CHAPTER JUMP  1 - 2 - 3 - 4
※この物語はフィクションです。


 11月中旬、ニューヨーク・マンハッタン島───アメリカ経済の象徴とも言えるこの小さな島には、多くの一流企業が集まる超高層ビルが肩を並べて所狭しとそびえ立ち、鏡張りの窓が無機質な摩天楼を映し出していた。それ故一見他のビルと同化してしまっているようにも思えるが、そうやって摩天楼はそれぞれが互いに同化し合って、マンハッタンという一つの巨大なオブジェクトを形成しているのだ。
  そ
のビジネス街の一角にそびえ立つファー・イースト・リサーチ社は、世界各国のあらゆる市販車の克明なデータを調査・収集し、それをデータベース化して管理している企業だ。そしてその80階建てのビルの中に、彼のオフィス『モーターワールド』編集部がある。
 マキシ・レッドフォードは、フランスへの出張からようやく戻り、彼のライフワークのベースキャンプとも言えるファー・イースト・リサーチ社の前に降り立った。疲れてはいるが、今回の出張では大きな収穫があった。タクシーから降りると、甘いマスクから自然に微笑みがこぼれていた。白い息も心なしか弾んでいるようだ。トランクから荷物を降ろし、マキシは嬉しそうに早足でビルの中へと入っていった。
 
 マキシのオフィスは、このビルの65階にある。高速エレベーターはいつものように彼の降りる数字まで規則正しくカウントしていくが、今日ほどそれが長く感じられたことはない。ビッグニュースを携えて出社するときはいつもそうだ。マキシは落ち着かなげに指で壁をカタカタと鳴らすが、思い直して長身でスレンダーな身体を壁にもたれかけ、腕を組んでじっとすることにした。幸いなことにマキシを乗せたエレベーターは、途中で一度も止まることなく、速やかに彼を目的地へといざなった。マキシはエレベーターを降りると、一旦荷物を降ろして短く切り揃えられた髪の毛を両手で梳かし、大きく深呼吸してから、『モーターワールド』編集部の扉を開けた。
 
 
「ようみんな!知らせは聞いたかい?」オフィスに入るなり、マキシはいきなり大声で叫んだ。それを見た編集部の同僚たちは一斉に振り返り、マキシの帰還を喜んだ。
「お帰りマキシ、聞いたよ、ねばり強く交渉した甲斐があったな。」
「ああ、まさに粘り勝ちってとこだな。他社が殺到してたんで諦めかけていたんだが、とにかく約束はばっちりとこぎ着けた。」マキシは親指を立ててニカッと笑った。
「今夜は盛大にやろう。いつものとこでいいだろ?」同僚がマキシの肩に手を乗せる。
「……おいおい、とりあえず休ませてくれよ。今夜は早く眠りたいよ……。何しろバミューダ沖で乱気流に巻き込まれたからな。ろくに眠れなかったよ……。」マキシは肩に乗った同僚の手を外し、自分のデスクで書類を整理しながら苦笑した。
「とりあえず誰か、濃いコーヒーを入れてくれないか?」自分の席にようやくドッカと腰を下ろし、マキシは大きく伸びをした。
「マキシ、さっそく編集長がお呼びよ。コーヒー、そっちに持っていくから。」
「はいはい、そりゃ呼ぶだろうよ。首を長くして待っていたんだろうからね。」マキシは2〜3度首を回すと、座ったばかりの椅子から勢いよく立ち上がった。

「編集長、ただいま戻りました。」マキシはノックもせずにぶっきらぼうに扉を開け、ご機嫌な顔つきで部屋にずかずかと入った。部屋の奥でデスクに向かっていた『モーターワールド』の編集長サムは、その声に顔を上げた。白髪交じりの、恰幅のいい初老の男だ。
「ご苦労だったなレッドフォード。メールは読んだよ、よくやってくれた。この分だとクリスマス特集号には間に合いそうだな。」
「今は渦中の人ですからね、苦労しましたよほんとに。しかしまあ、クリスマス特集号のメインとしては文句なしでしょう。『アラン・プロスト、引退の真相』、とにかく当日はプロストから、本音を引き出して見せますよ。」マキシは自信満々の表情でソファーに腰掛け、同僚が持ってきたコーヒーに口を付けた。その様子を見てサムは、少し困ったなというそぶりでポリポリとこめかみを掻きながらゆっくりと席を立ち上がると、デスクの縁に座り直し、改めて口を開いた。
「……マキシ、プロストのインタビューなんだが、他の者にやらせようと思っているんだ。」サムはそう言ったが、マキシはよく聞き取れなかったのか、コーヒーカップをテーブルに置くと、サムに向き直った。
「……え?今、何と?」
「お前に、別にやって欲しい仕事ができたんだよ。」サムの言葉に、マキシは目を見開いた。
「……ち、ちょっと待って下さいよ!プロストとの交渉をまとめたのは僕ですよ!この交渉を成立させるために、僕がどれだけ奔走したと思っているんですか!」マキシはソファーから立ち上がると手を激しく振り回して抗議した。
「お前の努力と功績はもちろん評価するよ、よくやってくれた。」
「だったら、プロストとのインタビューも僕にやらせて下さいよ!」
「時間がないんだマキシ、今度の仕事も重要な仕事なんだ!頼むから黙ってこれを受け取ってくれないか?」サムはそう言ってマキシをなだめ、封筒を手渡した。
「何ですかこれは?」
「日本行きの航空券だ。」
 
 
 翌日、マキシは成田行き航空機のビジネスクラスで、独りふてくされていた。頬杖をついてぼんやりと窓の外の広がる雲海を眺め、鼻から溜息をつく。
(……まったくサムのやつ、人を西へ東へホイホイと飛ばしてくれるぜ、まるで電子メールのように……。くそっ!プロストとの独占インタビューにこぎ着けたのは僕だぞ!)マキシは自分の力でようやくモノにした大きな仕事から外され、しかもフランス帰りの翌日に、休む間もなく今度は日本に飛ばされ、疲れが溜まっているせいもあり、相当腹が立っていた。それでも仕事熱心で真面目なマキシは、仕事は仕事だ、愚痴をこぼしていても何も変わらないことなど分かり切っている、と自分に言い聞かせると、気を取り直して新しい仕事の資料に目を向けることにした。
 
 マキシの目の前には、3枚の引き伸ばされた写真が広げられていた。そのうち2枚はコンセプトカーの写真、そして残る1枚は、1人の日本人男性の顔写真だ。今年のデトロイド・モーターショーに出展された、『マツダイラ』なる無名の日本メーカーのコンセプトカーが、この冬に限定車として市販化されたのだという。マキシの表向きの仕事は、ファー・イースト・リサーチ社の基本業務である、新型車のリサーチだった。しかし、編集長サムに命じられた裏の仕事は、この3枚目の写真の男、マツダイラの社長ケン・マツダイラとコンタクトを取り、ある情報を探るというものだった。
(インタビューは誰でもできる、だがこの仕事はお前にしかできない……か。サムのやつ、殺し文句が上手いよ。……それにしても、このマツダイラってメーカーは、いったいどういう会社なんだ……?)
 
 今年のデトロイド・モーターショーには、もちろんマキシも足を運んだ。例年に漏れず、今年も世界各国の自動車メーカーが斬新で奇抜なアイディアをふんだんに盛り込んだコンセプトカーを持ち込んだのだが、その中でも特に異色を放っていたのが、デトロイドに初出展した
マツダイラだった。未来的でデジタルな雰囲気の会場の中で、マツダイラのブースは、まるで江戸時代の日本を連想させる雰囲気を醸し出していたのだ。出展車種は2台、1台はスーパーセダン『イエヤス』、そしてもう1台はコンパクトスポーツカーの『タケチヨ』だ。流線型フォルムのマシンがひしめく中、この2台は自動車デザインの常識を大きく覆す有機的なボディラインが特徴で、特にスーパーセダン『イエヤス』は全幅2メートルを越えるボディサイズとも相まって、その姿は一目見て深く瞼に焼き付くほどの圧倒的な存在感を放っていた。
(……確かに大胆かつクラシカルなデザインは独創性も高い。だが、これほどまでに奇抜なクルマが、果たして売れるのだろうか。大手日本メーカーのほとんどは欧米に習って、まるで複製のようなスタイリッシュカーを揃いも揃って作っているというのに……。)



 日本・静岡県───日本列島本州でも、特に四季を通じて温暖で快適な気候に恵まれたこの土地は、日本の代名詞とも呼べる緑茶の栽培が盛んだ。午後1時を少し回った頃に実際この地に降り立ったマキシは、ニューヨークと比べてはるかに暖かいと、まず実感した。噂通りの暖かさだ。成田空港から東京駅までは何かと徒歩での移動が多く、マキシはまったく休むことができなかった。ところが東京駅から静岡駅までは新幹線でわずか1時間、逆に時間が短すぎて、やっぱりマキシはほとんど休むことができなかった。疲れ果てた身体をとにかくゆっくりと休めようと、マキシはすぐにタクシーを拾い、ホテルへと直行した。
 東京と比べると、静岡は高層ビルが圧倒的に少ない。街は駅前から続く近代的なアーケードに沿って様々な店舗が建ち並び、活気もあり人混みもそれなりにあるにはあるのだが、比較的交通の便はよく、マキシを乗せたタクシーは渋滞に巻き込まれることもなく、スムーズにホテルへと到着した。うたた寝しかけていたマキシは、すぐに運転手に起こされ眠い目を擦った。
 
 
 ニューヨークを発つ前、マキシは「チェックインして部屋に入ったら、シャワーの前にまずアポイントメントを取れ」と何度もサムにくぎを差されていた。そんなことを言われたのは初めてのことだ。サムは何をそんなにあせっているのだろうか。真面目で仕事熱心なマキシは、その偉大なる上司の命令に従い、部屋に入ると上着と靴を脱ぎ捨て、そのままベッドに頭からダイビングし、ベッド脇の電話に手を伸ばした。マツダイラ本社の電話番号はアタッシュケースの資料の束のどこかに挟んでいたが、ホテルマンが今まさに持ち込んでいる荷物を広げるのはかったるい。こういうときはフロントに調べさせるに限る。そのために高いホテルを手配したのだ。使えるものは惜しみなく使え、それが彼のいつものスタイルだった。
 ほどなくしてマツダイラ本社の電話番号は判明した。電話の横に置かれたメモ用紙にペンを走らせてフロントに礼を言うと、マキシは受話器を置き、すぐさまかけ直した。
 
「はい、マツダイラモータースです。」女性の声だった。
「ハロー、私はニューヨークの『モーターワールド』編集部のレッドフォードです。」マキシは流ちょうな日本語で電話の主に名乗った。
「……は、はあ、『ウォーターワールド』の……」電話の主はあたふたと慌てているようだ。外国人からの電話だとわかったのだろう。日本の一般庶民が外国人と話すとたいてい慌てふためく理由が、マキシにはわからなかった。
「……『モーターワールド』、です。ミスターケン・マツダイラにインタビューを申し込みたいのですが。」単刀直入にマキシは用件を述べた。
「は、はい、かしこまりました。少々お待ちくださいませ。」女性の声の後、電話は保留音に切り替わる。
(……『ウォーターワールド』……ケビン・コスナーかオレは……。)待つ間マキシは苦笑した。映画通のマキシにとって、理解しがたい映画の一つだったからだ。数分して、電話の主が戻ってきた。
「『モーターワールド』編集部のレッドフォード様ですね。お話は貴社から伺っております。お約束は明日の午前10時から11時までの1時間でよろしいでしょうか?」
「あ、明日……?」ずいぶん手回しが早いなと思いつつ、マキシは指定された時間をメモし、受話器を置いた。
(サムが事前に連絡していたのか……やけにスムーズにアポが取れたな。)
 
 
 翌朝、マキシは約束の時間の5分前に、郊外にあるマツダイラの本社に着いた。工場と事務館が隣接した、3階建てのそれほど大規模ではない建物だ。まわりは山に囲まれ、県道からは500メートルほど離れている。敷地面積は小さなフットボール場並みと言ったところか。
 マキシが事務館に入ると、すぐさま受付社員の1人が対応し、2階にある社長室へと案内された。社長室の前で社員がノックして「レッドフォード様がお見えになりました。」とドア越しに伝えると、ドアの向こうから「お通しして」という返事が返ってきた。マキシがドアを開けると、そこには1人のYシャツにネクタイ姿の中年男性が立っていた。マキシの目的の相手である、マツダイラ・モータース社長ケン・マツダイラだった。
「ようこそミスター……」ケン・マツダイラは右手を差し出し、にこやかな表情でマキシを出迎えた。顔は二枚目で体つきも比較的スリムなのだが、頭のてっぺんにほとんど髪の毛が残っていないのが妙にアンバランスな中年男性だった。
「……レッドフォードです。よろしく。」マキシはケン・マツダイラと握手を交わした。
「ミスターレッドフォード、こちらこそよろしく。はるばるお越し頂いて恐縮です。さあ、おかけになって下さい。」ケン・マツダイラの言われるままに、マキシは応接用のソファーに腰を下ろし、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
「『モーターワールド』は私も何号か持っています。以前渡米した際に購入したものです。その全米で発行されている格調高い自動車雑誌に、我が社のクルマが掲載されるのはとても光栄です。」ケン・マツダイラは妙に色っぽい物腰で口を開いた。
「我々は世界中のあらゆる市販車を網羅するのが仕事ですから。」マキシは答えた。
「ではそのお目当てのイエヤスとタケチヨを、早速ご覧になりますか?」
「……それはもちろんですが、ミスターマツダイラ、その前にあなたにも、いくつかご質問をさせていただいても?」
「ええ、別に構いませんよ。では、クルマは後でエンジニアに案内させましょう。」
 マキシは、サムの情報を元に機内で準備していた、いくつかの質問を切り出した。



「マツダイラは、元々はいわゆるチューニングメーカーですよね。他社の市販車をモディファイしてチューニングコンプリートカーを作り出す……。」
「そうです。我が社は市販車のチューンナップパーツやエアロパーツの開発、販売、及びマシンチューニングの受注やチューニングコンプリートカーの製造をおこなってきました。」
「そのマツダイラが、どうして自社製のクルマを作ろうと思ったのですか?」
「一言でいえば、趣味ですね。」
「……は?」マキシは目を丸くした。
「……つまり、ロマンですよロマン。」ケン・マツダイラは真顔で答えた。
「正規の自動車メーカーでない我々の手で、究極の市販車を創り出したいという、数ある夢の一つが、叶ったということですよ。」
「……は、はあ、なるほど……」
「うちの家系は代々大金持ちでしてね。資本金には困らなかったので、私はモータースポーツが好きでチューニングカーを作る会社を立ち上げたのです。初めはチューンナップパーツやエアロパーツの開発に力を注いでいたのですが、そのうち夢が大きく膨らんで、マツダイラにちなんだ、オリジナリティあふれるクルマを作りたいと思ったわけですよ。」
「……それが、イエヤスとタケチヨですか。確かに、インパクトはありました。」
「そうです。大事なのは個性ですよ。はっきり言ってしまえば、我々は純粋にオリジナルカーを作りたいという夢だけで、あの2台を開発したのです。だからとりあえず、売れるか売れないかというマーケティングとは無縁なんですよ。だからこそ、どこまでも独創性を追求することができたのです。」
 ケン・マツダイラはたばこに火をつけると、それをゆっくりと吸い、フーッと煙を吐き出してから話を続けた。
「ミスターレッドフォード、今の自動車業界は、どこも似たり寄ったりだとは思いませんか?特に日本はね。」
……おおざっぱな目で見れば、確かにそうとも言えなくはないですが……。」
「少し前までは素晴らしい個性が生み出されてきました。今でも採用されているDO−HCやロータリーエンジンは画期的な個性といえるでしょう。」
「そうですね。」
「しかし今では多くの規制に縛られて、性能や機能はおろか、スタイリングまで同一化傾向にあります。我々はそういった現代の自動車業界に、一石を投じたかったのですよ。ロマン派としてね。」
「…………」
……昔は良かった。まだ自動車産業がここまで大きくなる前、自動車メーカーはおのおのが自分たちで考え、あらゆる工夫と想像力豊かなアイディアを駆使して、完全なる自社製のクルマを作り上げたものです。そしてそれこそが、自動車メーカーのアイデンティティだった。もちろん全てが初めての試みで、失敗も数え切れないほど多かった。しかし、それがいよいよ完成したときの感動は、何とも例えようのないものだったでしょう。スバル360などがそのいい例でしょうね。」この後マキシは、およそ30分ほど、延々と日本の自動車産業むかし話を聞かされる羽目になった。
 
「……だから我々はどの自動車メーカーにもマネのできない、いや、むしろ売り上げを除外視した我々だからこそ作ることのできる、大胆なクルマを作りたかったのですよ。」
「……なるほど。」
「こういった試みは過去にもチャレンジした会社がありましたね。日本では童夢−零やジオット・キャスピタなどがそうです。しかし、彼らは素晴らしいクルマを開発しましたが、いずれも市販化には至らなかった。そして我々のイエヤスとタケチヨは、市販化を実現させた。いちチューンナップ会社の一つの目標とも言える、オリジナルの市販車を生み出すという試みに、我々は成功したのですよ。アメリカでいうならば、そう、タッカーのようにね。」
「……しかし、イエヤスとタケチヨは、車両本体価格が共に日本円で5千万円以上もするクルマですよね。果たして買う人はどれほどいるのでしょうか?」
「あまりいないでしょうね。」ケン・マツダイラは即答した。
「イエヤスとタケチヨは限定車ですから、乗りたい人だけ乗ればいいんですよ。先ほどもお話ししたように、我々はマーケティングには無縁ですから。」
「…………」
「ミスターレッドフォード、マツダイラの販売キャッチコピーをご存じですかな?」
「……いえ、存じ上げません。」
「『乗らぬなら、私が乗ろう、マツダイラ』ですよ。」
(……意味がわかんねえよ……)マキシは途方に暮れた。
「何台生産されるのですか?」
「それぞれ500台ずつです。」ケン・マツダイラはパーの手を出して見せた。
「……た、たったの500台?つまり計1000台……」
「ええ、それ故に、我が社の優秀なコンサルティング・マネージャーの分析では、イエヤスとタケチヨはいずれ全て完売するという結果が出ています。」
「……と、いいますと……?」
「ふふふ、スカラシティ・バリューというヤツですよ。」
「……希少価値……ですか。」
「それだけじゃない、性能は折り紙付きですからね。だから売れなかったら売れなかったで、眠らせておけばいい。一度大舞台にはお披露目した。つまり自動車の歴史に、確実にその存在は書き加えられたというわけですよ。」
「デトロイドのことですね。」
「そうです。そして眠り続けるクルマは、いずれ幻となる。幻は、やがて人々の抱く幻想へと変わるのです。」ケン・マツダイラはたばこの煙をくゆらせ、遠い目をしながらそう語った。マキシは思った。この人はおかしい。あまりにも大きな夢を抱いている、単なる金持ちの道楽者なのだ。道楽もここまで来ると誰も止めることはできないだろう。そこでマキシは、こんな質問をしてみた。
「ミスターマツダイラ、あなたの最終目標は、いったい何ですか?」
「……ずばり、天下統一ですかね。」
「……は????」
「ホンダはF1を制し、そしてマツダはル・マンを制した。我々もそれに続き、いずれはF1界の英雄アイルトン・セナのような、優秀なドライバーと仕事をしたいものだね。」
「……セ、セナですか?」
「はっはっは!夢は果てしなく大きく持たないとね。もし実現したら、そのときはぜひともまた取材をよろしくお願いしますよ、ミスターレッドフォード。」ケン・マツダイラは冗談っぽく高らかと笑った。
(……本田宗一郎かあんたは……)マキシは聞くんじゃなかったと後悔しつつ、本題に戻るためにテーブルの上の原稿に目をやった。そこへ、内線が入った。
 
「社長、カッズ・クーン様がお見えになられました。」
「……わかった。」ケン・マツダイラは内線にそう答えると、マキシに向き直った。
「ミスターレッドフォード、残念ながら時間です。次の約束があるので。」
「ええ?し、しかしまだ……」マキシは突然の取材打ち切りに露骨に慌てふためいた。
「あなたと今日ここでお話しできたのは非常にラッキーでした。ニューヨークからあなたがお越しになるという連絡をいただいたのは、おとといのことでしたからね。」
(僕がまだ機内にいる頃だ……)マキシは思った。
「その国際電話がなければ、あなたは今回私と会うことはなかったでしょう。私はこれからしばらく本社を離れることになりますから。その前に、あなたのために何とか1時間だけ時間を作ることができました。」ケン・マツダイラはいそいそとロッカーからマツダイラのスタッフジャンバーを取り出して、ネクタイにワイシャツ姿の上から羽織りながらそう言った。
 マキシは思い出した。(そういえば約束は1時間だけだったな。取材はたいてい予定時間を超過するものだが、きっちりと約束通りの時間で切り上げられたというわけか。しかし、うちの取材よりも優先する約束があるとは、全米でトップクラスの発行部数を誇る『モーターワールド』も、ずいぶんと軽く見られたものだな……。)
「ではミスターレッドフォード、失礼させていただきます。後のことはエンジニアにお聞き下さい。イエヤスとタケチヨの性能に関しては、私よりも現場の開発スタッフの方が遙かに詳しいですからね。」
「わかりました、貴重なお時間を割いていただきありがとうございます。」二人は会ったときと同じく握手を交わし、ケン・マツダイラは部屋を後にした。そして入れ替わるように、彼の秘書と思われる女性が入ってきた。
「ではレッドフォードさん、工場の方にご案内いたします。」聞き覚えのある声だった。そうだ、先ほどケン・マツダイラとの対談を打ち切るきっかけを作った、あの内線の声だ。と、マキシはそこでハッとして女性を振り返った。
「……ちょっと待った!確かさっき、内線でカッズ・クーンが来たと言っていたね?」
「……ええ、ミハエル・カッズ・クーン様です。」女性はきょとんとした顔で答えた。
(……ミハエル・カッズ・クーン!……ドイツF3チャンピオンが、なぜここに……?)マキシは慌ててケン・マツダイラの後を追った。
 
 
 1台のマイクロバスがマツダイラ本社の正門をくぐり、社屋を後にした。窓にはカーテンが敷かれ、中の様子がわからないようにされていた。マイクロバスが通過して程なくして、マキシは婦人用の自転車でマイクロバスを追った。もちろん敷地内に止めてあった自転車を、勝手に拝借させてもらった。山道から県道に出ると、ちょうどマイクロバスの後ろ姿がカーブに消えていくところだった。自転車には普段から乗っているので自信があった。マンハッタンに住んでいると、時に自転車の方が遙かに機動力を発揮するものだ。しかし足の長いマキシにとって、日本人用の婦人用自転車は非常に乗りにくいものだった。幸い県道は下り坂だったので、マキシはペダルから両脚を離して足を開き、坂道に身を任せて勢いよく県道を下っていった。
 県道はやがて平地となり、大通りに合流する。車輪の小さい自転車では、マキシがいくら頑張ってもマイクロバスにはとうてい追いつけそうになかった。マキシは運良く通りかかったタクシーを呼び止めると、自転車を乗り捨ててタクシーに乗り込んだ。
「あのマイクロバスを追ってくれ。」



 バスは街を抜け、静岡を南北に貫く安倍川を上流へと向かい、山を登っていく。かれこれ1時間ほど走ると、やがて山間にある大きな施設が見えてきた。施設の入り口には門番の詰め所があり、かなり厳重にガードされているようだった。バスはその施設の入り口へと、ゆっくりと入っていった。マキシを乗せたタクシーは、その手前で停車した。
「ここは、何の施設ですか?」マキシは運転手に尋ねた。
「ああ、サーキットですよ。私も詳しくは知らないんですけどね。この辺はあまり人が来ないところだからねえ。」
「ありがとう、ここでいいよ。」マキシはそう言ってタクシーを降りると、門番のいる入り口とは反対の方向へと歩き出し、施設を外側から回ってみることにした。
 
 かなり大規模なサーキットのようだ。遠目から見ると陸上競技場のような感じだったが、マツダイラの秘密のテストコースなのだろうか……。マキシは林を分け入り、小枝をぱきんぱきんと踏み鳴らしながら、外壁沿いを歩いた。しばらくすると、突然外壁の向こうからグオングオンと嘶くエンジン音が聞こえ始めた。
……なんだこのエグゾーストノートは……これは……市販車のものじゃない……!)
 やがて
エンジン音は連続的に響き始め、謎のマシンがコースを周回し始めたことを告げた。音はシフトチェンジを繰り返しながら、時折タイヤのスリップ音を響かせて徐々に近づいてきた。それがマキシのいる外壁にもっとも接近して通り過ぎていったとき、マキシはおぼろげにその音の正体を理解した。
(……これは単なるチューニングカーなんかじゃない、このパワフルな甲高い音は
……まるでフォーミュラカーじゃないか……)
 マキシは、どうしても外壁の向こうにある秘密を見たいという衝動に駆られた。おもむろにショルダーバッグから一眼レフのカメラを取り出すと、レンズを望遠に付け替え、もっとも外壁に接近した木を選び、登り始めた。木登りなんて子供の頃以来だ。しかもまっすぐに伸びる杉の木を登るのは、至難の業だ。マキシは枝の折れた部分が手に刺さるのをこらえ、太い枝を探しては掴み、力を振り絞って少しずつ木をよじ登る。体力にはそこそこ自信があるが、さすがに30を過ぎてからの木登りは堪える。それでもマキシは何とか外壁と同じ高さまで登り切り、そして一旦下を見下ろし、自分が登ってきた高さがあまりにも高いことに思わずぞっとした。マキシは鼻から大きく息を吸い込むと、意を決して外壁の縁に飛び移った。かろうじて両腕で外壁の縁にしがみつき、マキシは必死で片足を上げ、何とか縁に脚を引っかけようと奮闘した。そのたびに大事なカメラが何度も揺れてコンクリートの外壁に打ち付けられた。カメラも心配だが今は何としてでもここをよじ登らなければ命にかかわる!マキシはようやく脚を縁にかけ、外壁を登った。
 
 そこから見えた光景は、驚くべき光景だった。それは紛れもなくサーキットだ。しかもそれは、アメリカのモータースポーツの聖地インディアナポリスを思わせる、正オーバルの内側にインフィールドのセクションを持つ、高・中・低速域でのテストを可能にする理想的なテストコースだったのだ。
(……おいおい、いちチューンメーカーが、ここまでするか?普通……)マキシはそのあまりの凄さに、ただただ呆気にとられるばかりだった。
 そのオーバルの向こうから、先ほどから甲高いエグゾーストノートを響かせている主が、今まさにこちらに向かって来ていた。マキシは慌ててカメラを構えファインダーを覗き、それを捉えた。マキシの目に映ったのは、太陽を浴びて眩しいほどに輝く、黄金のフォーミュラカーだった。そのマシンに乗るドライバーのヘルメットを確認したマキシは、それが彼の思った通り、今年ドイツF3でチャンピオンを獲得した、ミハエル・カッズ・クーンのものであることがすぐにわかった。マツダイラは驚くべきことに、すでにF3チャンピオンまでテストドライバーとして抱え込んでいたのだ。マキシは夢中になってシャッターを切り続け、マシンを追い続けた。そしてマシンが通り過ぎた後、マキシはカメラを降ろし、愕然とした。
(フォーミュラカーどころじゃない……あれはどう見ても……!)
 
 

 身体の至る所を痛めてよろよろとホテルに戻ったマキシは、包帯が巻かれた手で受話器を取り、すぐさま国際電話を掛けた。もちろん相手はニューヨークのサムだった。
「編集長!マツダイラはとんでもないものを走らせていましたよ!遠くからしか確認できませんでしたが、あれは間違いなくF1用のマシンです!」マキシは興奮し、半ば上擦った声でサムに今日目撃したことを伝えた。
「……そうか、やはりな。」サムはうなるような声でそう答えた。
「お前が言うのなら間違いないだろう。お前のマシンを見極める目は確かだからな。」
「もちろんです!それも今年のF1マシンに非常に近いものです!」
「……で、写真には収めたんだろうな。」
「当たり前じゃないですか!」
「じゃあ早急に現像して、画像だけ先に送ってくれ。原稿はあとでいい。クリスマス特集号のメインを差し替えるぞ。」
「わかりました、プロストはサブですね。……それで編集長、そのマツダイラのF1マシンに乗っていたドライバーは、今年ドイツF3でタイトルを獲ったカッズ・クーンでしたよ!」
「ああ、ミハエル・カッズ・クーンが極秘裏に日本に渡ったことは掴んでいたよ。」
「……編集長、他にも何か知っていますね。」
「……まあな。実はつい先ほど、ジュネーブに送ったエージェントから連絡が入った。日本のあるチームがFIA(国際自動車連盟)から、F1の12番目のチーム枠を得たとな。つまり遅くとも2〜3年後に、新たに日本のチームがF1に参戦するということだよ。」サムの言葉を聞き、マキシは今、はっきりと確信したのだった。
(……ケン・マツダイラは本気だったんだ……。天下統一とは、つまり世界最高峰のモータースポーツ、F1を征するということか!そしてアイルトン・セナと組むという話も、冗談ではなかったんだ!……まったく、どこまでもクレイジーな男だ……)
 
(つづく)

 

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