CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4 - 5
※この物語はフィクションです。


 アイルトン・セナは、1994年5月のサンマリノグランプリ決勝で、最悪のアクシデントによって命を落とした。また、ローランド・ラッツェンバーガーも前日の予選で落命し、サンマリノグランプリの舞台イモラサーキットは、悲劇の傷跡が残るサーキットとして語り継がれることとなる。そしてこの日は、F1界における大きなカリスマを失った瞬間だった。セナの死は世界中に衝撃を与え、多くのF1ファンは、F1における指標を見失なった。さらに現役では唯一となったチャンピオン、しかも3度もチャンピオンに輝いたトップドライバーのセナが事故死したという事実は、大きな悲しみだけでなく、レースにおける安全性に対しての疑問を投げかけることとなった。セナの事故は、高速でコンクリートウォールに激突し、折れたサスペンションがヘルメットに突き刺さるという、あまりにも悲惨な事故だったのだ───。
 
 神宮庄之助は、ベッド脇の時計のけたたましいアラームで目を覚ました。彼は時計を手探りで探してアラームを止めると、暗闇の中でゆっくりと身体を起こし、眠い目を擦り、その後しばらくベッドの上でぼーっとしていた。昨夜はファクトリーの休憩室でF1サンマリノグランプリをテレビで観た後、しばらくは徹夜で作業を続けるメカニックたちに付き合っていたが、今日のテストのことを考え、夜明け前にファクトリー内にある仮眠室に入り、睡眠を取った。昨夜はまだ実感がわかなかったが、朝になってレースのことを思いだし、ようやく事実を冷静に認識することができた。そうだ、昨日セナが死んだんだった。
 仮眠室は地下のファクトリーにあるため、当然明かりが差し込む窓はなく、部屋の中は真っ暗で時間の感覚が全くない。神宮はベッドの頭の上にあるパネルを手探りし、部屋の灯りをつける。時計は午前8時を差していた。マツダイラの就業時間1時間前、まだ早いが、社長の松平はすでに出勤しているに違いない。セナの熱狂的なファンだった松平の様子が気がかりだ。神宮は、テストコースに行く前に事務館に顔を出しておこうと決めた。松平の性格からしてそれほどひどく落ち込むとは思えないが、今日は午後から大事なテストが控えている。念のために声をかけておいた方が良さそうだと、神宮は思った。それにしても、今朝は何と憂鬱な気分なんだろう。彼は深い溜息をついて、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
 
 
 神宮は、事務館の3階にある秘書室に顔を出した。秘書室にはすでに松平の秘書が出社しており、彼のスケジュールの整理をしていた。
「社長はもう出社してる?」神宮は秘書に声をかけた。
「ええ、社長室におられます。」それを聞き、神宮は秘書室の奥にある社長室までつかつかと歩き、ドアをノックした。「神宮だ、入るぞ。」
 ドアを開けると、松平は薄暗い部屋の奥にあるデスクで、何やらぼんやりと物思いに耽っていた。そしてキャビネットに設置されているCDコンポからは、静かで緩やかなピアノの曲が流れていた。それはショパンの『別れの曲』だった。
(……うわー……露骨に哀愁に浸ってやがる……しかもベタな選曲しやがって……)どうやら神宮が思っていた以上に、松平はセナの死に相当ショックを受けていたようだ。まさかこんなに落ち込んでいるとは思わなかったが、とにかく様子を見に来て正解だった。神宮は、この部屋に入った途端に押し寄せてきた重い雰囲気を振り払おうと、松平に話しかける。
「おーい、起きてるか〜?電気ぐらい付けろよ……。」彼はそう言って明かりを付けた。
「……ああ、ショーさんか、おはよう。」松平は静かに答えた。
「……何ぼーっとしてんだよ」神宮は腕組みをして松平の反応をうかがった。
「……セナ、死んじゃったなあ……」その声は松平らしからぬ、とても弱々しい声だった。
「……ああ、ビックリだよ……まさかあのセナがなあ……」神宮はうつむき加減で答えた。
 
「ショーさん、オレはね、本田宗一郎が本当に羨ましかったよ。ホンダエンジンでセナと共に世界の頂点に立ち、セナに愛され、そしてセナに惜しまれながらF1から去っていく……何ともロマンに満ちた話じゃないか……。」松平は椅子から立ち上がり、窓のブラインドの隙間に指を入れてカチッと押し開き、窓の外を覗いた。刑事ドラマにでも出てきそうな仕草だ。
「カッコつけても外はただの裏山だぞ。裕次郎かお前は……。」松平のキザな仕草を見た神宮は、場の雰囲気を少しでも和らげようと、その仕草をちゃかしてみた。しかし松平は、それには何の反応も示さず、ただ無言でブラインドから指を外し、神宮の方を向いた。
「……ショーさん、セナを失った今、もうオレにはどうしていいのかわからんよ。このプロジェクトはセナのためのプロジェクトだったんだ。例え初年度は無理だとしても、いずれはセナを引き入れ、セナと共に仕事をし、そしてセナと共にタイトルを勝ち取りかった。しかしその夢は、いともあっけなく絶たれてしまったよ。」
「……まあな。だがオレたちは、新しい目標を持って突き進んでいくしかない。昨日のテレビでも言ってただろ、モータースポーツに携わる者は、こういった出来事を受け止めて、乗り越えていかなければならないってな。」
「セナのいないF1で、一体何を目指していくんだよ……。」松平は、神宮の言葉を嘲笑うかのように苦笑した。神宮はその態度を見て、露骨にムッとした表情を見せた。
「おい!午後から大事なテストが待ってるんだ!いつまでもそんなこと言ってねえで、お前も早く支度しろよ!メカニックたちは昨日まで徹夜でMSを組み上げたんだぞ!」苛立ちを隠すこともなく、神宮は松平に怒鳴った。松平はそれを聞き、神宮から目をそらして答えた。
「……ショーさん、再来年からのF1参戦は、見送ろうかと考えているんだ……」
 神宮は松平に歩み寄ると、いきなり彼の胸ぐらを乱暴に掴んでねじ上げた。松平は抵抗することなく、されるがままに身体を浮かせた。
「てめえ!何寝ぼけたこと言ってやがる!マツダイラのF1参戦の夢は、もうてめえ一人の夢じゃねえんだよ!てめえの途方もない野望に付き合って、オレや他のメンバーたちがここまで作り上げてきたプロジェクトなんだぞ!オレたちは自分たちの手でF1に参戦するという大きな夢に向かって突き進んでいるんだよ!てめえの気まぐれな一言で、今更『はいそうですか』と全員が納得してプロジェクトを中止できるとでも思ってるのかよ!冗談じゃねえ!」神宮の言葉に、松平は何も言い返そうとはしなかった。
「セナが何だってんだ!セナはもういねえんだよ!だがオレたちは、世界最高峰のF1で戦うんだ!オレたちの夢は、世界制覇じゃなかったのかよ!お前が何と言おうとも、オレたちはF1に参戦する!そしてセナにはもう会えないが、オレは予定通り今度のモナコに行く!セナに代わる、オレたちと共に戦うドライバーを探すためにな!松平!お前はこれからF1に携わっていく人間なんだぞ!チームを引っ張っていく立場なんだぞ!わかってるのか!感傷に浸ってる場合じゃねえんだ!」神宮は松平にすべての感情をぶちまけた。そして彼をねじ上げたまま睨みつける。松平はその鋭い視線を避けるように、うつむいたまま黙っていた。神宮の荒い息遣いだけが聞こえ、しばらく沈黙が続いた。
 
「……すまん、ショーさん……」松平はようやく口を開いた。「……どうかしてたよ。今の話は忘れてくれ。セナはいなくなったが、プロジェクトは続行する。そしてセナの亡き後のF1を継ぎ、オレたちはワールドタイトルを目指す。新しい世代のドライバーと共に、それから、オレの野望に付き合ってくれる、物好きな連中と共にね。」松平はじっと神宮の目を見て答えた。神宮の言葉に、松平の中で何かが吹っ切れたようだ。神宮は少しの間黙っていたが、松平の胸ぐらから手を外し、彼のワイシャツの襟元を整えた。
「フンッ!わかればいいんだ、やっと目を覚ましたか。」神宮はぶっきらぼうに言った。
「ファクトリーの連中が寝ずの作業をしてくれたおかげで、予定よりも2日早くMSの改良型が完成した。だから今日から本格的なテストができる。連中は張り切ってるんだ、お前がしっかりしてくれなきゃ困る。」努めて冷静に、神宮は松平にそう言い聞かせた。
「ああ、わかってる。すまない……いや、サンキュー。」松平は微妙に笑みを浮かべた。
「礼なら連中に言ってくれ。」神宮はそう言って、頭を掻きながら部屋を出ようとした。
「あ、ショーさん、待った!」松平が何かを思い出したように神宮を呼び止めた。
「モナコの件だけど、ぜひともコンタクトを取って欲しいドライバーがいるんだ。」松平の言葉に、神宮はにやりと笑った。
「ミハエル・シューマッハだろ?」神宮は松平の思惑を言い当てようとそう答えた。マツダイラが効率よくタイトルを狙うには優秀なドライバーが要る。セナがいなくなった今、最も優秀なドライバーといえば、セナを3戦連続で打ち負かしたシューマッハをおいて他にはいないだろう。少なくとも神宮はそう確信していた。シューマッハは昨年から急速に頭角を現しているデビュー4年目のドライバーで、現在25歳、今シーズンは開幕3連勝と波に乗り、ワールドチャンピオンの最有力候補としてその人気は急上昇中だ。そんなこの先有望なドライバーと契約するのは、ある意味セナと契約するよりも難しい気もするが、松平のことだ、とにかくシューマッハとの契約を最優先に考えているに違いない。神宮はそう考えていた。ところが、松平の口からは、意外な言葉が返ってきた。
「……いや、シューマッハじゃない。デーモン・ヒルだ。」松平の不敵な笑みが戻った。
「デーモン・ヒル!?」それは、神宮が思ってもいなかった人物だった。
「そうだ、確かにセナのいなくなった今、最もチャンピオンに近い男はシューマッハだろう。それはオレも認めるよ、実力はナンバーワンだ。だが、個人的にはセナが勝てなかったシューマッハを選ぶのは何だか悔しいんだ。できればオレたちは、セナの意志を継いで、シューマッハに挑戦する立場でいたいんだよ。」松平は真顔でそう答えた。
「またお前はそんな個人的感情で……」そう言いかけた神宮だったが、そもそもセナを起用しようとしたこと自体、松平の大いなる個人的感情だったのだ。何を今更、と思い直し、神宮は言葉を止めた。
「シューマッハに対抗できるドライバーといえば、デーモン・ヒルだろ?昨年彼はプロスト、セナに次いでシリーズランキングで3位だったんだ。それに彼はあの伝説的ドライバー、グラハム・ヒルの息子だ、話題性も十分だとは思わないか?」松平は自信に満ちた表情だった。
「……やれやれ……何て単純な考えだ……」神宮はあきれて溜息をついた。
「どのみちシューマッハは今シーズンタイトルを穫って、そのチャンピオンという肩書きで契約金も一気に跳ね上がるだろう。だからその次に有力なヒルを選ぶのは、考えとしてはそう悪くはないだろ?」
「だがヒルは今年で33歳だぞ、年齢的に見て先が見えてるよ。昨年の結果にしても、ウィリアムズの強さによるところが大きい。」神宮は反論した。
「確かにF1ドライバーとしては年齢はだいぶ食っているが、その分タフだ。あのシューマッハに対抗するには、タフなやつが必要なんだよ。何度か優勝経験もあるからね。それに、ああいう骨太な男は好きだ。」松平は、どうやらすでにヒルのことしか頭にないらしい。神宮はしばし考えた。かなり強引な考えではあるが、まあセナやシューマッハを起用するよりは、予算的にはよっぽど現実的だ。反論の余地はなさそうだと、神宮は諦めた。
「……わかったよ。お前の言う通り、モナコでヒルとコンタクトを取ってみる。」


 
 静岡、井川山中・マツダイラテストコース『K−6』───この広大なサーキットの一画にあるピットガレージでは、マツダイラF1プロジェクトのスタッフたちが、午後からのテストに備えてテストマシンの準備を進めていた。マツダイラの技術の粋を結集して作られた黄金のF1マシンMS−P1は、今年から大幅に改訂されたF1のレギュレーション(大会規定)に基づいて、昨年までドライバーの運転中における負担を軽減してきたハイテク装置を、一切排除した。その上で如何にナーバスになったマシンの挙動を安定させるかという研究を基に、MS−P1は細部のあらゆる部分に改良が施された。その作業はスタッフたちの連日の努力により予定よりも早く仕上がり、その結果、実戦を想定とした本格的なテストの日程も早められることになったのだ。
 
  今日はその初日、完成したばかりのMS−P1の改良型が、早速サーキットで組み上げられた。組み立てが終わると、神宮はテストドライバーのミハエル・カッズ・クーンに英語でアドバイスを出した。
「いいかカッズ、このMS改はこれまでのMSとはまったく性格の異なるマシンだと思え。パワーを効率よく路面に伝えるTCSがなくなった分、加速時のホイールスピンに気を付ける必要があるし、ABSがなくなった分、減速時にタイヤがロックしてしまわないように、ブレーキングには細心の注意を払わなきゃならない。同様にコーナリング時の挙動も、今までのMSとは比べものにならないぐらいナーバスだ。つまり、今までハイテクが補助していたことを、これからは全て自分で対処しなければならないってわけだ。とにかく初めのうちは速く走ることは考えないで、まずマシンに慣れろ。いいな。」神宮はカッズ・クーンの肩を叩いた。
「わかりました。なるべく早いうちに感覚を掴みます。」カッズ・クーンは答えた。
「あせる必要はないからな。お前のペースでいい。」
「はい。」カッズはそう言ってヘルメットに頭を滑り込ませた。
 
 黄金のマシンはゆっくりとガレージから顔を出し、ピットレーンを走り始めた。F1のサーキット同様80km/hの速度制限があるピットレーンを徐行しながら抜けると、マシンはホームストレートに合流し、1コーナーに向けて一気に加速していった。1周目はまだタイヤが暖まっていないため、スリップが起こりやすい。そのためカッズ・クーンはゆっくりとしたペースでコースを周回し、直線では時折ステアリングを左右に切ってマシンを蛇行させ、少しでも早くタイヤを暖めようと試みた。モータースポーツではスタート前のおなじみの光景だ。
 翌周から徐々にペースを上げていき、6周目を終えた頃には、限界走行とまではいかないまでも、マシンはかなりハイペースで周回を重ね始めた。松平と神宮は、オペレーティングブースの5つのモニターでマシンの挙動を注意深く観察し続けた。
「ターン4の立ち上がりでかなり滑ってるな。」神宮は呟いた。
「その後のシケインでの加速もかなり鈍い。それから全体的にブレーキングがきついな。あれじゃちょっとタイミングが遅れたら、すぐにグラベルに飛び出しちまうよ。それにタイヤの減りも早くなるから、レースじゃタイヤが何本あっても足りんぞ。」松平も唸る。
「うーん、やっぱり今までのテストと比べて、かなり乗りにくそうだな。タイムもまったく伸び悩んでる。」神宮はそう言うと、腰に下げている無線機のスイッチを切り替え、ヘッドフォンから伸びるマイクを口元に近づけてカッズ・クーンと交信した。
「カッズ、どうだ?」神宮は英語でカッズに呼びかけた。
「……なんだ、通訳要らないじゃん……」松平は横でぽそっと呟いた。
「トラクション(前に進もうとする力)が相当足りない。コーナーの立ち上がりで加速しようとするとすぐにテールがスライドしそうになる。あとアンダーステアリングもひどくてマシンが思うように曲がってくれない。」カッズ・クーンの声が2人のヘッドフォンに届く。しかし英語がわからない松平には、何を言っているのかさっぱりわからなかった。
「ピットに戻ってセッティングを変えてみるか?」神宮は聞き返した。
「……いや、もう少し走ってみる。ブレーキをどの程度まで踏み込んだらタイヤがロックするのか、その限界を知っておきたい。」エンジン音に混じって聞こえてくるカッズの声はとても熱心だった。神宮はモニターを見つめ、マシンの挙動をチェックし、このまま走り続けても問題はないだろうと判断し、2〜3度頷いた。
「わかった、もうしばらく走り込め。だが無理はするなよ。」神宮は指示を出した。
「ラジャー」カッズは答えた。
 
「ブレーキングがきついというのは、意図的だったようだ。」神宮はそう言って、カッズとの無線でのやりとりを松平に説明して聞かせた。
「……ふうん、思ってたより真面目なヤツだなあ。」松平は意外そうな顔つきでそう答えた。
「あのドイツ人坊や、一見何考えているのかわからないからな。でもまあ確かにブレーキの限界を知ることは極めて重要なことだよな。ブレーキは高速で走るマシンを止める、ドライバーにとっちゃいわば命綱みたいなもんだ。ABSがなくなったことで、そのブレーキの性格が著しく変わっちまったんだから、オレたち外野がマシンの挙動やらタイムうんぬんを気にすることよりも、ドライバーにとってはよっぽど切実な問題だもんなあ。」神宮は腕を組んだままモニターを見つめ、カッズの走りを見守り続ける。
「あいつ、意外と伸びるかも知れないな。改良前のマシンに慣れ過ぎる前に改良型に乗せてやれたのは幸いだったよ。テストに対してそれだけひたむきなら、すぐにマシンの性格を把握して的確なフィードバックが得られるんじゃないか?」松平はカッズに感心したようだ。
「ああ、少なくともテストドライバーとしては、十分使い物になりそうだ。」
「レースではどうだろうね?」松平は神宮に聞き返した。
「さあな、それはまだわからん。全日本F3での戦いっぷりを見てみないことにはな。」神宮は慎重に言葉を選んだ。
「……全日本F3か、息子のライバルだな。」松平は呟いた。
「ああ、慶喜君か。彼も頑張ってるよなあ。だいぶ苦労してるようだけど。」
「あいつはすぐにカッとなるタイプだから、レーサーには向いてないよ。」松平は苦笑した。
「わからんぞ〜!いずれは父親のチームからF1デビューなんてことも……。」
「あり得ない。第一、女房が許さんだろう。」松平の答えに、神宮は思わず大笑いした。
 

「Oh!Shit!」突然ヘッドフォンからカッズ・クーンの叫び声が聞こえ、モニターに映し出されていたマシンがタイヤスモークを上げ、大きく挙動を乱した。
「うわ〜っ!なんだぁ〜!」松平は思わず悲鳴を挙げた。何とシケイン入り口でマシンの左フロントタイヤがホイールごと外れ、タイヤはあらぬ方向に転がり、マシンはスピンしながらグラベルへと突っ込んでしまったのだ。マシンはグラベルの砂を巻き上げ、瞬く間に画面上が白い砂煙に覆われてしまい、一瞬状況がまったくわからなくなってしまった。
「カッズ!どうした!何があったんだ!」神宮は無線でカッズを呼んだ。画面上の砂煙が次第に収まり、タイヤバリア手前のグラベル上に停止したMS−P1が姿を現した。
「ブレーキを踏んだら、突然左フロントタイヤのサスペンションアームが折れた。」カッズは無線で状況をピットに伝えた。
「怪我はないか?」神宮はすかさず聞き返した。
「大丈夫、バリアに激突せずに済んだから、インパクトは全くなかった。」カッズは答えた。
「すぐに迎えを出すからそこを動くなよ。」神宮はそう言うとヘッドフォンを外してブースを降り、すぐさまピットレーンのスタッフたちに指示を出した。「レッカー車とメディカル車を出せ!ターン5だ!」
 松平は厳しい表情で、無言のままグラベルに止まったマシンが映し出されているモニターを見つめていた。F1プロジェクト始動以来、初めてのメカニカルトラブルだった。



 その夜、松平はサーキット敷地内にあるコントロールタワーの食堂で、独りたばこを吸いながらテレビを見ていた。テレビではアイルトン・セナの追悼番組が組まれていのだが、この番組の司会者はF1に関しては全くの無知で、ゲストの中嶋悟に対する質問はあまりにも見当違いのなものばかり、松平は観ていて苛立たずにはいられなかった。そこへ、メカニックの1人が昼間の事故の報告をしに、松平の元へとやってきた。
「……それで?」松平はテレビの方を向いたまま口を開いた。
「はい、折れたサスペンション以外はそれほど大きなダメージは受けていませんでした。サスペンションの予備はありますのでそれに取り替えて、あとはマシン底を若干補修すれば、また明日からテストが再開できます。」メカニックは答えた。
「待て待て待て!オレが聞きたいのはそんなことじゃない!何でサスペンションが折れたのかが聞きたいんだ!」松平はメカニックに向き直ると、珍しく荒々しい声で言い放った。その声にメカニックは、思わず唾を飲み込んだ。
「それは……まだ調べているところです。」
「原因が分からないままテストを続ける気か?サスペンションを取り替えても、また同じことが起こるかも知れないじゃないか!お前もあの事故がどんなに危険なものだったかわかってるだろうが!走行中にサスペンションが折れて、タイヤが外れたんだぞ!高速ストレートで同じことが起こっていたら、ドライバーも無事じゃ済まなかったぞ!」松平は激しくメカニックを怒鳴りつけた。
「はい……すいません……」メカニックは蚊の鳴くような小さな声で答えた。そこへさらに別のメカニックと神宮が入ってきた。神宮は松平に報告した。
「……サスペンションが折れた原因がわかった。」
 
 至って初歩的な、人為的ミスだった。左フロントタイヤのサスペンションとマシンのノーズを接続するジョイント部分が、正しい方向とは逆向きに取り付けられていたのだ。そのため走行中にその部分に徐々に負荷がかかり、シケイン入り口でのフルブレーキングで耐えきれなくなってサスペンションが吹っ飛んだのだった。
「担当したのは誰だ?」松平は訊ねた。
「……僕です、申し訳ありませんでした……」神宮と共にやってきた若いメカニックが、弱々しく名乗り出た。彼はひどく動揺しており、見るからに哀れな様子だった。松平は厳しい表情でその哀れなメカニックを睨み付けると、少し間を置き、そして静かに勧告した。
「……福島、お前をプロジェクトから外す。」その言葉に、福島は愕然とした。
「……お、おい……何もそこまでしなくても……」神宮は慌ててフォローしようとした。
「馬鹿野郎ッ!オレたちはF1ごっこをしてるわけじゃないんだぞ!オレたちはドライバーの命を預かっているんだ!ドライバーの安全を何よりも優先する義務があるんだよ!なのにこんなしょーもないミスで、ドライバーを危険にさらしたんだぞ!わかってるのか!」松平の雷が落ちた。神宮ですら見たこともない松平の逆鱗に、一同は飲み込まれそうになった。
「……確かに福島のミスは重大だが、こいつはMS改を少しでも早く仕上げようと、毎晩夜を徹して頑張ってきたんだ。その辺の努力も少しは……」神宮が言いかける。
「オレは徹夜をしろとは一言も言っていないし、MSの改良を急がせた覚えもない!当初の予定ではテストは明後日だろ!余裕を持ったスケジュールが組まれていたはずだろうが!それに徹夜をしなくていいように、ファクトリーにはわざわざベッド付きの快適な仮眠室まで完備してあるんだ!寝不足で精密な作業ができるとでも思っているのか?ドライバーはうちのマシンを信頼して乗っているんだぞ!福島ッ!お前は眠い目を擦って人の命が懸かった作業ができるほどエラいのか!ええ?どうなんだ!」松平の剣幕はもはや頂点に達していた。
「も、申し訳ありません!」福島は泣きながら土下座して謝り倒した。
「明日の朝、市販部門に戻れ。クビにならないだけでもありがたいと思えよ。」松平は無情に言い放って立ち上がると、土下座する福島を素通りして食堂から出ていってしまった。後にはとてつもなく重苦しい空気だけが残された。福島はすすり泣き、他の者は途方に暮れた。
 この一件で、マツダイラの本格的な実戦テストは、初日から中断を余儀なくされた。



 モナコ───人口3万人、ヴァチカン市国に次いで世界で2番目に小さな国モナコ公国は、フランスの南東隅、地中海に臨むコートダジュール地方にある国だ。地中海沿岸の美しい自然や温暖な気候に恵まれ、治安の良さは世界一を誇る。19世紀後半よりヨーロッパの王侯貴族たちの社交の場としてその地位を確立し、今では世界一高級な大人のリゾート地として世界の注目を集めている。また、国際レベルのさまざまな文化・芸術およびスポーツのイベントが年間を通じて開催されている。
 モナコが初夏の陽につつまれ、海が蒼く輝き出すと、娯楽の街モンテカルロには喧噪の槌音が響き始める。この街には不似合いのスチールと青いプラスチックのスタンドが作られ、3段重ねのガードレールが設置され、さらに縁石が鮮やかな赤と白に塗り直されると、いよいよ国を挙げての一大イベント、伝統のF1モナコグランプリが始まる。モナコグランプリは市街の一般道路がサーキットになる世界で唯一のレースで、初開催は1927年とその歴史は古く、ル・マン24時間耐久レース、インディ500と並ぶ世界三大レースのひとつとして数えられている。このモナコグランプリには世界中から30万人もの人が集まり、この時期のモナコの人口は、一気に10倍にも膨れあがるのだ。
 
 水曜日の夕方にニースのコート・ダジュール国際空港からヘリコプターでモナコ入りした神宮庄之助は、翌日の早朝にアルム広場の朝市を散策して朝食を調達した後、タクシーでモンテカルロに向かい、午前10時前にパドックに入った。ピットガレージを含む、サーキットに最も近いエリアであるこのパドックには、通常パドックパスを所持したF1関係者しか立ち入ることはできない。
 パドック裏の敷地内には、各チームのモーターホームトラックたちがチームカラーも華やかに、1センチの狂いもなく綺麗に整列して停められている。この辺りはプレスやピットクルーに交じって、レーサー達が何の気なしにリラックスした表情で歩いているため、神宮は注意深く辺りを見回し、お目当ての男、デーモン・ヒルの姿を探した。
 デーモン・ヒルは92年にF1にデビューした33歳のイギリス人ドライバーで、1960年代に活躍し、F1とインディの両方でタイトルを獲得した伝説的ドライバー、グラハム・ヒルを父に持ち、デビュー2年目の昨年にはウィリアムズに移籍して早くも3勝を挙げ、チームメイトだったプロスト、マクラーレンのセナに次いでランキング3位となった。そして彼は、今年からウィリアムズに移籍してきたセナのチームメイトとなり、前回のサンマリノグランプリまでの、セナとの最後の数ヶ月間を共に過ごした相棒でもあった。
 程なくして神宮は、ウィリアムズチームの美しい濃紺のモーターホームのテラスで、シェフ自慢のパスタをほおばっているヒルを見つけることができた。ヒルはジョージー夫人とフリーセッションの前のひとときを過ごしていたが、その表情は少し緊張しているようにも感じられた。無理もない、同僚だったセナが事故死し、しかもその原因がまだ判明していないのだ。同じマシンに乗るヒルが動揺しているのも当然だ。そんな彼に立ち入るのはあまりにも忍びない気もしたが、当初の予定だったセナとの面会が実現しなかったため、急遽決定したヒルとのコンタクトは、アポイントすらとれていなかったのだ。できればゆっくりと話を聞いてもらうための約束だけでもこぎ着けたい、そう思った神宮は、無礼を承知でヒルに声をかけた。
「エクスキューズミー、ミスターヒル」神宮の言葉に、デーモン・ヒルは振り向いた。
「YES?」ヒルは少し困惑しながらも、愛想笑いで答えた。眉毛が太く、彫りが深い顔立ちをした男だった。
 
「再来年から、マツダイラのエースドライバーとして走ってもらいたい。」神宮は、用意していたマツダイラF1プロジェクトの資料をテーブルに広げると、単刀直入に話を切りだした。
「再来年?……おいおい、またずいぶんと先の話だな。」ヒルは苦笑してそう答えると、資料の一部を手に取って眺め始めた。
「もちろん今すぐに決めてくれとは言わないが、できればこのグランプリウィーク中に、ゆっくり話をする時間が欲しい。どうだろうか?」神宮は焦らずに、慎重に言葉を切り出す。ヒルは神宮の顔をじっと見つめた。その後しばし考え込むように口を尖らせた。
「他には、誰が候補に挙がっているんだ?」ヒルは尋ねた。
「他はいない。うちが現時点で考えてるのは、あなただけだ。」神宮は答えた。
「へえ、そりゃあ光栄だね。でもなぜオレなんだ?」ヒルは笑って質問を続けた。
「うちの社長のご指名でね。社長はセナのファンで、本当はセナを獲得したかったんだが、その夢が破れて、現時点ではナンバーワンのあなたに白羽の矢が立ったというわけだ。」神宮はお世辞が嫌いだった。だがらヒルに対しても、本音を明かした。相手の機嫌を取るよりも、相手と本音で向き合って言いたいことを率直に伝えたい、それが彼のスタイルだった。
「……なるほどね、実にわかりやすい発想だな。だがパドックの話じゃ、アイルトンがいなくなった今、ナンバーワンはシューマッハだという噂だぜ。特に今シーズンはここまで3連勝だしな。相手を間違えてないかい?」ヒルは半ば皮肉っぽく笑ってそう答えた。
「それは今の時点ではわからない。まだシーズンが始まって今回で4戦目だしな。私の見る限りでは、あなたとシューマッハの実力は非常に拮抗しているように思える。そしてうちの社長は、シューマッハを起用することは考えていない。」
「……へえ、そりゃまたどうして?」ヒルは興味深げに肩肘をついて神宮を眺めた。
「我々は、セナが勝てなかったシューマッハに、挑戦する立場でありたいからだ。」神宮はヒルの目を見てきっぱりとそう言った。それを聞いたヒルは、ニヤリと笑って2〜3度頷いた。そして彼はテーブルの上のオレンジジュースを飲み干すと、改めて口を開く。
「話は分かった。なかなか興味深い話だ。……だが今のオレには、アイルトンの意志を継いでタイトルを穫ることしか頭にない。オレの気持ちも、おたくの社長さんと一緒だ。シューマッハの快進撃をこれ以上続けさせるわけにはいかない。シューマッハの独走を止めるのはこのオレだ。だからその先のことは、まだ考えられないよ。それも2年も先のことなんてね。」ヒルもまた、神宮に対して本音を率直に語った。
 デーモン・ヒルという男は、人間として信頼できる男だ。神宮はそう感じた。神宮はこの数分間での会話で、ヒルと共に仕事がしてみたいと思った。いや、何としても彼を獲得したいとさえ思った。しかし今回は少しタイミングが悪い。何しろセナが死んで最初のレースなのだ。あまりにも短い時間だったが、とりあえずヒルという男に会えただけでも収穫だ。今回はこれ以上アプローチしない方がいいだろう。神宮はそう自分を納得させた。
「OK、今回は引き下がるよ。大事な時間を割いてしまって申し訳ない。決勝は優勝を期待しているよ。アイルトンのためにもね。」神宮は言った。
「もちろんだ。」ヒルは答えた。
「だが資料には目を通してくれ。マツダイラのことを、頭の片隅に留めておいて欲しいんだ。うちもこれから本格的に動き出すから、そのうちあなたの耳にも自然に入ってくるようになるだろう。今度はちゃんとアポを取って、改めて会いに来るよ。」神宮はそう言い残して立ち去ろうとした。
「……ミスタージングウ」一瞬間をおいて、ヒルは神宮を呼び止めた。神宮が振り返ると、彼はおもむろに椅子から立ち上がった。
「……オレは、今の環境に満足している。ウィリアムズはトップチームだし、マシンも文句なしの最強マシンだ。オレは今、勝てるマシンに乗り、タイトルを狙えるチームにいるんだ。そしてそれはおそらく、2年後も同じだ。オレは可能な限りこのチームに留まりたい。だから2年後に新興チームのマツダイラに乗ることは、たぶんあり得ないだろう。例えそれなりのポテンシャルをひっさげてきたとしてもね。」ヒルは真剣な顔つきで神宮に告げた。神宮はそれを聞いてにこりと笑い、一言こう言った。
「またいずれ会おう、ミスターヒル。」

 

 通常F1グランプリは、金曜日から一次予選が始まるが、モナコは別だった。F1グランプリの中で唯一モナコだけは木曜日に一次予選が行われ、金曜日にはF3などのサポートレースが行われる。そして土曜日の最終予選でスターティング・グリッドが決まり、日曜日の決勝レースがスタートするのだ。
 午後から始まる一次予選の前のフリーセッションが開始され、コースにマシンが出始めた。モンテカルロの街にはエギゾーストノートが響き渡り、事実上のF1グランプリの開幕を告げた。観客たちはいよいよその迫力に酔いしれ、モンテカルロは期待と興奮で沸き返る。ところが、そのフリーセッションの途中で突然危険を意味する赤旗が出され、セッションが中断してしまった。ヌーベル・シケインで誰かがクラッシュしたらしい。ピットレーンの後ろで観ていた神宮は、急いでシケインへと向かった。
 シケインではザウバー・メルセデスのマシンがコース上で大破していた。しかも運転していたカール・ベンドリンガーは意識がなく、担架に乗せられて搬送されるところだったのだ。神宮はそれを見て愕然とした。まただ、また大きな事故が起こった───。
 
 一次予選が終わった後、神宮はプレスルームに立ち寄った。プレスルームにはベンドリンガーの情報を得ようと、大勢のジャーナリストたちが詰めかけていた。彼らの話によると、ベンドリンガーはバリアに激しくヒットし、その際に頭部を強打したらしい。そして程なくして、ザウバー・メルセデスのプレスオフィサーから「ベンドリンガーは危篤、それもかなり危険な状態である」との発表がなされた。さらにザウバーは、チームのグランプリ出場辞退を決定したのだった。プレスルームは一気にざわめきだした。今年のF1は、何かが狂っている!
 思えば今シーズンは、開幕前から大きな事故が続いていた。ベネトン・フォードのJ・J・レートがシルバーストーンでのテスト中にクラッシュし、背骨の第五脊椎骨を損傷するという重傷を負った。フェラーリのジャン・アレジもテスト中に事故を起こして第2戦を欠場、そしてサンマリノではバリチェロが重傷を負い、ラッツェンバーガー、セナが命を落とした。今回のベンドリンガーの事故を含め、今シーズンは開幕前から第4戦までに、実に6人ものドライバーが病院に運びこまれているのだ。これはどう考えてもおかしい。各ドライバーそれぞれの単独事故と言うよりは、まるで今年のF1グランプリが何かに呪われているかのように、連鎖的に事故が起こっているように感じられる。マシンのメカニカルなレギュレーションが大幅に変更されることで、マシンの性格は急激に変化する。そしてそういう年には危険な事故が起こりやすくなると言われている。まさにその通説が、現実のものとなっているのである。
 
 日曜日、モナコグランプリ決勝のスタート前、スターティング・グリッド上ではセナを追悼するセレモニーが行われた。セナの指定席だったポールポジションにはブラジル国旗がペイントされ、このグリッドはセナを記念して、今後永久的に使われないことになった。
 レースは、自身初のポールポジションを獲得したミハエル・シューマッハが好スタートを切り、3番手からスタートしたデーモン・ヒルがそれに続いた。しかしヒルは2
番手スタートのミカ・ハッキネンに追突されそのままクラッシュ。ハッキネンと共にスタート後わずか数秒であっけなくリタイヤを喫してしまった。その後レースは極めて単調な展開となり、シューマッハが異次元的なスピードでトップを独走し、結局彼は一度もトップの座を明け渡すことなく、ポールポジション、ファステストラップ、フルラップリーダーと、自身通算6勝目となる開幕4連勝をグランドスラムで飾った。だがシューマッハを出迎えたチームボスのフラビオ・ブリアトーレは、モナコで勝利した喜びよりも、むしろ「よくぞ無事にゴールしてくれた」という思いでシューマッハを抱き寄せたのだった。そしてベンドリンガーも、危篤状態を脱した。
 モナコグランプリは、アイルトン・セナの聖域だった。セナはモナコに10回出走し、完走した8回は全て表彰台、しかもそのうち6回は優勝、89年からは実に5連勝中と、特にモナコでのセナは他者を全く寄せ付けない強さを発揮した。そのモナコマイスターと言われたセナが去り、今年、ミハエル・シューマッハがモナコを制圧した。モナコグランプリは、セナの跡を継いだ、新たなるモナコマイスターの誕生を告げたのだった───。
 
 
(つづく


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