CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4
※この物語はフィクションです。


 南極───面積1388万平方キロメートル(日本の約37倍)、最高峰標高4897メートル(ビンソンマシフ)、世界最低気温−89.2℃(1983年7月21日、旧ソ連のボストーク基地で観測)、地球最南の大陸は、1961年6月23日に発効した「南極条約」により、領土権主張が凍結され、現在も紳士条約として生きている。つまりどこの国の領土でもないので、首都もなければ、俗に言う「住民」はいないことになっている。
 南極圏に人が足を踏み入れるのは18世紀になってからだ。北極圏が有史以来、人類の活動や居住の舞台となってきたことに比べるとその歴史はまだ浅いと言える。冒険心に富んだ航海者が南極大陸の姿を求め、南の海を目指した。その一人、ジェームズ・クックは1733年、ついに南極圏突入を果たす。その後、19世紀初めには南極半島先端付近の陸地が発見され、20世紀に入ると、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊がそれぞれに南極点に立ち、そこに人類の足跡が初めて印される。彼らの南極探検は、イギリスのスコット隊とノルウェーのアムンゼン隊との二つの探検隊が同時に極点をめざしたこと、
アムンゼン隊が無事に到達する一方、スコット隊は遅れて南極に到達し、さらに帰路に全滅するという悲劇で幕を閉じたこと、の二点で冒険史上に「光と影」の象徴として残ることとなった。
 1957年から58年の国際地球観測年を迎えると、恒久的、組織的な調査・研究を行う、観測の時代が始まる。内陸の気候や、オーロラのメカニズム、ペンギンの生態など、ほとんど知られていなかった南極特有の現象が次第に明らかにされ、現在もなお探検、調査が続けられている。
 
 

 11月、神宮庄之助は、日本から1年に一度だけ東京・晴海埠頭を出港する南極行きの砕氷艦しらせに乗り込み、途中オーストラリアのフリーマントル港に寄港、12月初旬に一路南極へ向かった。そして12月下旬、彼はついに昭和基地のある、南極リュツォ・ホルム湾の東オングル島に至ったのだった。そこで彼は、氷点下マイナス40℃の世界を目の当たりにした。
 10月2日から3月12日までは真夜中でも明るく、そのうち11月23日から1月20日までの59日間は、太陽が沈むことはなく、地平線をゆっくりと転がるように、24時間でぐるりと一周するのだ。日本から約1万4千キロ離れたこの白銀の世界で、神宮は永遠のように長く静かな1日を体感した。休暇前に大きなプロジェクトに参加していた神宮は、時間に追われ、精密さを要求され、結果を求められ、まわりからの期待がプレッシャーとして大きく彼にのしかかっていたのだ。それがたたってか、一時は身体を壊したこともあった。それでも彼の携わったプロジェクトは予想以上の成功をもたらすこととなった。だから彼は、そのプロジェクトが終了したら、まっさきに長期休暇を取って南極に行こうと決めていたのだった。そして彼は今、その南極のまっただ中で、ただただその場に立ちつくしていた。
 休暇の後、特にこれと言って何か新しい仕事が控えているわけではない。大きなプロジェクトを成功させた彼は、その後のスケジュールをまったく空白にしたまま日常生活から飛び出してきたのだ。別に休暇の間ずっとこの
南極大陸に居座ろうというわけではなく、次の連絡船が来たらそれに便乗し、その後は気ままに別の国へ旅行に行こうと考えていた。だが、のんびりとした旅行の前に、まず初めにこの極地で、圧倒的な大自然の厳しさと長い一日を体験しておきたかったのだ。あるいは彼は、普段の日常でも無意識のうちに、自ら厳しい世界を選んでいたのかもしれない。厳しい世界こそ自分のいる場所だと、彼はわかっているのだ。
 しかし、何者にもじゃまされないと思われていた彼だけの時間は、思いがけないかたちで遮られることになった。日本から衛星通信が入っているという、基地からの無線が入ったのだ。
(……こんなところまで連絡が入るとは。まったく、便利な世の中になったものだな。)神宮は皮肉っぽく笑うと、スノーモービルにまたがり、基地へと戻った。
 
 基地に戻ると、観測隊の1人が彼に通信機を手渡した。相手は緊急の用があると言って、神宮が戻るまで30分以上も待ち続けていたのだという。神宮は防寒着のフードを外すと、通信機を受け取った。
「……はい、神宮ですが……」神宮はいぶかしげに相手に名乗る。
「いよ〜ショーさん!元気〜?オレだよオレ!」やたらハイテンションな声だった。
「……ま、松平……!」神宮は衛星通信の相手を知り、あきれて絶句した。
「どうよ、そっちは?今何℃ぐらいなの?」松平の調子のいい声が神宮の耳に響く。
「……今は、そうだな、4℃ぐらいかな。」神宮は壁に掛かっていた温度計を見て答えた。
「……マイナス?」
「……いや、プラスだ。」
「なんだ、結構暖かいんじゃん。こっちの最低気温と同じぐらいだなあ。」
「今は白夜のシーズンだからな。天候さえよければもう少し暖かくなることもある。」
「へえ〜、そうなんだ。マイナス40℃の世界っていうから、どんな極限の世界なんだろうと思ったら……案外大したことないんだなあ……」そのあっけらかんとした声を聞き、神宮は溜息混じりで首を横に振った。
「おいおい、冗談はその辺にしてくれよ。はるばる日本から気温の話をするために衛星電波を飛ばしているわけじゃないだろう。まったく、南極まで連絡してくるなんて、いったいどういう神経しているんだ?こっちは休暇中なんだぞ。」神宮は半ばいらだっていた。
「……ショーさん、悪いが休暇は終わりだ。F1に参戦するぞ。」相手は、突然唸るような低い声でそう告げた。神宮はそれを聞き、自分がよく知っているその男が、とんでもないことをしでかそうとしていることを悟ったのだった。



 
 静岡、井川山中・マツダイラテストコース『K−6』───アメリカモータースポーツの聖地インディアナポリスを思わせる、正オーバルのトラックの内側に、さらに複数のコーナーやシケインを設けたインフィールドセクションを持つこのサーキットは、マツダイラモータースの多くの資金を投入して建設された、近代的なサーキットだ。テストコースのため観客席こそ必要最小限に留められているが、ピット環境が整えられており、路面状態も非常に良い。タイムを正確に測定するためのセンサーや、マシンの挙動を随時捉えるカメラがコースの各所に設置され、マシンがコース場を走る様子やデータがすべてピットで把握できる、まさに最先端の技術の髄を結集した、理想的なテストコースなのだ。無論コース外にはサンドバリアやタイヤウォールなどが設けられており、安全面でも十分な対策が施されている。
 しかしその存在は日本国内でもほとんど知られておらず、マツダイラはこれまで極秘裏に、様々なチューンナップパーツやエアロパーツの開発、チューニングコンプリートカーのテストをこの『K−6』でおこない、優秀な製品やマシンを世に送り出してきた。そして今年、マツダイラはついにいちチューンナップメーカーの目標とも言えるオリジナルカーの市販化を実現させ、国内では12番目となる自動車メーカーとなったのだった。マツダイラのスーパーセダン「イエヤス」とコンパクトスポーツ「タケチヨ」は、この『K−6』での様々なテストや改良によって極限まで研ぎ澄まされた、まさに究極のスポーツカーであるという声も高い。
 
 この広大な敷地の一画、最終コーナーから1コーナーまでを結ぶ長いストレートの中央付近のピットゾーンでは、マツダイラのスタッフたちが十数名集まって作業をおこなっていた。彼らはガレージの中で、黄金に輝く1台のマシンを組み立てている最中だった。オープンホイール、いわゆるタイヤむき出しのそのマシンは一般的に「フォーミュラカー」と呼ばれ、戦闘機のような長く尖ったノーズを持ち、そのノーズの先とマシン最後部には大きな板のようなウィングが付いているのが特徴だ。航空力学の副産物として生み出されたフォーミュラカーは、空気がマシンを地面に押しつける力、いわゆるダウンフォースによってグリップを得るため、その原理を逆にすれば、理論的には空を飛ぶと言われている。
 そしてこの黄金のマシンは、フォーミュラカーの中でも世界最高峰、F1世界選手権の車両規定に基づいて開発された、まさに世界最速の部類に入るマシンだったのだ。マシンはガレージの中で沈黙し、ピットレーンを見据えながら、出撃の時をじっと待ち続けていた。
 向こうの方から1機のヘリコプターが、けたたましいプロペラ音を響かせながらサーキットの上空を低空で横切ってきた。ヘリはピットの上空でホバリングし、地上のスタッフたちは皆空を見上げる。ヘリはそのままピット後方に消えていき、やがてそのプロペラの連続音が、向こうの方で少しずつテンポを緩め始めた。どうやらサーキットの敷地内に着陸したようだ。
 
 ほどなくして、1人の男が大きなボストンバックを持ちながら、ピットレーンをつかつかと早足で歩いて出てきた。髪が少し長めの、体格のいい無骨そうな男だ。彼はスタッフたちが作業するガレージに顔を出した。
「よっ!」神宮庄之助は、ボストンバッグを持っていない方の手を軽く挙げた。
「ショーさん!お帰りなさい!どうでした?南極は……」スタッフの1人が声をかけた。
「まずその質問をされると思ってたよ。いや、ほんと寒かったよ。ま、南極だから当たり前なんだけどな。」神宮は笑みを見せた。
「シロクマに襲われませんでしたか?」
「アホ!そりゃ北極だ!南極と言えばペンギンだろう!」神宮は笑って答えた。
「あ、そうか!……しかし大変でしたね、うちの社長に急に呼び出されて……」スタッフの青年は照れくさそうに話題を変えた。
「……まったくだ。ま、チャーター機で帰ってこられたから、ラクはラクだったがな。しかし空港からここまでヘリで直行というのは、あんまりだよなあ。」神宮はそう言いながら、ガレージの奥で組み立てられているF1マシンが気になって仕方がないといった様子だった。
「……これが噂のF1マシンか。」神宮は黄金のマシンに近づき、しげしげと各部を覗き込みながらマシンを観察し始めた。
「ええ、正式名称は『MSーP1』、だそうです。」
「……黄金のマシンとは、いかにも悪趣味な社長らしいな。」
「……本人は当初からゴールドにこだわっていたみたいですけどね。」
「しかし、形は今年のウィリアムズのマシンにそっくりだなあ……」
「そりゃあまあ、チャンピオンカーですからねえ。参考にしている部分は多いですよ。」
「デザイナーは?」
「……ええと確か、マッコイ・ナックさんとかいう人です。」
「……ふうん……知らねえなあ……」
「社長がどっかから連れてきたみたいですよ。」
「……へえ。……で、社長は?」
「ああ、たぶん食堂でタバコ吸ってると思いますよ。」
 
 ピット裏には、まるで飛行場の管制塔のような打ちっ放しの建物があり、その1階は広い食堂になっていた。まだほとんど使われていないのか、壁もテーブルも真っ白のままで、眩しいほどきれいな状態だった。しかし壁には時計が一つ掛けられているだけで、とても殺風景だ。厨房も完備されているのだが、今日はさすがに誰もいないようだ。ただ一人、窓際のテーブルで雑誌を広げながらたばこを吸っている、1人の男を除いては。
 神宮は食堂に入り、その男のテーブルに歩み寄った。テーブルの男は振り向き、神宮に向かって微笑みながら手を挙げた。
「やあ、来たねショーさん、お帰り〜」松平は座ったまま、ご機嫌そうに神宮を出迎えた。
「……お帰りじゃねえよ……ったくいつも強引なやつだなあ……」神宮はテーブルの上にボストンバックをドッカと置き、松平の横の席に腰を下ろした。
「悪い悪い!この埋め合わせはいつか必ずするからさ!」松平は軽い調子で手を合わせた。
「……お前のそれはいつもあてにならないからなあ……」神宮はあきれながら漏らした。
「で、マシンはもう見た?」松平は、神宮の言葉を回避するように本題に入った。
「ああ、見てきたよ。まさか金ぴかとは……相変わらず悪趣味なやつだ。」
「そうか?」
「……まあ、珍しくネーミングは悪くないけどな。『MSーP1』だったっけ?」
「そう!『マツダイラスペシャル・プロトタイプ1号』の略だ!」
「……やっぱ悪趣味だ……」神宮は溜息をついた。そのとき、ピットの方から甲高いエンジン音が鳴り響き始めた。
「……お、ウォーミングアップが始まるようだな。」松平は窓の方に目をやった。
「エンジンは何を積んでいるんだ?」神宮も同じ方を向き、気になっていたことを訊ねた。
「ハートエンジンだ。」松平は窓の方を向いたまま答えた。
「……ハートか……加速力はそこそこいいが、高速では厳しいな。」
「ああ、まあな。だがハートは仮のエンジンだ。参戦するまでには、何とかフォードエンジンを口説き落とすつもりだ。もちろんハートには内緒だよ。」
 
「……それで、いつから参戦するんだ?」神宮は松平に向き直った。
「2年後だ。」松平は窓の方を見つめたままそう答えた。
「2年後?……なんだ、まだ時間はたっぷりあるじゃないか。おいおい!それじゃわざわざ南極から引き戻さなくても、オレが休暇を全うしてからで十分間に合ったんじゃないのか?」
「……いや、実はそうも言ってられなくなっちまったんだ。」松平は首を横に振った。
「なんでよ、FIAから12番目のチーム枠を確保したとはいえ、まだ公式にはF1に参戦すると発表したわけじゃないだろうが。」神宮は眉をひそめて問いただした。すると松平は、先ほどまで読んでいたテーブルの上の雑誌を神宮の方に押しやった。開かれたページには、見開きでデカデカと隠し撮りされた黄金のマシン、MSーP1が掲載されており、極太のゴシック体で『日本から新たなる挑戦者、現る!』という英語の見出しが添えられていた。
「何じゃこりゃ!」神宮は目にするなり、半ばあきれたような声で驚きの声を挙げた。
「……『モーターワールド』に、スッパ抜かれた……。」松平はばつの悪そうに答えた。
「全米で読まれている雑誌じゃねーか……またメジャーなところにやられたなあ。」
「……ああ、オレとしたことが……うかつだったよ。」
「……なるほどな。つまり、チーム枠を確保して、F1に参戦することが世に知られた以上、例え参戦前とはいえ、年間のテスト日数もFIAの制限に従わないと、他のチームが黙っちゃいないってわけだな。」神宮は腕を組んで松平の憂いを言い当てた。
「さすがショーさん、その通りだよ。まあおそらく2年前から束縛されることはないだろうけど、少なくとも参戦1年前からは、他のチームと同じ日数しかテストをさせてはもらえないだろうな。従わなけれゃ参戦前からひんしゅくもんだよ。それに『モーターワールド』のスクープを聞きつけてマスコミが騒ぎ出したら、この秘密のアジト『K−6』の存在が知られるのも時間の問題だからな。だからのんびりとマイペースで準備を進めるわけにはいかなくなったと言うわけさ。あの『モーターワールド』のレッドフォード、やってくれるよ。」
「……『Gold W
ich Runs』……『走る金塊』……か、あれにぴったりのニックネームじゃないか。」神宮は記事を読みながら意地悪そうに言った。
「よしてよショーさん……。まんまじゃん、ひねりがない。どうせならもっと格好いいニックネームを付けて欲しかったよ。『Knight of Gold』とかね。」
「……それ、何かのマンガであったよなあ……。」
「……あんなに繊細な『マツダイラスペシャル』を、『金塊』呼ばわり?」
「……どれ……じゃあどのあたりが『スペシャル』なのか、じっくりと見せてもらおうか。」そう言って神宮はイスから腰を上げると、自分のボストンバッグを肩に担いだ。
「びびるなよ。」松平もそう言いながら、テーブルの雑誌を掴んで立ち上がった。



 2人がピットガレージに着くと、すでに黄金のマシンMSーP1はジャッキを外され、エンジンにも火が入り、いつでも行けるぞと言わんばかりでうなり声を挙げていた。そしてその横では、マツダイラのゴールドのレーシングスーツに身を包んだ金髪で長身のドライバーが、グローブをはめ、ヘルメットを被ろうとしていた。彼がヘルメットに頭を滑り込ませると、ヘルメットのバイザーから、くりくりとした青い瞳が出てきた。
「……若いな。」神宮はドライバーを見て、そう漏らした。
「ああ、今年のドイツF3チャンピオン、ミハエル・カッズ・クーンだ。ハタチだって。」
「……ふうん……」
「……え?……知らないの?4勝したんだけど。」松平は驚いて聞き返した。
「……知らん……」神宮は素っ気なく答えた。
 ミハエル・カッズ・クーンはマシンのモノコックにまたいで入ると、腰を下ろし、両腕を縮ませるようにしながら潜り込ませて狭いモノコックに収まった。メカニックにステアリングを渡されると、カッズ・クーンは自分でそれを取り付け、左右に回して感触を確かめ、メカニックにグッドサインを出した。そして彼はシートベルトを装着し、松平の方に顔を向けた。
「行って来い!」松平は言った。それを聞いてカッズ・クーンはこくりと頷き、アクセルを2〜3度踏んでエンジンを吹かす。彼の操縦する黄金のマシンが、ゆっくりとガレージから顔を出した。太陽がマシンを照らし出し、眩しいほどに輝く。マシンはピットレーンに出ると、そのまま激しいエグゾーストノートを響かせながら加速し、コースへと走り去っていった。松平と神宮はそれを見送ってから、ピットレーンを横切り、コース沿いのウォールに設置されたオペレーティングブースに隣り合わせで腰を下ろした。
 オペレーティングブースはウォールよりも高い位置に設置されており、最終コーナーから第1コーナーまでを結ぶ長い直線を見下ろせるようになっている。ブースにはカーボン製の屋根があり、5つ並べられたイスの前のテーブルには、様々な計器類がぎっしりと並んでいた。頭の上にはモニターが5つ取り付けられており、現在はそのうち4つに各セクションのカメラが捉えた映像、残る一つにはラップタイムを表示する画面が映し出されていた。2人が無線交信用のヘッドフォンを装着して各計器の動作チェックをしているうちに、早くも最終コーナーを抜けてきたMSーP1が甲高い音を響かせ、一瞬のうちにブースの前を通過していった。直線時速は約300キロ、2人は揃ってその姿を見逃した。
 
「ありゃ!もう帰ってきたのか!……やっぱりF1マシンは速いなあ……」神宮はぽっかりと口を開け、MSーP1が消えていった1コーナーを眺めた。
「なんたって首を振っている間に通り過ぎていくからな。だから肉眼で見るより、モニターで見ていた方がいいぞ。」松平は得意げに言った。
「空力のスペシャリストとはいえ、まさかF1マシンまでこさえちまうとはなあ……。」
「まあな、もう市販車での空力パーツの開発はやり尽くしたよ。」松平は笑いながらそう答えた。2人は久しぶりの再会と言うこともあり会話も弾んでいたのだが、マシンの周回も3周目に入ると、そろそろ頭上のモニターの方に目を向け始めた。松平は通訳を呼び出して隣に座らせると、一言二言指示を出し、無線でそれをドライバーに伝えさせる。3人の付けたヘッドフォンから、カッズ・クーンの「ラジャー」という声が聞こえた。
 MSーP1は4周目を終えて最終コーナーを立ち上がってくる。しかし今回はそのシフトチェンジのタイミングが、先ほどまでと比べて長めだ。カッズ・クーンが低速ギアで引っ張り、エンジンを高回転で回して加速を上げてゆく。MSーP1はキーンという金属音のような音を響かせながら、一瞬のうちに直線を走り抜けていった。
「1〜2ラップ攻めてみろと指示した。」松平は腕を組んでモニターを見つめている。神宮もMSーP1の走りを追うモニターに目を向けた。
 第一コーナー、シケイン、ヘアピンカーブ、高速コーナーと、それぞれのセクションを通過するたびに、その映像をアサインされた4つのモニターが順番に映し出していく。松平と神宮の2人は、揃って腕を組みながらそのモニターを順番に目で追い、カッズ・クーンの走りを観察していた。最後のモニターからMSーP1の姿が消えてほどなくして、最終コーナーの方からエンジン音が聞こえ、肉眼でその姿を確認できるようになった。MSーP1は、1周前と同じように加速しながらストレートを通過していった。
「なるほど、シケインの挙動は結構クイックだな。ライン取りも悪くない。」
「ああ、名前のごとく、まさにカッズ(Katze=猫)のようにすばしっこいやつだよ。えーと最初のタイムは……1分02秒78か。」松平はラップタイムを表示する5つ目のモニターを見て呟いた。
「それって速いのか?」神宮は尋ねた

「……わからん。」松平はモニターを追いながら答えた。
「……おい……わからんじゃ困るだろうが!」神宮は思わずツッコミを入れる。
「だってこの『K−6』でF1マシンを走らせるの、MSーP1が初めてなんだぜぇ?速いのか遅いのかなんてまだわかるわけないじゃない、比べるものがないんだから……。」松平は眉をハの字にして、わざとらしい困り顔を作った。
「……そりゃまあそうだけどよぉ……」神宮はあきれた。
「でもまあ、やつのベストタイムじゃない。先週56秒台を記録しているからな。まだタイヤも暖まっていないだろうから、そのうち徐々にタイムアップしていくだろう。」
 
「彼はどういうドライバーなんだ?」モニターを見つめたまま、神宮は尋ねた。
「……そうだなあ、セッティングを弱オーバーステアにしたがる傾向があるかな。弱オーバーステアでキビキビと動くタイプのドライバーなんじゃないか?コーナー入口でのブレーキングがきついから、タイヤの減りが早いけどね。」
「……ふうん……。弱オーバーステアが好みのドライバーは、ちょっとでもアンダーが出ると全然速く走れなくなることが多いからなあ。ちょっと心配だな。」
「ああ、言えてるね。」松平は神宮の意見に同意した。
 カッズ・クーンはその後も周回を続け、10ラップ目に56秒28の自己ベストタイムを更新した。松平はよしよしと頷くと、通訳にピットインするよう指示を出した。程なくしてMSーP1はピットレーンを徐行しながら進入してきた。カッズ・クーンは一旦ガレージを通り過ぎ、バックギアでテールからマシンをガレージに入れた。それを待っていたメカニックの数人がマシンを取り囲み、各部のチェックをし始める。カッズ・クーンはモノコックに収まったまま、エンジニアにマシンの感触をフィードバックした。テスト走行では、ドライバーが如何にマシンの挙動や、エンジンの具合などの正確な情報をフィードバックするかによって、マシン開発に大きな影響を及ぼすのだ。
「……で、オレは何をすればいいんだ?」神宮はガレージの様子を眺めながら訊ねた。
「……もちろん、『スワローの奇跡』の再現さ。」松平はにやりと笑ってそう答えた。
「おいおい、マジかよ……ありゃあ言ってみりゃまぐれみたいなもんだ。上位陣が次々に脱落していったからな。まさにタナボタだ。それに、お前んとこの技術によるところも大きい。」神宮は露骨に怪訝そうな表情を松平に向けた。
「棚からぼた餅が落ちてきても、その下にいなけりゃぼた餅は床に落ちてしまう。だがショーさんの『チーム・スワロー』は、ぼた餅にありつけたじゃないか。それに、確かにうちの技術もあの結果には少なからず貢献していると自負している。だからまた一緒に組もうって言ってるんじゃないか。」松平は不敵な笑みを浮かべながらそう言った。
「……ケッ……期待外れに終わってもしらんぞ。」神宮はムスッとして顔を背けた。


 
 東京・元麻布───『モーターワールド』編集部のマキシ・レッドフォードは、表通りから1本中に入った閑静な住宅街にある、1件の家を訪ねた。
「……はい……」女性の声がインターホンに出た。
「ハロー、ミセスウェスター。レッドフォードだ。」マキシは嬉しそうに答えた。
「ああ、いらっしゃい、今開けるわ。」
 3階建ての上品な一軒家に住むリヴェール・ウェスターは、日本に在住するイギリス人モータースポーツ・ジャーナリストだ。彼女とマキシとの付き合いは長く、マキシは日本へ来るたびによく彼女を訪ねた。リヴェールは海外のみならず、日本国内のモータースポーツにも精通し、シーズン中は各国のレースに取材に赴き、様々なメディアで活躍しているフリーライターだ。マキシにとっては、彼女は日本では数少ない親友であると同時に、貴重な情報源の一つでもある。リヴェールはマキシをリビングへと案内すると、温かい紅茶を用意して、久しい友人をもてなした。
「コーヒーの方が良かったかしら?」リヴェールは尋ねた。
「いや、紅茶でいいよ。」マキシはそう言ってカップに口を付けた。
「……それで、いつ日本に?」リヴェールはマキシとテーブルを挟んでソファーに腰掛けた。
「3週間前だよ。マツダイラのことを調べているんだ。」
「読んだわよ、クリスマス特集号。向こうの友達に送ってもらったの。相変わらず無鉄砲な人ね、あなたって。」リヴェールは微笑んだ。
「ああ、あの時は大変だったよ。この年で木登りをするとは思わなかった。ま、おかげでいい写真が撮れたけどね。」マキシも笑って答える。
「まあ!隠し撮りだったの?それじゃほとんど不法侵入じゃない!……じゃあ、原稿は日本で書いて本社に送ったのね。」
「そう、まだ日本で調べたいことが山ほどあるからね。何しろマツダイラという会社は、謎だらけだから……」と言いかけ、マキシはおもむろに「そうだリヴェール、マツダイラの事で、君何か知らないかい?何でもいいんだけど……。」と話を切りだした。
「……初めからそれを聞くために来たんでしょ?」リヴェールは笑った。
「……いや、まあそれだけじゃないんだけどね……」マキシは照れくさそうに頭を掻いた。
 
「そうねえ、全日本GT選手権なんかではよく名前を見るけど、フォーミュラレースでは見たことないわね。あの会社は市販車ベースのチューニングパーツの製造が主だったから。中でもRXー7とかロードスターとか、マツダのクルマが多いみたい。実際あそこの社長も、ちょっと前までユーノス・コスモに乗っていたらしいわ。もちろん中古だけど。」
「……よくそんなマニアックなことまで知っているね……」マキシは感心するというよりも、意外な顔つきでリヴェールの話を聞いていた。
「社長のケン・マツダイラとは、一度面識があるのよ。」
「え?ど、どこで?」
「ル・マン。」
「何だって?いつ?」マキシは思わず驚きの声を挙げた。
「今年よ。マツダイラは主に空力パーツを得意とする会社で、今年プライベートチームとしてル・マン24時間耐久レースに初参戦した『チーム・スワロー』という無名のチームに、空力部門として関わっていたのよ。そこのチームオーナーとは古い付き合いなんだって。」
「……『チーム・スワロー』……確か初参戦で、しかもワークスじゃなく、プライベーターのチームで4位入賞という快挙を成し遂げて話題になったよなあ。」
「そう、チームオーナーはショーノスケ・ジングウね。これまでも様々なモータースポーツにアドバイザーとして携わってきて、その卓越した戦略センスが定評のある人物よ。」
「……つまり、マツダイラはその空力技術で、すでに世界3大レースの一つ、ル・マンで結果を出しているということか……。」マキシは手を顎に持っていき、考え込んだ。
「……今年のル・マンは優勝候補の何台かがリタイヤして、かなり波乱含みだったから。」
「ベース車両は何だったっけ?」
「……確か、フォード製じゃなかったかしら。」
「……フォードねえ……」
「関係ないかもしれないけど、フォードって、マツダと提携しているんだったわよね。」
「……F1でもフォードエンジンを積むつもりなのか?……ん?待てよ、もしかしてマツダイラは、F1でもその親友のジングウって人物と組むつもりか?」
「……そうね、その可能性は大いに考えられるわね。彼ら、本当に仲良しみたいだし。それにF1に初めて参戦するマツダイラにとって、海外でレースに関わっていたジングウは、とても貴重な存在だと思うわ。何しろ過去の例を見ても、ニューカマーの参戦1年目は、慣れないレース戦略でライバルたちに差を付けられるのは必至だから。」
「テストドライバーがミハエル・カッズ・クーンというのも腑に落ちないな。カッズ・クーンはドイツF3チャンピオンになって勢いに乗っているというのに、よくそんな時期に、日本の無名チームのテストドライバーなんか引き受けたよなあ……現役を捨ててまで……。」
「あら?ご存じなかったの?彼は来シーズン、全日本F3選手権に出場するのよ。」
「全日本F3?……そうか!彼はそのためにわざわざ日本に来日したのか!知らなかった!」
「マツダイラのテストドライバーを今後も両立させていくとなると、カッズ・クーンにとっては、願ってもないメリットになるわね。」
「確かに!F3でもう1年走りながら、同じ日本国内でF1マシンを経験できるわけだ。しかもマツダイラの方からオファーがあったらしいからな。」
「F1の速さに慣れていればF3で戦うにも有利だし、長い目で見れば、F1にステップアップしても、まったく初めてF1マシンに乗るルーキーと比べても、とても有利だわね。」
「……なるほどなるほど……」マキシはリヴェールの話にうんうんと頷く。
「でも、そんなことも知らなかったなんて、ファー・イースト・リサーチ社もまだまだね。」
「……うちが強いのは、主に欧米の方だからね……」マキシは苦笑した。
「少しは参考になったかしら?もちろんすべて推測の域を出ないけど。」
「ああ、大いに参考になったよ!ありがとうリヴェラ!来て良かった!」マキシはそう言うと突然立ち上がり、上着とショルダーバッグを持って急いでリビングを飛び出す。
「え?ちょ……もう行くの?」リヴェールも慌てて立ち上がり、マキシを玄関まで見送る。
「また今度仕事以外でゆっくりと会いに来るから!じゃあね!……あ、紅茶ごちそうさま!」マキシはいそいそと靴を履きながらそう言って、そのまま一目散に出ていってしまった。残されたリヴェールは、玄関で立ちつくしたまま、腰に手を当てて溜息をついた。
「……まったく、あなたがゆっくり会いに来たことなんてあったかしら?」

(つづく)


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