CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5
※この物語はフィクションです。


 
FIA(世界自動車連盟)が主催するF1世界選手権シリーズは、各グランプリの決勝での順位に応じて、上位6位までにポイントが与えられ、1シーズン全16戦を終えた時点で最もポイントが多かった選手が、その年のF1世界タイトルを手にすることになる。与えられるポイントは1位10ポイント、2位6ポイント、3位4ポイント、4位3ポイント、5位2ポイント、そして6位1ポイントだ。
 さらに各チーム(コンストラクター)は2台態勢で参戦しているため、チーム2人のドライバーの合計ポイントがコンストラクターズポイントとなり、F1グランプリではドライバーズタイトルとともに、コンストラクターズタイトルも争われるのである。つまり、ドライバーズタイトルが個人戦のタイトルであるのに対し、コンストラクターズタイトルは団体戦のタイトルというわけだ。F1グランプリは、シーズンを通じて世界で最も優れたドライバーとコンストラクターを決定する、世界最高峰のモータースポーツ競技なのである。
 
 今年のタイトル争いは、ドイツの新鋭ミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)の圧勝に終わるかと思われたが、意外な形でもつれ込んでいくこととなった。開幕戦ブラジルから第4戦モナコまで4連勝を飾ったシューマッハの独走に待ったをかけたのは、開幕前まで最強と言われたウィリアムズ・ルノーを駆るイギリス人ドライバー、デーモン・ヒルだった。
 昨年プロスト、セナに次いでランキング3位という好成績を収めたヒルだったが、今シーズンは開幕戦ブラジルで2位、第3戦サンマリノで6位入賞を果たすも、第2戦パシフィックと第4戦モナコでリタイヤを喫し、シューマッハに比べて序盤で大きく出遅れていた。
 しかし第5戦スペイングランプリでシーズン初勝利を挙げてシューマッハの連勝を阻止すると、その後は第6戦カナダと第7戦フランスでシューマッハに次ぐ2位、さらに第8戦イギリスでは、ストップ・アンド・ゴー・ペナルティ無視によって失格となったシューマッハを後目に、ヒルが母国でシーズン2勝目を挙げ、徐々にではあるが調子を上げ始めた。
 さらにこのイギリスグランプリでは、ベネトンチームが失格の裁定を無視してシューマッハにレースを続行させたため、何とシューマッハに対し、ベルギーグランプリ後2戦の出場停止という厳しい処分が下された。
 続く第9戦ドイツでは両者ともにリタイヤ、第10戦ハンガリーでは再びシューマッハが優勝しヒルは2位、そして第11戦ベルギーでは、優勝したシューマッハがレース後の車検で失格となり、ヒルが繰り上がり優勝でシーズン3勝目を挙げる。この時点で、実に11戦中7勝を挙げているシューマッハの76ポイントに対し、わずか3勝のヒルは55ポイント、2人のポイント差は21と大きく開いていた。
 次の第12戦イタリアと第13戦ポルトガルでは、イギリスでの裁定によりシューマッハに対して出場停止処分が執行された。シーズン序盤に大差を付けられながらもコツコツとポイントを稼いでシューマッハを追っていたヒルにとって、シューマッハの2戦欠場は大きなチャンスとなった。案の定、ヒルはシューマッハのいない2戦できっちり連勝し、シューマッハとのポイント差をわずか1ポイント差にまで縮めてしまったのだ。
 翌第14戦ヨーロッパでは、シューマッハがレースに復帰してシーズン8勝目を挙げ、ヒルは2位に終わったためにポイント差は5と再び広がった。
 かくしてタイトル争いは、残り2戦を残した現時点で混沌の渦に巻かれ、その注目度は一気に増すこととなった。F1シーズンというものは、最後の最後までタイトルの行方がわからない混戦の方が、F1ファンにとってはよりエキサイティングなものなのだ。しかし、それでも5ポイントのマージンを持つミハエル・シューマッハが、タイトル争いにおいて依然として有利なことに変わりはなかった。残るは日本とオーストラリア、この2戦で、シューマッハとヒルのどちらかが新チャンピオンに輝くこととなる───。

   

 ニューヨーク・マンハッタン島────ビジネス街の一画にあるファー・イースト・リサーチ社ビルの65階に、『モーターワールド』編集部のオフィスがある。『モーターワールド』はファー・イースト・リサーチ社の出版部門が月刊で発行している自動車総合誌で、世界の自動車産業の情勢やニューモデルのインプレッション、その他モータースポーツの情報に至るまで、ありとあらゆる自動車に関するコンテンツを掲載しており、良質で格調高い内容と優れた紙面デザインも相まって、その発行部数は全米でトップクラスを誇る。
 再来年からF1に参戦する日本の自動車メーカー『マツダイラ』の情報を探るため日本に滞在していたマキシ・レッドフォードは、久しぶりにアメリカに帰国して編集部に戻って来た。彼にとって、実に10ヶ月ぶりの本社出勤だった。
 大勢のスタッフたちが動き回る、以前と変わりない慌ただしいオフィスの中で、彼がマツダイラの担当に就く前に所属していた、F1取材班の仲間が誰もいないのを見たマキシは、すぐに彼らが、F1グランプリの取材でポルトガルに渡っているのだとわかった。昨年までは彼自身も常にF1グランプリに同行していたのに、昨年の暮れから単身日本に渡ってマツダイラの取材を続けていたため、今シーズンは一度もグランプリに出向いていなかったのだ。
 グランプリに出向くチャンスは一度だけあった。今年は三重県の鈴鹿で行われる第15戦日本グランプリ以外に、第2戦パシフィックグランプリと称して、岡山県のTI英田サーキットでもグランプリが開催されたのだ。しかしTI英田サーキットは、マキシが取材の拠点としていた静岡〜東京間からは遠く離れていたためスケジュール的に無理があり、敢えなく断念せざるを得なかった。同僚のデスクに置かれたF1関係の資料や写真を目にした彼は、グランプリに行きたいという気持ちが自分の中で沸々と込み上げてくるのを感じた。そして、何としても次の鈴鹿だけは見に行くぞ、と彼は心に決めた。この後再び日本にとんぼ返りしなくてはならないマキシにとって、もはや日本グランプリしか、観戦のチャンスはない。
 
「レッドフォード、この男を知ってるか?」編集長室の奥のデスクに居座っているマキシのボス、『モーターワールド』編集長のサムは、1枚の写真をスッとデスクの手前に差し出した。写真を手にとってまじまじと見つめたマキシは、サムを見て肩をすくめ、下唇をへの字にゆがめて両手を挙げた。
「……マーカス・ミッドフィールド、イギリス人のマシンエンジニアで、以前ウィリアムズのマシン開発に携わっていた男だ。」サムはその恰幅のいい身体を分厚い革張りの背もたれに預けると、眼鏡を外し、目の疲れをほぐそうと目頭を指でつまんだ。
「この男が、何か?」マキシはそう言ってソファーにドッカと腰を下ろす。
「そいつは昨年のシーズン開幕直前にウィリアムズを解雇されたんだが、その際ウィリアムズのマシンに関する極秘データを無断で持ち出して、そのまま行方をくらましちまったんだ。」
「データの持ち逃げですか。解雇されたことに対する腹いせですかね?」
「まあ、そんなところだろう。それで、そいつの身辺を調べてその後の消息を探ったんだが、どうやらそいつは、単身でマニラ経由で日本に渡ったらしい。」サムはデスクの上で両手を組んでそう言った。それを聞いたマキシはサムに顔を上げる。
「まさか、この男がマツダイラに関係していると?」マキシは怪訝な表情で訊ねた。
「どう考えても、データを持ち逃げして、そのままのんきに日本へ観光旅行に行ったとは思えんだろう。しかもわざわざ第三国を経由しているのも不自然だ。」
「なぜマツダイラと繋がっていると?」
「レッドフォード、お前確か『K−6』で見たマツダイラのマシンを、昨年のウィリアムズのマシンに似ていると言っていたな。」
「ええ、確かに似てましたね、ウィリアムズのFW15に。ま、昨年のチャンピオンマシンですから、F1に初参戦するマツダイラが参考にしていても不思議ではないでしょう。」
「ミッドフィールドが日本に渡り、マツダイラに極秘情報を提供した。マツダイラはそれを元に試作マシンを作った。どうだ、すんなり話が繋がるとは思わないか?」サムの言葉に、マキシは目を見合わせた。
「……OKボス、調べてみます。」
 
 ファー・イースト・リサーチ社内の、『モーターワールド』編集部とは別のフロアにあるマルチメディア部門。この部門は主にコンピューターを使って様々な自動車のフォルム、構造、性能などを分析・解析するセクションだ。マキシはここで昨年のウィリアムズのマシンFW15とマツダイラの試作マシンMS−P1を比較分析させていた。様々な電子機器が置かれた薄暗いMacルームの一角で、彼はオペレーターと共にモニターとにらめっこをしていた。モニターの青白い光が、2人の姿を怪しく浮かび上がらせている。
「これが、現在公表されている昨年型ウィリアムズの3面図から作成した立体図、そしてこっちがレッドフォードさんが昨年撮影したポジから作成した、マツダイラの立体図です。」オペレーターはモニターを指さしながらマキシに説明する。
「一方の色を変えて、ワイヤーフレームで表示してみてくれ。」椅子を隣り合わせにして背もたれを前にして座り、その背もたれの上で頬杖をつきながら、マキシは指示を出した。
「スケールを合わせて、2枚を同じ角度で重ねてみろ。」モニター上ではマキシの指示に従って、2枚の色の違うF1マシンのワイヤーフレームが重ね合わされた。
「……驚いた!空力パーツや排気口部分の形状は微妙に違いますが、ボディのフォルムはぴったりと一致しましたね。」オペレーターは目を丸くした。
「……なるほどな。」マキシは目を細めて唸るような声を出した。「速いマシンを真似て設計し、翌シーズンにそれがトレンドになっていくことはよくあることだが、それはフロントウィングやリアウィング、それにサイドディフレクターなどの空力パーツの形状のアイディアに言えることだ。だがボディそのもののフォルムがここまで一致するというのは、ウィリアムズマシンのCADデータでもない限り考えられない。やはりマツダイラは、ウィリアムズの極秘データを、昨年の早い時期に入手していたと言うことか。」
「今でこそこうしてウィリアムズの昨年型マシンの立体図は容易に作成できますが、昨年あなたが撮影した時点で、すでにFW15に似たこのマツダイラの試作機がテスト走行をこなしていたということは、少なくともその数ヶ月前には、試作機の設計図はできあがっていたことになりますね!」
「……いいぞ!マツダイラの思わぬスキャンダルを掴んだ!これが事実なら、れっきとした産業スパイ行為だぞ!日本でこの事実を裏付ける証拠を掴めば、間違いなくF1界に衝撃が走るだろう!」マキシは目を輝かせて椅子から飛び上がり、ガッツポーズをして見せた。
「すぐにこの画像をプリントアウトしてくれ!2部ずつな!」

 

 静岡県・井川山中、マツダイラテストコース『K−6』───マツダイラの多くの資金を投入して建造されたこの広大なサーキットでは、世界各地でF1シーズンが進んでいく中、半年以上に渡ってF1マシンの開発テストが続けられていた。この日も朝早くから井川山中には甲高いエグゾーストノートが響き渡り、山々の静寂を突き破っていた。
 昨年度のドイツF3チャンピオン、そして今シーズンは全日本F3に参戦している若干20歳のドイツ人テストドライバー、ミハエル・カッズクーンのドライブする黄金のマシンは、精力的にコースを周回していた。最初の試作マシンMS−P1に改良が施されたMS−P1改は、当初のテスト時と比べると、見違えるほど挙動が安定していた。今日のテストではすでに周回数は40周を越えているが、ここまで一度も挙動を乱すことなく走り続け、ラップタイムのばらつきもほとんど見られなかった。マツダイラのマシン開発は、今のところ順調に進んでいるように思われた。
 ホームストレート沿いに設置されているオペレーティングブースでは、無線用のヘッドフォンを装着した松平健と神宮庄之助が、揃って腕を組んでモニターを見つめていた。2人の頭上に並んでいる5つのモニターを見比べながら、神宮は満足そうに2〜3度うなずく。
「うん、いい感じだ。カッズもだいぶ攻められるようになったな。」
「そうだね、これなら思い通りにマシンを操ることができるだろう。ドライバーの負担が少ないから、運転にも多少の余裕ができるんじゃないか?」松平も満足げな表情だ。
「……あとは、スピードだな。」神宮はつぶやいた。「挙動の安定性は向上したが、改良前のMSと比べて、トップスピードが全然劣る。これじゃ高速セクションじゃ話にならんぞ。」
「ハイテク装置がなくなってナーバスになった挙動を、空力パーツで補っているんだからな、ダウンフォースを得るために空気抵抗を増やした分、スピードが落ちるのは仕方がない。今のMSじゃこれが限界だろう。」
「そう考えると、改良前のMSはほんとにバランスが優れていたんだなあ。もちろんハイテク装置の恩恵もあるが、あれで昨年のF1に参戦していたら、ハートエンジンでもかなりいいセンまで行ったんじゃないか?」神宮は唸る。その言葉を聞いて、松平は苦笑した。
「新しいF1の車両規定でハイテク装置が禁止にさえならなきゃ、こんなに苦労することもなかったのになあ。改良前の方が挙動も遙かに安定していたからな。」神宮は渋い顔をした。
「どっちみち何かしらの問題は発生していただろうさ。世界最高峰のF1に挑もうってんだ、そうすんなり行きっこないよ。それに、手っ取り早く開発を進めようと思ったら、時には危ない橋を渡らなきゃならんこともある。」松平は意味ありげに笑いながらそう言った。
「危ない橋……?なんだよそれ……」神宮は訝しげな表情で松平を見た。
「ま、そのうちわかるよ。」松平は目をそらしながらそう答えた。
 そのとき、2人のヘッドフォンに唐突にカッズ・クーンからの無線が入った。「ピット、聞こえるか、エンジンブローだ。」カッズ・クーンは淡々とそう告げた。
「ぐはあ〜っ!出たか!」松平は思わず頭を抱えた。モニターは、ターン3に差し掛かる手前でエンジンから白煙を上げ、のろのろとスローダウンしているマシンを映し出した。マシンはそのままグリーンゾーンに乗り上げて停車し、カッズ・クーンはステアリングを外してマシンから降りた。
 レーシング用のエンジンは市販車のエンジンと比べて、走行中常に高回転で回りながら過酷な走行を続けているため、その耐久性は驚くほど低い。F1に限らず多くのモータースポーツで、レース中にエンジンブローを起こしてリタイヤするマシンをよく目にする。現代のF1用のエンジンは13000回転以上の回転数を誇り、700馬力をも絞り出して平均時速300km/hのレースを戦うのだ。そのためエンジンメーカーはテストにテストを重ね、1時間以上も走り続ける1レースを耐え抜くエンジンの開発に力を注いでいるのである。
「テスト中断だな……」神宮はそう言ってヘッドフォンを外すと、ブースを降りた。
 
 マシンをピットに戻してエンジンを積み替える作業が行われている間、松平と神宮はコントロールタワーの1階にある食堂で休憩していた。この『K−6』の敷地内でタバコが吸える場所はここしかなかったからだ。神宮はタバコを吸わないが、松平がヘビースモーカーであるため、休憩のたびに毎回食堂まで付き合わされた。
「テストカーが1台しかないと、エンジンの積み替えにかかる時間がもったいない。そのたびにテストが中断しちまうからな。クラッシュした日にゃ、それこそその日のテストが終わっちまう。そもそもテストドライバーが1人だけってのも問題があるんじゃないのか?」紙コップのコーヒーを飲みながら、神宮はぼやいた。「いっそのこと、もう1人テスト用のドライバーを雇って、2台体制にしたらどうだ?」
「ああ、そうするつもりだよ。」松平は口からタバコの煙を吐き出しながら答えた。
「なんだ、そうなのか。……だよな、1台じゃあまりにも能率が悪すぎるからな。」
「でもMS−P1改じゃないよ。あれはあの1台で終わりだ。」
「……なに?それじゃまさか……」
「……2台作るのは、『MS−P2』さ。」松平は鼻から煙を出しながらニヤリと笑った。
「次世代マシンか!」神宮の表情がパッと明るくなった。
「ああ、もう設計図はできてるから、あとはパーツを作るだけだ。MS改のテストデータを元に大幅な変更を加えているから、基本フォルムから完全に異質のニューマシンになるだろう。計算上では、今よりもトップスピードはかなりアップするはずだ。」
「そうか!それは楽しみだな!設計したのは、お前がどっかから連れてきたあのマッコイ・ナックとかいうやつか?」
「マッコイ?……いんや、うちのハイド・ボーン博士だよ。」
「ハイド・ボーン?何でよ?MS−P1を設計したのは、マッコイなんだろ?」
「あれ?言わなかったっけ?マッコイはマシンデザイナーじゃないよ。」
「聞いてねえよ、だいたいオレがプロジェクトに合流したときには、すでにMS−P1はコースを走ってたんだから、オレが開発段階のことなんて知るわけねえじゃん。」神宮はわけが分からないと言った表情で答えた。
「マッコイはね……」松平が言いかけたとき、突然壁掛け電話のベルが鳴った。松平はタバコの火を灰皿でもみ消すと、席を立って電話に出た。
「はい、松平です。……おお、どうした?」どうやら電話はスタッフからのようだ。エンジンの積み替えが終わったことを知らせる電話だろうか。やけに早いな、と首を傾げつつも、神宮はピットへ戻ろうと椅子から立ち上がった。
「……何だって!?どういうことだ!」いきなり松平が荒々しい声で叫んだ。その声に思わず振り向いた神宮は、松平のこわばった表情を見て困惑した。
「……わかった。すぐにそっちへ戻る。」松平は受話器を戻すと、ただごとではない様子で神宮に向き直った。
「ショーさん、悪いがこれから本社に戻るよ!」
「本社に?何かあったのか?」神宮は訊ねた。
「……MS−P2の……新型機の設計データが……ごっそり盗まれた」
 

 
 静岡市郊外、マツダイラ本社───事務館と隣接している工場の地下には、マツダイラが誇る、最新設備が完備された超近代的なF1マシン専用の秘密工場が存在する。この地下工場へはマツダイラF1プロジェクトの関係者しか立ち入ることができず、地下へ通じる階段は、電子ロック付きの分厚い扉に阻まれていた。
 電子ロックを解除して地下へ降りると、そこには地上の工場とはまったく異質の、まるで宇宙ステーションのような真っ白な空間が広がっていた。広々としたフロアは、数人がかりでF1マシンを手作業で組み立てるためのもので、4台が余裕を持って組み立てられるだけのスペースが確保されており、さらにその奥にはアール・デコを代表するデザイナー、フランク・ロイド・ライトのインテリアを彷彿とさせる、機能的で斬新なデザインのデスクが整然と並び、清潔感溢れる快適な作業空間となっていた。
 さらにそのフロアの先には、マツダイラF1プロジェクトの様々なデータベースが管理されている『E・D・O』と呼ばれるコンピュータールームがある。『E・D・O』とはマツダイラ独自のオペレーションシステムで、これによってF1マシンの設計データからテストで得た走行データに至るまで、ありとあらゆるデータが蓄積されているのだ。この部屋は、いわばマツダイラのマシン開発の、心臓部とも言える場所なのである。
 
「……今朝、何者かがE・D・Oにアクセスした形跡があります。」オペレーターはそう言って松平にアクセスレポートを見せた。
「……今朝の午前6時か、またずいぶんと犯人は早起きをしたもんだな。……そもそも、どうやってこの地下に入ったんだ?」松平は眉をひそめた。
「地下に入れる人間を全てチェックしたんですが、マツダイラのスタッフではないですね。」
「外部の人間ってことか?」
「ええ、そういうことですね。」
「……どういうことだよ……」話にまったく着いていけない神宮が口を開いた。「ここにはマツダイラの人間しか入ることができないんじゃないのか?そんな簡単に部外者が進入できるんだったら、大問題じゃねえか!」
「そうですねえ、ここには企業秘密が盛りだくさんですから、産業スパイにでも入られたら、一発でおしまいですね。」オペレーターは神宮にそう答えた。
「……待てよ、産業スパイ……まさか……!」突然思い出したように、松平が声を挙げた。
「お、おい、心当たりでもあるのか?」神宮は松平を問いただした。
「……マッコイ・ナックだ。」

 

 昼過ぎに成田空港に到着し、日が暮れる少し前に静岡に降り立ったマキシ・レッドフォードは、すぐさまタクシーを拾ってホテルへと直行した。静岡市では「富士山が見える街」として眺望を重視しているため、条例によって建物の高さが制限されており、高層ビルというものがほとんどない。人口密度も東京と比べると圧倒的に少ないため、交通の便は極めてスムーズである。そのためマキシは、滞りなく静岡駅からホテルへと誘われた。
 明日はさっそくマツダイラ本社に赴き、マーカス・ミッドフィールドのことについて追求しなければならないのだ。あのケン・マツダイラがすんなりと白状するとは思えないが、ニューヨークで手に入れた情報を突きつけて、何としても事実を突き止めなければならない。いくら有力な情報であったとしても、確固たる証拠がない限り『モーターワールド』では記事にできないのだ。そして、マキシにこの仕事を与えた編集長のサムは、マキシがきっとこの案件を記事にしてくれると、大いに期待していた。マキシはこの仕事に、いつになく大きなプレッシャーを感じていたのだった。
 ホテルのカウンターでチェックインを済ませ、ベルボーイに連れられてエレベーターへと向かう途中、マキシは1人の外国人男性に目を留めた。日本でも東京あたりでは外国人の姿をよく目にするが、さすがに静岡で外国人を見ることは滅多にない。男はマキシと同じぐらいの背格好で、つば付きの帽子を深々と被り、これから夜だというのにサングラスをかけてマキシの横を通り過ぎていった。すれ違いざまに何気なくちらりとその男の顔を見たマキシは、思わずハッとして男を振り返った。
(……やつは、マーカス・ミッドフィールド!)
 男はカウンターで部屋の鍵を預けて精算を済ませると、そのままホテルの出口へと歩き去っていった。手にはキャリア付きの大きなスーツケースを持っている。どうやら男はチェックアウトを済ませたようだ。それを見たマキシは、ベルボーイに自分の荷物を任せ、すぐさまカウンターへと駆け戻った。
「今チェックアウトしていった男は?」マキシはカウンターでぶっきらぼうに訊ねた。
「マッコイ・ナック様でございますが、何か?」ホテルマンは丁寧に受け答えた。
「……マッコイ・ナック……?」マキシは名前を聞いて眉をひそめ、サムから手に入れたマーカス・ミッドフィールドの写真をホテルマンに見せた。
「ええ、間違いありません。この方がナック様でございます。」
 マキシはホテルマンに礼を言うと、そのままホテルを飛び出した。日本へ来ていきなりマーカス・ミッドフィールドに出くわすとは、何たる偶然なのだろう。静岡にいるということは、やはりマツダイラと関係していると言うことなのか?マッコイ・ナックというのはおそらく偽名だろう。マキシはそう考えながら、ホテルの玄関で財布一つでタクシーに乗り込んだ。
 
 男はタクシーの中でサングラスを外すと、アタッシュケースを膝の上で開け、中に入っていたノート型パソコンを起動させた。MOディスクを挿入してデータを開くと、液晶画面にはF1マシンの設計データが映し出された。『MAZDAIRA MSーP2』と名付けられたF1マシンの詳細なデータウィンドウが、あふれ出すように次々と画面上に展開される。克明に記されたマシンデータを無表情で見つめる彼の瞳は、不気味に青白く光っていた。
 男を乗せたタクシーは、程なくして静岡駅へと到着した。彼はパソコンを畳むと、再びサングラスをかけ、帽子を深く被り直してタクシーを降りた。
 トランクからスーツケースを取り出そうとして、彼はふと手を止めた。数人の男たちが慌ただしく駅の構内に走り込んでいくのを目撃したのだ。不審に思った男は、顔を上げて彼らを目で追った。この位置からだと駅の構内がよく見える。男たちはそれぞれ手にトランシーバーのようなものを持ち、新幹線の改札口でうろうろしながら、まるで警官のようにあたりを見回していた。静岡駅はそれほど大きな駅ではないため、新幹線の改札口は1ヶ所しかなかった。追っ手がもうここまで来ている、彼はそう直感した。
「ドコカデ、クルマ借リラレマスカ?」男は、ぎこちない日本語で運転手に尋ねた。
「クルマ?ああ、レンタカーね。すぐそこにあるよ。ほれ、あの看板がそうだ。」
「ドーモアリガトゴザイマース。」男は運転手に礼を言うと、スーツケースを引きながら、駅とは逆の方向へと歩き出した。
 

 
 マキシは、レンタカーショップに入った男を、タクシーの中で観察し続けていた。男は店内で手続きを済ませ、程なくしてレンタカーに乗り込んで出てきた。なぜレンタカーを?新幹線に乗るんじゃないのか?マキシは首を傾げつつも、運転手に言った。「運転手さん、今度はあのクルマを追ってくれ。」
 男の乗ったレンタカーは駅から遠ざかり、市街地から離れ、そのまま郊外を走り続けた。片側2車線の道路は、かなり混雑していた。マキシを乗せたタクシーはレンタカーの真後ろにピタリ付いているため、テールランプの輝きの先に、マキシが追うマーカス・ミッドフィールドの後ろ姿が見える。彼は信号で停まるたびに、まるで何かに怯えているかのように、落ち着かなげにあたりをきょろきょろと見回していた。
 さらに渋滞の中をのろのろと進むと、車の流れる先に、東名高速道路のインターチェンジを表す緑色の標識が見えてきた。なるほど、この道は高速道路の取り付け道路なのか。つまり主要道路だからこんなに混んでいるんだな、とマキシは納得した。すると、マキシが追っているレンタカーが、まさにその高速道路の入り口でウインカーを点滅させた。
「お客さん、あの車、高速に入るみたいですよ。どうします?」運転手はマキシに訊ねた。マキシは財布の中身が気がかりだったが、みすみすこんなチャンスを逃す手はないと考え、覚悟を決めた。「構わん、入ってくれ。」
 
 東名高速道路に入ったレンタカーは、東京方面に向けて急に速度を上げた。常に追い越し車線を走りながら、マーカス・ミッドフィールドの乗った車は140km/hものスピードで飛ばしていた。
「……やっこさん、かなり飛ばしてるなあ……。お客さん、わたしゃスピード違反は冒せないよ。アンタんとこの国じゃどうか知らないけどね、日本じゃ100km/hまでだよ。免停にでもなったら即クビになって、家族を路頭に迷わしちまう。」運転者はぼやいた。
「金は余分に払うよ。だから、頼むからあの車を見失わないでくれ!」マキシは懇願した。
「……しょうがないなあ、頼みますよホントに。」運転手は、渋々アクセルを踏み込んだ。
 その後もマーカス・ミッドフィールドの車は高速を降りる気配はなく、いくつかのインターチェンジとサービスエリアが通り過ぎていき、気が付けば、静岡からの所要時間が55分と表示されていた御殿場インターを、わずか40分で通過していた。
「……しかし、一体どこまで行くつもりなんだろうか。レンタカーということは、またあの店に車を返しに来なければならないということだよな……。」マキシはつぶやいた。
「いやいや、最近のレンタカーは乗り捨てOKみたいッスよ。」運転手は答えた。
「……乗り捨てOK……?」
「つまりね、同じレンタカー会社だったら、どこに返してもOKなんですよ。だからこのまま東京まで行って、向こうのレンタカーショップに車を返して、自分は飛行機で海外旅行、なんてこともできるわけですよ。大勢で旅行に行く分には、新幹線で行くよりもよっぽど安くあがりますわな。自分の車じゃないから駐車料金もかかりませんから。」
「……なるほど……そういうことか……知らなかった……」マキシはいよいよ所持金が不安になってきた。
「東京までは、あとどれくらいなんだ?」マキシは訊ねた。
「……お客さん、まさかホントに東京まで行くつもりですか?そりゃ、行けと言われれば行きますけどね、かなり高く付きますよ。アンタ、ホントにお金の方は大丈夫なんだろうね?」運転手は怪訝そうな声でマキシの気にしているところを突いてきた。
「そんなことより、東京までの時間を教えてくれ。」マキシははぐらかすようにそう言った。
「……そうねえ、このペースだと、だいたいあと1時間半もあれば……」
 急カーブに差し掛かる手前で、すぐ前方のマーカス・ミッドフィールドの車に、突然異変が起こった。車は高速のままカーブを直進して中央分離帯に乗り上げ、そのまま大きく跳ね上がって横転した。
「うわっ!」運転手はとっさにハンドルを切って車線を変え、ぎりぎりのところでマーカス・ミッドフィールドの車を回避した。マキシがすれ違う事故車を追って後ろを向くと、車は何度か防風壁に激突して激しく大破し、最後に大爆発を起こしたのが見えた。それはまるでハリウッド映画でも観ているかのような、戦慄の光景だった。
「おい!停めてくれ!」マキシは運転手に叫んだ。
「無茶言わないで下さいよ!ここは高速道路ですよ!」運転手も思わず怒鳴る。リアウィンドウ越しに見える炎上車は、あっという間に後方に遠ざかっていった。
「くそっ!なんてこった!」マキシは悔しそうにシートの背もたれを叩いた。

 

 翌日の朝、松平と神宮はマツダイラ本社の社長室にいた。彼らは今回の設計データ盗難事件の対応に追われて、昨日からずっと社内に拘束されていた。新型マシンの設計データは、MOディスクにコピーしてあったものからバックアップデータ、さらには紙に書かれたオリジナルの図面まで全て削除されていたのだ。スタッフたちは地下ファクトリー内で、夜を徹して消失データの回復を試みており、今もなおその作業が続けられている。
「新聞読んだか?」神宮は眠そうに目を擦りながら、新聞の朝刊を松平の机の上にバサッと置いた。松平は窓のブラインドを開けて眩しそうな表情をすると、神宮に向き直った。
「……ああ、マッコイ・ナックとみて間違いないだろう。おそらく駅の改札で張ってたのがバレたんだ。それでレンタカーに……」
「……東名高速で、狙撃されたらしいな。」神宮は静かに言った。
「ああ、そうらしいな。」松平も静かにそう答えた。
「……お前が言ってた『危ない橋』ってのは、まさかこのことじゃ……」
「馬鹿言わないでよショーさん、そんなわけないでしょ。」松平は苦笑してそう答えた。
「だったら、一体誰がマッコイ・ナックを狙撃したんだ?新聞だと、高速道路を走っている最中に、真横から狙撃されたって話じゃないか!こりゃどう考えてもプロの仕事だろう!」神宮は問いただした。
「……プロだろうが何だろうが、オレの知ったこっちゃない。世の中には、オレたちの知らない裏の世界が存在しているってことさ。ま、うちの企業秘密も車ごと全部吹っ飛んで外へ漏れなかったのは、不幸中の幸いだった。」松平は椅子にどっかと腰を下ろして答えた。
「……まるで、狙撃されても何ら不思議じゃないって言い方だな。教えろよ、マッコイ・ナックってのは、一体何者なんだ?」神宮は真顔で松平を見下ろした。すました表情で顔を上げた松平は、不敵な微笑みを浮かべて椅子からゆっくりと立ち上がった。
「……そんじゃ、ショーさんにいいものを見せてあげよう。」
 
 マツダイラ本社敷地内の片隅にある、古びた倉庫。耳障りな音を立てながら錆びたシャッターを開けた途端、むせかえるようなホコリの匂いが鼻腔を刺激した。シャッターをくぐるように中に入り、壁のスイッチを入れると、天井の蛍光灯が弱々しく点灯し、暗がりの奥にひっそりと佇む、ビニールシートに覆われた1台のF1マシンが姿を現した。松平はマシンに歩み寄ると、神宮を見てニヤリと笑い、新車発表でベールを剥ぐように、
ゆっくりとビニールシートを剥いだ。
「……これは……」神宮は、ぽっかりと口を開けた。
「マツダイラの一番最初の試作機、『MS−ZERO』さ。」松平は答えた。それは、カーボンファイバーがむき出しになった、無塗装の黒いF1マシンだった。
「……MS−ZERO……だが、これはまるで……」神宮は思わずつばを飲み込んだ。
「……さすが、一目見て気付いたみたいだね。そう、このマシンはMSとは名ばかりの、完全な昨年型ウィリアムズマシン、FW15のコピーさ。エンジンはルノーじゃないけど、エンジンルーム以外の細部に至るまで、完璧に再現されてるよ。」
「何でこんなシロモノがここに……」
「マッコイ・ナックから、ウィリアムズの極秘データを入手したんだよ。」
「何だって?」神宮は驚きの表情を松平に向けた。
「ちなみにマッコイ・ナックってのは偽名で、本名はマーカス・ミッドフィールド、元ウィリアムズのマシン開発スタッフだよ。彼は昨年の初めに、チームを不当に解雇されたと腹を立てて、自分が開発に携わった昨年型のマシンデータを、ごっそりと持ち逃げしたんだ。その情報をある筋から入手したオレは、必至になって彼を捜し出して接触し、その盗まれたマシンデータを買い取ったってわけさ。」
「……何でそんなことを……」
「いくらうちが空力の専門だと言っても、F1のシャシーを1から創りあげるとなると、ノウハウがないから膨大な予算と時間が必要になるでしょ?そこにタイミング良くFW15という最高のひな形が舞い込んできたんだ、飛びつかない手はないでしょう。マシン開発にかかる手間と費用を大幅に削減できるし、何と言っても、そこからトップチームの多くの技術を学ぶことができるんだからね。手っ取り早く即戦力になるマシンを創りあげるには、いい参考書が必要だってことさ。」
「……それってお前……犯罪じゃねえか……」神宮はあきれたようにそう言った。
「バレたらね。だからうちはそのデータを元に、1台だけコピーマシンを作ったんだ。それをMS−ZEROと称して極秘裏に『K−6』で走らせて、急ピッチであらゆるデータを採取して、地下のE・D・Oデータベースにブチ込んだのさ。あとはそのデータを元にマツダイラ独自の空力パーツを開発して、マツダイラの1号機としてMS−P1を作った。そしてひな形であるMS−ZEROは、さっさとお蔵入りにしちゃったわけ。」
「……つまりその『
お蔵』ってのが、この小汚い倉庫ってわけか。」
「そのとおり」松平は人差し指で神宮を指して答えた。
 
「だが、マッコイ・ナックをマツダイラに引き入れたのはまずかったんじゃないのか?」神宮は腕を組んで倉庫の鉄柱に寄りかかった。
「ああ、それは計算外だった。実は誰にも知られないように、わざわざフィリピンまで行ってデータの受け渡しをしてきたんだけど、その後マッコイは、そのまま日本までオレを尾けてきたんだ。それで急に本社に押し掛けてきて『マツダイラのマシンエンジニアとして雇ってくれ』って言われたんだけどね、こっちはそれなりの報酬は出してるわけだし、彼とはそれっきりにしたかったら丁重に断ったんだ。」
「ウィリアムズからデータを持ち逃げしたやつに、うちでウロウロされたらたまったもんじゃないからな。」神宮は2〜3度頷いてそう言った。
「だけど彼は、純粋にエンジニアとしての仕事がしたかったんだろうね。だからウィリアムズを解雇されたときもひどく腹を立てたんだろう。端から見れば自業自得なんだが。」
「……それで仕方なく雇ったのか?」
「しょうがないじゃん、だってしまいにゃ『データを流したことをマスコミにバラずそ!』って脅されたんだよ、だがら外部には知られていない、地下ファクトリーに配属したんだ。」
「……それで今度は、うちのデータが持ち出された。」神宮は静かに言った。
「……うかつだったな。」松平も渋い表情で頭を掻いた。
「どうすんだよ、データの流出は避けられたが、たぶん消去されたバックアップデータは戻ってこねえぞ。昨夜から今までかかって、まだ復活してねえんだからな。」
「そうだな……MS−P2の開発は、先延ばしにするしかないだろう。」
「……はあ、どうやらまた暗礁に……」そう言いかけた神宮は、シャッターの外に人の気配を感じ、思わずびくっとして鉄柱から離れた。それを見た松平もあわててMS−ZEROに駆け寄り、急いでビニールシートを被せた。
「……バックアップなら残ってるよ。」シャッターの外から声がし、一人の老人が半分だけ開かれたシャッターをくぐって中に入ってきた。それは白髪で彫りの深い、小柄な老人だった。
 
「ハイド・ボーン博士!」神宮は老人を見るなり、目を輝かせて彼と抱き合った。
「しばらくだったな神宮君、元気じゃったか?」ハイド・ボーンと呼ばれる老人は、嬉しそうに眼を細めてにっこりと笑い、神宮の背中を叩いた。
「ええ、もちろんです。南極からいきなり呼び戻されたときは、さすがに参りましたけどね。博士こそお元気そうで何よりです。このプロジェクトに参加していらしたんですね。」
「ほっほっほ!わしもコッツウォルズのファクトリーから呼び出されたよ。18時間のフライトは、この歳にはちと辛いわい。」
「松平はいつも強引ですからね。」神宮は苦笑した。
「ほんとじゃて、老人はもっと大切にせにゃいかん。」ハイド・ボーンはそう言って、意地悪そうに笑って松平を見上げた。松平はそれを見て困ったように頭を掻いた。
「……ところで博士、バックアップが残っているというのは?」松平は話題を戻した。
「E・D・Oの中のデータは全部消去され、持ち出されたデータも全て事故で焼け、おまけにオリジナルの設計図までシュレッダーにかけられていたはずでは……?」
「そんなたいそうな機械に頼らずとも、ちゃんとバックアップは取ってあるさ、ここにな。」そう言ってハイド・ボーンは、自分のこめかみを指さした。「紙と鉛筆さえあれば、3時間もあれば設計図は書ける。わしの頭の中には、正確に図面が記憶されておるのでな。」
「おおっ!」神宮は思わず歓喜の声を挙げた。
「さすが博士!筋金入りのアナログ人間ですな。」松平は皮肉たっぷりに笑ってそう言った。
「よし!予定通りMS−P2を2台組み上げるぞ!」
 
 
 その頃、成田空港には数機のチャーター貨物機が降り立っていた。貨物機から分解され梱包されたF1マシンたちが次々に降ろされると、それらは慎重に専用のトレーラーに積み替えられ、そのまま一路三重県鈴鹿サーキットへと運ばれていく。一方、旅客機でも、世界で22人しかいないF1ドライバーを始め、チームスタッフ、チームクルー、それに海外からのF1ファンなどが続々と日本に上陸し、F1グランプリは、いよいよ最大のクライマックスを迎えようとしていた。
 セナ・プロスト時代の終焉と共に訪れた世代交代の旋風が吹き荒れる中、残り2戦を残した時点で、ランキング首位のミハエル・シューマッハ(ベネトン・フォード)と、それを追うデーモン・ヒル(ウィリアムズ・ルノー)とのポイント差はわずか5ポイント。この2人のうちどちらかが、第15戦日本グランプリと最終戦オーストラリアグランプリで、栄冠を手にするのだ。両者は次世代チャンピオンという栄光を賭けて、ついに最終対決に突入する───。
 
 
(つづく)


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