。モナコグランプリから、僕はウィリアムズのエースドライバーになったんだ、だからワールドタイトルも自分の力で手に入れる。プレッシャーは特に感じていないよ。やれるだけやるだけだ。」
 デーモン・ヒルは昨年ウィリアムズに移籍し、昨年はアラン・プロスト、そして今シーズンはアイルトン・セナと、偉大なるチャンピオンのチームメイトとして、2位のポジションしか要求されない簡単な役割を担っていた。しかし5月1日のサンマリノグランプリ以来、ヒルとチームの立場は、大きな変化を迎えることとなった。ヒルはモナコグランプリ以降、突然ナンバーワンドライバーの立場に立たされのだ。そしてナンバーワンドライバーには、エンジンを供給するルノー、オイルを供給するエルフ、そしてメインスポンサーであるロスマンズといった大企業から勝利が求められ、セナの後継を努めることが要求されたのである。外部から、あるいは自分の中からのプレッシャーを管理することを、ヒルは学んだ。
 そしてチームがビタミン剤として、初めてナイジェル・マンセルを実戦に投入したフランスグランプリで、チームが自分に何を求めているのかを、ヒルは完璧に理解した。彼はその大きなプレッシャーに耐え、自分がマンセルよりも速いことを証明して見せたのだ。したがって残り2戦を前にしても、ヒルの心は極めて平穏だった。マンセルが自分のライバルにはならないこと、そして自分が彼にまったく引けを取らないことを、ヒルはわかっているのだ。
 
「明日の最終予選を期待しているよ。」神宮はそうヒルに告げた。
「ああ、是非とも明日はポールポジションを獲得したいものだね。」ヒルは笑顔で答えた。それを見た神宮は、やはりこの大事な時期に余計な用件を持ち出すのは適切ではないと考え、今回もマツダイラとの契約交渉は、見送ろうと考えた。モナコに続いて今回もヒルと具体的な契約交渉ができなかったとあっては、社長の松平に何と言えばいいのか正直悩むが、それはそれで仕方のないことだ、と神宮は自分に言い聞かせた。
「じゃあ、邪魔したね。」そう言って神宮はその場を立ち去ろうとした。
「話はそれだけなのかい?」ヒルは意外そうな顔つきで神宮を引き留めた。「てっきりモナコでの話の続きをするのかと思っていたのだが……」
「……いや、いいんだ。今はタイトル争いに専念してくれ。また顔を出すから。」神宮は頭を掻きながらそう言った。ヒルはその神宮の心遣いを、すぐに理解した。
「わかった。ありがとうミスター……ミスタージングー。」ヒルは神宮に歩み寄ると、彼と固い握手を交わした。ちょうどそこへジョージー夫人が顔を出し、神宮に声を掛けた。
「あら、ごきげんようミスターバンブー。」
 
 
 F1グランプリ第15戦日本グランプリは、明日の最終予選でスターティンググリッドが決定し、明後日の決勝を迎える。残り2戦でミハエル・シューマッハとデーモン・ヒルとの差は5ポイント、シューマッハが今回優勝した場合、ヒルは2位に入らない限り、最終戦オーストラリアグランプリを待たずしてシューマッハのタイトルは確定する。しかし仮にそうならなかったとしてもその差は9ポイントにまで広がり、ヒルが最終戦で優勝してもシューマッハが6位1ポイントだけ獲得すればタイトルが決まってしまうという、シューマッハにとって圧倒的に有利な状況になってしまう。ヒルが逆転でタイトルを獲得するには、今回のレースで優勝することが絶対条件だ。依然として死角のない圧倒的な強さを堅持しているシューマッハと、彼に勝つための出口を未だに見いだせないでもがいているヒル、近年まれにみる壮絶なタイトル争いはこの後、意外な展開を見せることとなった────。
 
 
(つづく)


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